いろはにほへと

MURASAKI

ことばあそび

――私は、あなたのことが……


 その言葉を最後まで聞く前に目が覚めた。

 うつらうつらとまた重くなる瞼に身を任せ、ナギはまた目を閉じる。


 まなこに映った景色は、小さな窓から見える灰色に曇った空からぱたぱたと落ちる雫……あれは雫だったのだろうか。雫と言うには……


「ナギリア! 大丈夫ですか?」


 再び目を覚ますと、見慣れた天蓋ベッドの上だった。

 桃色のウエーブが頭上から足元へと流れている。


「ナギリア」


 そう呼んだ男は、ナギの手を握り顔を覗き込んだ。このひとは、と頭の中が少し混乱したがすぐに名前を思い出し、絞り出すような声で名を呼んだ。


「ヴィク……ター」


 名を呼ぶと、男は握っていた手を更に強く握り満面の笑みを浮かべた。目元にはうっすらと涙が光っているように見える。


「もう、もう二度と自ら命を落とそうとしないでください」


 今度は、はっきりと透き通った雫が頬をつたって落ちていくのが見えた。


――そうだ、思い出した。この男は私を裏切り、他の女を選んだ。なのに、どうして私の元にいるの? 恋しい女のところに行けばいいのに。


「わたし……」


 かすれた声で問おうとしたが、上手く声が出なかった。聞いてもいないのにヴィクターが饒舌に語りはじめる。ナギが少し身を起こして見ると、彼の後ろには自身の父母とそして見慣れぬ男が二人……服装からすると尋問官のようだった。

 ヴィクターの言い分はこうだ。

 ナギが浮気をしたから、自分も浮気をした。しかし目の前でナギが毒を飲み、自らの命を落とそうとして目が覚めた。あんな女はどうでもいい、自分はナギこそを愛している、のだそうだ。


(そんなの真っ赤な嘘だわ。わたしは浮気なんてしていないし、毒は知らぬ間に飲み物に入れられていたのよ。殺そうとしたくせに、何を饒舌に語るの?)


 気持ち悪くて手を振り払おうにも、そうさせまいと強く握られていて、ただでさえ白いのに指の先は血の気が引いて青白く変色していた。違うと言いたくても、声が上手く出ない。


「ああう、ち……がっ」


 何とか無理やり声を出そうとして、ナギは目を見開いた。両親にも尋問官にも見えない角度で自分の顔を覗き込んだヴィクターは、憤怒の表情を浮かべていた。

 その顔を見て気持ちが悪くなり、ナギはその場で吐いた。

 吐しゃ物がかからないようにと手をパッと放したヴィクターは、笑顔で心配そうな声を出してメイドを呼んだ。そして、恋人は調子がまだ悪いようだから、暫くそっとしておこうとその場から立ち去った。


――あんな男を本気で愛していたなんて……


 酷く痛む喉をさすりながら、千年の恋も冷めるかつての恋人の顔を思い出す。十二歳の時に婚約し、お互い惹かれ合って成人したらすぐに結婚するはずだった。

 しかし、その恋は裏切られてしまった。殺人未遂という結果は、彼らの思惑からは既に外れてしまっている。きっとまた、殺そうとしてくるはずだとナギは思い、ショックで過呼吸を起こした。


 布団を頭まで被り、うつ伏せになって息を整える。なぜこんな方法で呼吸が落ち着くと知っているのかは分からないが、本能的にそうするのが良いと思えた。おかげですぐに息を整えることが出来た。

 震えて力の入らない足で無理やりベッドから起き、分厚いカーテンを開けて窓の外を見ると、尋問官と共に馬車に乗り、ヴィクターが帰っていくところだった。


 庭にはお抱えの庭師が手入れした花々がこれでもかと咲き乱れている。色とりどりの花を見た瞬間、ナギの脳裏にはこんな言葉が浮かんだ。


【色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ】


 ようやく自分が自分である感覚を取り戻したナギは、出したくても出ない声で呟いた。


『いろは歌……? ヴィクター……知ってるわ。のキャラクターだもの。そして、わたしは』


 ナギの言葉はそこで終わった。自分が乙女ゲームの悪役令嬢に転生していたからだ。ありもしない罪を着せられ、殺されてしまうかそのまま処刑されてしまう悪役令嬢に。そして、ヴィクターの浮気相手は“色彩ラビリンス”の主人公、アンヌだということにも気付いてしまった。


 掴んだままのカーテンをもう一度ギュッと強く握り、ナギは震えた。それは恐怖で震えているわけでは無く、なぜか笑いをこらえていた。


いろはにほへと

ちりぬるをわが

よたれそつねな

らむうゐのおく

やまけふこへて

あさきゆめみし

ゑひもせす


とがなくてしす(とが無くて死す)


 突然思い出したいろは歌の、そんな暗号を思い出したのだ。


(私にぴったりだわ、これからどちらにせよ殺されるのだから)


 日本の空はどんな色だっただろうか、思い出そうと空を見上げると目が眩み、ナギはそのまま意識を失った。



 重い瞼を開けると、まだ外は灰色の雲からと雨粒が落ちている。しかしナギが見ているのは雨粒ではなく、ビタミン剤が入った黄色の薬液だった。

 ぼんやりとした視界が徐々に戻り、傍にいた看護師が声をかけてくる。


「あら、目が覚めました? ご家族の方が廊下でお待ちですがお呼びしましょうか?」


「はい」


 水分のない唇から漏れた音はかすれて返事にもならなかったが、看護師は笑顔で頷くと扉を開け、病室の中に家族が招き入れられた。


「どうしてこんなことに」


 母親が泣きながらナギの手を掴む。

 そうだ、私は自殺をした。会社を解雇された腹いせだった。散々使い潰して毎日のように嫌なことを言われて手取りは月十三万で、ひとり暮らしでは毎日の生活で精いっぱいでたくわえが無かった。それなのに、人員整理で二束三文の金を渡され解雇されたのだ。


 生きていくのが怖かった。だから、腹いせに自殺をしたはずだったのだが、どうやら助かったようだ。

 夢を見ていたのだろう、しかし何の因果か夢の中でも死を突きつけられてしまった。大好きなゲームの中でも居場所を貰えないのかと情けなくなり、ナギは何かを訴えている母の声を遠くに聞きながら、顔だけを窓に向けて呟いた。


「浅き夢みし酔ひもせず、か」


 あれほどざわついていた嵐は去ったようで、心は凪ぎのように穏やかで何も考えられず、ナギは雲の切れ目から陽の光が差すのを目を細めて眺めていた。

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