第3話 母のマジックポーチ
レダは今までほとんど村から出たことがない。まだ自我もはっきりしていない頃に旅へと連れ出されたことはあったもののの、それを除けば年に数回くらいがいいところ。16年間の人生を合わせても全く大した数にはならない。
だからレダには、自分は人をあまりにも知らなさすぎるという自覚がきちんとあった。しかしそうして慎重になっている彼女をして、このシオナーハという人物は変わった人と言わざるを得なかった。
「いやぁ、お久しぶりさんやなぁ」
レダが身を乗り出してそれを解き、彼は「おおきに」と言って袖を手元に引きよせる。
「これなぁ。えろう東の、
はぁ、と彼は息を吐き、広がった袖をひらひらとさせた。
「あちらはんは布がようさんあるらしなぁ」
俯いた彼の狐色の髪が、その糸のような目元を隠す。
──レダの目がおかしいのでなければ、ついさっきの歩いている時も、彼はその地面ギリギリまである裾を踏まないように注意していた。苦労していそうなのにどうして褒めるんだろうと、そう、レダは彼を見て思う。
「どうしてそれを着てるの?」
「へえ、ええ質問やね。それはなぁ、僕が商人やさかい、こないなことしてるんやで」
シオナーハはその長い袖をテーブルの上にのばして、そこに頬杖をついてうすら笑った。
ほぼずっと村の中で生きてきたレダと、およそ森とは無縁な「変な人」シオナーハ。二人が知り合いなのは、シオナーハがティーエ村を訪れるほぼ唯一の商人だからだった。
エルフの暮らしが自分たちの森の中だけで完結していたというのは、もう数世代前の話。レダが生まれ育ってきたティーエ村も同じことで、小麦や本などを村の外から手に入れ、その代わりに森の産物などを外へと放出していた。そして、その交換・交易を実際に行っているのがシオナーハという商人だった。
彼が村を訪れるのは月に二回ほど。そうして、まずは外で仕入れてきた品を村長に渡し、逆に村長が集めておいた村の物を受け取る。この物々交換──というのもティーエ村の中でお金が使われていないから──が終わると、シオナーハは、今度は村人の家を訪ねてまわり、村として頼むわけではない個人個人の欲しいものをやり取りする。
そしてその小さな商売の最大のお客こそがレダの両親──父アーネストと母クローセル──であり、それゆえに、シオナーハとレダはレダが産まれる前からの関係だった。彼は家を訪れるたびレダに世界中のいろいろの話をして、彼女は成長するほどにそこへ熱中していった。天空に浮かぶ遺跡、人口100万を抱える都市、深い海の底にあるという花畑──シオナーハも、目に星を輝かせて話を聞くレダを見ると、多少の嘘を混ぜてでさえ物語を伝えずにはいられなかった。
ただ、彼がレダを連れて外に出ることには父アーネストが反対していて、物語はずっと言葉のまま、新しく増えることもなかった。
それが、今日は少し違う。
「いやぁ、外で会うん初めてやないか?」
「うん、そうだよ。村じゃ毎回会ってたけど」
「村はなぁ。アーネストはんの研究材料、紀行文の出版、他にもようさんあったさかいになぁ」
風が東屋を通り抜ける。レダの目の前、頬杖をついているシオナーハの、男にしては長い狐色の髪が乱れて、その目に掛かる。彼はしいてそれを払うことをしないで、むしろ心地よさそうに目を瞑って語る。
「そやけんど、まあ僕が通ってたんは魔道具の素材を渡すんが一番の理由やろうなぁ。アーネストはんもクローセルはんも、えろう素材にこだわりなはるお人やったさかい」
「そうなの?」
そやで、と返事。
それからしばらく、レダはシオナーハの滔々とした思い出を聞かされた。どれも登場人物は同じで、レダの両親と、それから二人に散々な苦労をかけられるシオナーハ。ドラゴンの鱗を持っていったら品質が悪いと突き返された話や、珍しい薬草を見つけるために半年近くも市場を探すことになった話、他にもいくつかを語りながら、シオナーハは色んなところで「あれはものすごう大変やったわぁ」とレダの両親への恨み言を挟んでいた。けれどもそれは、彼が二人の頼みごと──時には無茶ぶり──を聞いていたからあったこと。
