第4話 「思い出の中に」
旅に出るんだ、というレダの説明を聞かされたシオナーハは、たった一言、
「早いなぁ」
とだけ言って、レダの前で、テーブルに広げた袖の上に突っ伏した。
その肩を叩こうと伸ばしたレダの腕が、触れる寸前でどうしようもなくさまよって、結局は引っ込められる。暮れていく日の
突っ伏したまま、シオナーハが湿った声で何かを言う。
「気ぃ付けや」
そう聞こえた気がした。
初夏でも、森は夕方になるとあちらこちらに虫の音を置くようになる。東屋の外、道とは反対側の森を見ていたレダが、ジッ、ジーという鳴き声を数えて十数回になったあたり、ゆっくりとシオナーハが起き上がった。
レダの見ている前で、彼は「あついわ」と言って腕をまくる。机上に広がっていた袖が、テーブルと身体との隙間に落ちる。そうしてあらわになった白い腕は、言葉とは裏腹に初夏の風にうす寒そうで、けれどもレダはそれを言ったらシオナーハを困らせてしまうような気がして、ただ「そうだね」と返した。
「いやぁ、けど良かったわぁ」
もう、いつも通り。
「良かったって?」
「僕来るのが今やなかったら、もう会えへんかったやろなぁ思うて」
「あー、確かにそうだね。ていうか、いつもは1ヶ月に2回くらい来るのに、今回は来るの遅かったよね」
レダは彼が前に村に来たのはいつだっただろうと指折り数えながら日にちを遡っていって、そして20を超えたあたりで分からなくなり、やめた。ただ、それでも普通より長い間が空いたのは間違いがない。しかもシオナーハはさらに続けて、今回の訪村も無理をおして来たものなのだと語った。
「街があないなことになってるて、誰が思うかいな」
穏やかではない言葉。
これからその街──旧人族側の街──に行こうとしているレダにとっては、そこでの出来事は何としても知りたいこと。もしかしたら、時間と危険を考慮しても魔族側に行った方が良い、ということもあるかもしれないのだから。
レダはその細い耳にかかっていた髪をよけ、背筋を伸ばして、大変やったわぁと一人頷いているシオナーハを見すえた。
「街で何があったの?」
「知りたい?」
ゆっくりと首を縦にふる。
するとシオナーハは唐突に2本の指を立てた。
「銀貨2枚」
レダの目が見開かれる。
「銀貨2枚、情報料や。僕は商人やさかい、売れるもんは何でも売るんやわ」
「……普通に教えてくれるんじゃないの?」
パチパチと瞬く目を向けられてもシオナーハはその三日月のような微笑みを崩さず、2本の指を立てたままで「レダはんも一人前の旅人になったんやしなぁ。僕の立派な取引相手やわぁ」と語りかけてくる。その顔は、いつだっただろう、彼が父アーネストと話していたときの顔に、とてもよく似て見えた。
レダは、旅に出てすぐの──しかも初めての──取引に、これで合ってるのかな、と
「おおきになぁ。ほな話すで──」
並べられた2枚に一瞥、それだけで口を開いたシオナーハを見て、レダは片方金貨にするのが礼儀だったのかも、と時を戻したい気持ちにさせられたのだった。
天が熱を失って、冷たい無音が東から滲み広がり、雲が黒く染まってきたころ。役目を終えて西へと果てていく最後の火が、その残暉を森に吸われて、大地を照らす力を失いはじめたころ。
東屋、柱にかけられた火魔法の灯りで話を続けていたレダとシオナーハにも別れ時がせまってきていた。レダはともかく、シオナーハは今日のうちにティーエ村に到着しておかなければいけない。
魔物が街の周辺に現れて交通が滞ってしまって、という話のあとにあちらこちらへ伸びていた会話を、彼は綱でも
「まぁ言うた通り、街のあたりで魔物が出るいう話やさかい、それにだけ気ぃ付けて、楽しんでーな」
「うん、分かった」
「それと……あ、そうや」
シオナーハが椅子から立ち上がる。そうして後ろの柱に繋いでいたロバへと歩みよると、彼はその背にかかっていたバッグを一つ下ろして、それを持って戻り、座っているレダの隣で中身を取り出した。コロコロと出てきたのはいくつかの宝石。ゆらゆらとした火魔法の灯りのもと、水晶のような透きとおった石の中に金色の
「魔石?」
「小さい、な。せやから用途もあれやけど、【
「それに景色を籠めて、お父さんに送るってことだよね」
私もそうしようと思ってたんだ、とレダは答える。
【映写】は、目の前の景色を絵画のように切りとる魔法。これを魔石に封じて届ければ、自分がどんなところを訪れたのか、何を目にしたのか、誰と出会ったのか、そんな旅路での出来事を、村にいる父親にまさしく見せることができる。私とお父さんとのやりとりにはこれが似合ってるよね、とレダは旅支度の頃から思っていて、今もマジックポーチにいくらか小魔石を入れてあった。その数が増えるのは、とてもありがたい。
それを聞いたシオナーハは、またロバのところへ戻って新しく革の袋を持ってくると、テーブルの上の小魔石をそこに移し入れ、もともとのバッグの中に残っていたのも全部そこに入れてしまって、それを丸ごとレダに手渡した。
「いいの? こんなに」
いくら小さいといっても魔石は魔石。魔石というものは手に入れるのにそれなりのお金がいるのだということを、レダは父アーネストの独り言から──魔石が高いせいで研究や魔道具づくりが思うように進まないという文句から──知っていた。ましてこんなにたくさんあったら、結構な値段になってしまうはず。
