第26話 運命の歯車

 ディアナとアリスが口論しながら街道を歩き出した、その遥か上空にて、眼鏡をかけた女性が二人を見下ろしている。


「……はい。ノタの街を離れるようです」


 女性が呟いた。彼女はディアナの担任教師、クラウディアだ。下がった眉尻は親しみやすく、生徒に人気がある。ディアナが教師の中で最も気を許している存在だ。


「ええ、『銀の聖女』ですよね。もちろん知っていますよ」


 クラウディアの周りには誰もいない。鳥すら飛んでいないのに、まるで誰かと会話しているかのようだ。


「二千年前に勃発した世界大戦。そこで

人類ヒューマニティ鬼人ヴァンパイア水棲人アクアレイス花冠人カロラータ死霊ファントム

獣人ブルーティッシュの六種の人間全ての能力を使うことができ、全種族を率いて神と戦った銀髪の聖女のお話ですよね。結果的に負けたことで存在を抹消され、二千年前から世界が始まったという歴史に改変されたとか」


 クラウディアがディアナを見下ろす。ディアナの銀髪が風になびいた。


「銀髪で、そのうえ銀の聖女と同じ力を持って生まれるなんて、とても偶然とは思えません。少なくとも、我々の革命の『象徴』とするには充分でしょう」


 そう言った直後、クラウディアはえ、と大きな声をあげた。


「……なるほど。そういう『神話』がお好みなのですね」


 クラウディアは空をふわふわと移動し、ノタの街の真上に来た。深刻な森火事が起きている北の森から大量の煙が漂ってくる。寝起きの住人たちが慌ただしく消化活動にあたっているようだ。


 クラウディアはそれらを一瞥し、ぽつりと呟いた。


「〈赤い葡ラヴィーニュ萄畑ルージュ〉」


 すると拳大の真っ赤な光の粒が何百、何千と現れ、空を覆い尽くした。ぱらぱらと雪のように舞い落ちる。辺り一帯は夕暮れ時のように真っ赤に染まった。


 レベル十の火属性魔法である赤い光の粒は、街に降り注ぐや否や、それぞれ触れた場所で局地的な火災をいくつも発生させた。たちまちノタの街は北の森をも上回る火の渦に包まれる。人々は逃げ惑い、地獄絵図となった。


 クラウディアが教鞭をとる神学校も跡形もなく焼け落ちる。しかし彼女にとってそんなことはどうでも良かった。


「指示通り、街を焼きました。これをディアナさんの犯行にすればいいんですね。ああ、かわいそうなディアナさん。敵対する鬼人ヴァンパイアと手を組み、騎士団長を殺し、挙げ句の果てには逃亡のため故郷を火の海にしたという罪まで背負うなんて」


 クラウディアが笑う。普段生徒に向けるような慈愛に満ちた微笑みだ。


「……とはいえ、アポロン様がおっしゃる通り、これが世界のためならば仕方ありません。ディアナさんならきっとここから這い上がってくれることでしょう」


 クラウディアはそう呟いて眼鏡を外し、投げ捨てた。眼鏡は火の中に消えていった。






 女神だったディアナがの転生をして、結界の内側に潜入してから数十年もの月日が経った。


「ディアナは失敗したか。やはり人間の身で神を倒すことは難しかったようじゃな」


 最高神クロノスが呟いた。暗闇を駆ける無数の光が見える。その光の中のひとつに、『銀の聖女』と呼ばれたディアナの魂もあった。


「女神の命に免じて、せめてお主が救った少女とその父親だけはこのまま生かしてやろう」


 女神だった際にディアナが盗賊から助けた二人は、仲睦まじく平穏に暮らしている。幼かった少女も今では立派な女狩人だ。今のところ、彼女らを生かしたことによる大きな乱れは生じていない。


 クロノスはディアナの魂に人差し指を向けた。失敗したら虫から輪廻をやり直すというのがディアナと約束したルールだ。再び女神に返り咲くのは数万年は先になるが、それはディアナも承諾したことだったので仕方ない。