容赦なく「これではダメだ」と告げる父、素材でも対価でも粘るシオナーハ、二人の間を取り持つそぶりをして、実は父の願いが叶うようにしていたという母。
ティーエ村の家の前に置かれた素材を囲って言い合う中に、けれど、自分の姿は影もない。
「いいな」
「……すまんなぁ。酷なこと言ったわ」
「ううん、違うの。寂しいとかじゃなくて。ただなんていうか、そこに居たかったっていうか、会ってみたかったなっていうか」
レダにしてみれば、見たことのない──産まれたその時には顔を合わせたはずでも、もう記憶に残っていない──母親と、今とは雰囲気が違って少し尖っている父親と、それからちょっと変わった目の前の商人の、もう20年近く前の話。
本で読む物語のようなもの。
「それやったらええけどなぁ。まぁ僕でよければいつでも話すさかい、気軽に聞いてや。クローセルはんもえろう愛してはったし、その話もようさんあるわ」
うん、と彼女は頷く。
「ありがと、シオナーハさん──といっても、しばらくは会えないんだけど」
そう言ったレダに、シオナーハは頬杖をやめて身体を起こし、そうして「それはまた何でや?」といくぶん背筋を伸ばした。
そしてそれへの答えなのか、レダが何も言わず肩にかけていたマジックポーチを下ろしてテーブルに置く。
シオナーハは、その深緑色のカバンに見覚えがあった。
まだクローセルが生きていて、レダを身籠って間もなかった頃。お腹の中のレダに向かっていろんな話をする商人シオナーハに、父であるアーネストは時々──酒に酔ったりした時に──不満をぶつけてきていた。
「そんなこと言われたかて。あんたはんが旅人やさかい、その子も同じうなる思うけどなぁ。そうやったら、僕が話しても同じや思わんかいな。それに、まだお腹の中やで?」
「むぅ」
シオナーハが
三人でお酒を飲むたびにこんな話が出て、それが続いたある時のことだった。
「それじゃあこうしましょう」
初めてクローセルが話に入った。
その目には熱があって、思いつきの話でないことは明らかだった。
「アーネスト、この子もきっと、あなたに似た旅人になります。だからシオナーハさんは存分に語ってあげて下さい。その代わりに──ではないですけど、いくつか素材を用意してほしいんです」
「ここでその言葉を聞くは思うてなかったなぁ。ええけど、集めてどうするん?」
この夫婦の素材へのこだわり具合を思い出して半目を向けたシオナーハに、彼女はまだふくらみ始めたばかりのお腹を撫でて、微笑んだ。
「この子が大きくなって、もし本当に旅に出ることになったなら──その時は、贈り物の一つくらいあってもいいでしょう?」
それからシオナーハは、今までの素材集めは家の庭先でやっていたのではと感じるくらいの作業に従事して、相変わらずお腹の中の子ども──その頃には「レダ」という名前をもらっていた──に話を聞かせながら、クローセルの満足いくものを揃えきり、そうしてそれをアーネストが加工して、彼女が魔法を織り込んで、そういう三人の想いの延長線上、交わるところに完成した魔道具が、マジックポーチだった。
この子が旅立つときに渡してほしいと、レダを産んだ直後に息を引き取った彼女が、ほとんど音のない、煙のような声で遺言したもの。
それが今、シオナーハの目の前、テーブルの上に、後ろから差しこんでくる夕陽の赤に照り映えて、じっと寝そべって佇んでいる。
「待ってや。なんで今、ここにこれがあんの?」
はっと、シオナーハは視線を上げる。
そのとき、幼い頃からずっと見てきたレダの顔は、その長い金の髪が、白い肌に夕焼けがぼうっと灯っているところへ風をうけてかかって、そうして少しばかり隠されると、なぜかひどく彼女の母親に似ているような気がした。
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