けれど、シオナーハはレダの頭を撫でながら言うだけだった。
「ええで」
「……そうなの?」
「うん、ええんや。ええから、それで、ようさん魔石送ったりやぁ」
一語、一語のたびに、彼はレダの頭を優しくたたく。その指は父親のよりも細くて、力も感じない。
──でも。
記憶の奥深く。小さいころ、世界のいろんな場所の話を聞かされながら、この手に寝かしつけられたような。
椅子に座ったまま撫でられていると、その記憶が溶け出して広がって、溢れた分が「うん」と口をついて出たのだった。
森はいよいよ夕日を吸いきって、木々の幹の奥に地平線が紅色を帯びているだけで、辺りは昼間とは比べようもないほど暗い。けれども夜には夜の明かりがあって、天にかかる光の河と、その水滴が飛び散ったかのような小さな星々、そしてもう少しで満ちるだろう月が、足元を照らして道を見せていた。
魔石の他にもいくつかを渡したシオナーハは、レダからどうしてもと頼まれて【映写】に撮られたあと、柱に繋いだロバの隣で彼女が去っていくのを見送る。
「なあレダはん」
マジックポーチを肩にかけ、ブーツの紐を結び直していたレダへ、シオナーハは背中から声をかけた。
「別れの挨拶って、知ってはる?」
「え、分からないかも」
「まぁ、ようさんあるんやけど、アーネストはんとクローセルはんが使ってはったのがあるんや」
シオナーハの言葉に、レダは靴紐から手を離して向き直る。
「お父さんと、お母さんの?」
旅人だった父と、話でしか知らない母。その二人が使っていたという、挨拶。
その言葉をこれから旅に出る自分が知るというのは、二人のカケラが自分の中に入ってくるような、二人から生まれたこの身体にその心が宿って、自分を大人にしてくれるかのような、くすぐったい気持ちだった。
レダと顔を向け合って、シオナーハが言う。
「旅人いうんは、どこに行くかも分からん。生きてはるのか、死なはったのかもよう知らん。まして同じ国、同じ街にいてすれちがったりするんや。顔を合わせて、お互い分かるなんて滅多にない。普通のことやない。旅人に会うんは奇跡みたいなもんなんや。せやから──」
それは、シオナーハの、彼自身の言葉のような気がした。
「──思い出の、中に」
「ん……うん!」
バッ、と。
レダは、その場でクルッとシオナーハに背中を向けて、堪えきれないとでもいうように、遠く、最初の目的地である街の方へと駆ける。
そして途中でパッと身体を止めて振り返ると、彼女の人影は右手に持った杖を高く掲げて、大きくふったようだった。
「私のこと、ちゃんと『思い出の中に』入れておいてね! バイバイ! またね、シオナーハさん!」
「……はは、『またね』言うたら矛盾してるやんか。まぁええか──レダはんも気ぃ付けてぇな! またなぁ!」
うん、という返事を遥かに聞く。
そうして彼女の背中は、まぶしくにじむ星天の下、黒く広がる低木たちの影の間の、地平線を貫く土の
「僕も行こ」
濡れた袖を垂らして、彼もまた振り返る。
真っ黒の森は闇が形を持ったかのようで、それを背景にオレンジに浮かび上がる東屋は、さっきまでの「家」の感覚が嘘のように、外から見ると小さかった。ロバも鳴かず、虫の音も消えて、ただ夜風だけが冷たい。
柱に繋いでいたロバを解いていたシオナーハは、その途中でテーブルの上に小さな光を見つけた。
情報料と嘯いてレダから銀貨2枚を貰っていたことを思い出す。
「魔石と僕の名刺も渡したし、許してくれへんやろうか」
テーブルに歩み寄り、その上の銀貨を手に取って、自分の酷い言い分を謝りながらそれを眺めていた彼は、そこで思いもしなかったことに出会った。
「あれ? これ違う銀貨やないか?」
顔を近づけて、じっと刻印された絵と文字を見る。
見覚えはあった。国々を巡って商売をしていた、まだ駆け出し商人だった頃にどこかで見た記憶。ただ、この辺りに拠点を移してもうしばらくになって、それで思い出せないくらい前ということは、少なくとも近くでは使われていない──もっと言えば、近辺では「使えない」貨幣。
その由来には、すぐに想像がついた。
「アーネストはんやろうなぁ」
旅をしていた頃の、どこかで使った貨幣の残り。今のティーエ村に住みついてからは物々交換ばかりだったのもあって、あまり深く考えずに手持ちのお金を娘に渡してあったのかもしれない。
シオナーハは、手の中の2枚の銀貨をもう一度だけ見つめた。
「この2枚だけならええけど」
もしも持っているお金がことごとく他国のものだったなら、彼女は最初の街から失神ものの苦労をすることになるかもしれない。近くの地域のならともかく、記憶もないくらい遠い国のお金は、まず間違いなく使えない──つまり、無一文ということになってしまうのだから。
シオナーハは東屋の屋根の下から出て、レダの走っていった道を凝視する。星と月の光だけ、闇が伸びていて、もう彼女の明かりは見えない。どうしようもない。
シオナーハは諦めて東屋に戻ると、生まれも知れない銀貨をポケットに入れ、椅子に置いていたバッグを肩にかけて、それから解き途中だったロバの縄を終える。
「まぁ、僕の名刺があるさかい、なんとかなるやろう」
そう呟いて、東屋の灯りを消した。
『映景写色』〜旅路の上のハーフエルフ〜 班白扇 @Hakusen_Harumaki
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