 クロノスは彼女との約束通り、駆ける魂を羽虫に転生させようとした。


「――最高神様、お待ち下さいませ」


 そんな彼の足下に、どこからともなく現れた一人の老婆がひざまずいていた。


「お主は……何者じゃ?」


 クロノスが尋ねた。最高神である彼が一見して誰か分からないのはおかしい。少なくとも神ではない。


 老婆は薄汚い黒のローブを羽織っていた。髪は一本残らず真っ白だ。首や腕は触るだけで折れてしまいそうなほど細い。


「私は人間です。しがない欲深き老婆です」


「ただの人間がこの神界に侵入するとは。生半可な努力と執念では辿り着けぬはず。余程強い願いがあるようじゃな」


「その通りでございます。たった一つの願いを叶えるためだけに魔導の深淵を開き、いくつもの時、いくつもの次元を乗り越え、今ここに至りました。しかしながら、あと数十年ほど間に合いませんでしたが……」


「たった一つの願い?」


「ええ。それは幼少期の思い出でした」


 老婆は顔を上げた。開いているのか閉じているのかも分からない目だ。遠い過去に思いを馳せているようだ。


「父の言いつけを破り、一人で森に出た日でした。家に帰ると父が強盗に殺され、次に殺されるのは私だと震えておりました。幼い私は無力で、戦うことも逃げることもできませんでした。しかし、そんな私の目の前に、輝くような銀髪の女神様が舞い降りたのです。彼女は奇跡の御業みわざによって強盗を裁き、私と父をお救いになりました。あの光景は何千年もの月日を経た今でも脳裏に焼きついております」


 クロノスはすぐに理解した。ディアナが助けた少女と父親の話だ。この目の前の老婆は、女狩人となっている少女の数千年後の姿なのだ。


「父は天寿を全うし、私の子は孫を産み、あとは命が枯れるのを待つのみでした。しかし死が迫るにつれてひとつの後悔が日に日に肥大化し膨れ上がり、このままでは死ねぬと、私をかき立てたのです」


 老婆の目から一筋の涙が溢れた。


「たった一言で良いのです。たった一言、女神ディアナ様にお礼を言いたいのです。おかげで私は父と幸せに暮らすことが出来ましたと。しかし、彼女はあなた様が命じた任務に失敗し、今から羽虫にされようとしている」


「それがルールじゃからな」


 クロノスがそう言うと、老婆は枯れ枝のように細い腕で涙を拭った。弱々しく立ち上がる。


「一介の人間が、最高神様へ意見するなど身の程知らずも甚だしいことは自覚しております。ですが、是非私に願いを叶える機会を頂けませんでしょうか?」


「お礼を言いたいということか? ディアナはまず虫になるが輪廻を繰り返したのち、いずれ人になる。それまで待てぬのか」


「もう私には時間が残されておりません。ご覧のように老いてしまっております。持てる全ての力を振り絞って、ここに参った次第です」


「ふむ」


 クロノスは考えた。神界のルールに反するが、ディアナとこの老婆を引き合わせてやりたいと思った。単なる人間がこれほどまで魂を磨き、神の領域に到達した努力と信念は称賛に値する。神界にいるどの神にも不可能な所業だ。


「お主は罪を犯さず順調に輪廻を繰り返せばいずれ女神になったであろう人材じゃ。その未来を棒に振ってでもディアナに会いたいか?」


「愚問にございます」


 老婆はクロノスを真正面から見据えた。瞳に信念の火が灯っていた。


「良いじゃろう。最高神の名の下に、ディアナに与えた贖罪のチャンスをお主にも与えてやろう。お主と、たった今死んでしまったディアナを、もう一度転生させる」


 クロノスがそう言うと、老婆は両手を擦り合わせ、何度も頭を下げた。


「ありがとうございます……! 感謝いたします……感謝いたします……!」


 感激に打ち震える老婆に、クロノスは人差し指を向ける。


「お主らが転生するのはディアナが死んだ二千年後じゃ。転生後のディアナは前回同様、『人間を逸脱しない範囲で高め』に設定する。。ただしお主の能力は並じゃ。ディアナの失敗で異世界の神に怪しまれておる可能性が高いからの。困難な道になるじゃろう」


「承知いたしました」


「最後に、お主の名前は何と言う?」


「アリスです。私はアリスと申します」


「アリス、ディアナを助けてやれ。三度目はない。正真正銘、最後のチャンスじゃ。頼んだぞ」


「五体が千切れようとも、私はディアナ様をお守りいたします……!」


 鈍い光がアリスの全身を包んだ。クロノスの転生魔法によって、アリスとディアナ、二つの魂が異世界に転送された。



 それから十四年の時を経て、ディアナとアリスは出会った。アリスは一度目の、ディアナは二千年前に神に敗れて以来、二度目の転生だった。運命の歯車が動き出した。



 第一章 完

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禁忌を犯して人間に転生させられた元女神、驕る 藍色 @mouo

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