第25話 未来見つめる石工

 鮮烈な双光を手放してから数分。

 相変わらず、景色は殆ど変わらない。鼻腔を突くのも腐敗した木と岩の香りだけ。

 つまらないと言えばつまらないし、飽きも来るだろう。


「はぁ〜〜〜わぁ、ふぅ……」


 ヴィオラは頭の後ろで手を組みながら軽く欠伸をする。

 今求められているのは、この広く深い廃坑の最奥へと辿り着くこと。

 そう考えれば、先程のような怪物と出会わないのは良いことでしかないのだが……どうだろう、ヴィオラにしてみれば多少歯応えのある的があった方が楽しい、のかもしれない。


「っと、すまねぇ」

「いえいえ。よく眠れなかったんですか?」

「……まぁ、そんなところだ」


 嘘である。

 ただ、ノンデリカシーな彼女でさえ少し退屈とは言い出せなかっただけだ。


「フフ。ありがとうございます、ヴィオラさん」

「あ?」

「気を遣ってくれたんでしょう?」


 アレキサンドライトは、その黒縁の眼鏡の隙間から煌びやかなオッドアイを覗かせて笑う。

 強がりなのか?

 ヴィオラには、判断が付かない。


「っせーな。……なぁ」

「はい」

「お前には、アレが何に見えたんだ?」


 アレ。

 見上げんばかりの大きさを誇る巨人。

 赤肌の筋骨隆々とした鬼。

 複数の顔を持つ異形。

 酷い言葉を使えば、いくらでも形容はできた。


「モンテドーロの、民です」

「……だろうとは思ってたさ」

「ハハハ。すみません、しっかりとした説明もせずに」


 苦笑い。

 ヴィオラの口の中まで、うっすらとした苦味が染み出す。

 ふと現れた大きな段差を飛び降り、それから少女に対して手を伸ばした。


「ほら」

「ありがとうございます。っと、ただ少し気になることもありまして」

「気になることねぇ。ま、私よりかは気づくことも多いだろ。なんだ?」

「浮かんでいた顔……私にとっては見覚えのあるものばかりだったのですが、察するにヴィオラさんにとっては記憶にないものが多かったのではないでしょうか」

「確かにな。アレの素材がモンテドーロの都市民だって気づいたのは、お前の表情のお陰だ」

「……そんなに強張ってましたか?」


 恥ずかしいやら、みっともないやら。

 彼女は珍しく額に手を当てながら嘆息していた。


「やたら緊張してるみたいだな」

「それは勿論。この廃坑は、ある意味禁忌の領域。最高会議の議題として持ち出すこと自体前代未聞なのですから。しかし、それでも可決され、我々がこの地に立っているのはそれだけ多くの人々が事件の解決を望んでいる証左でしかありません。しかし……既に犠牲も出てしまったとは。力不足を嘆くばかりです」

「ハッ。真面目だな。政治家ってのは、自国民を数字で数えるしか能のない奴らばかりだと思ってたんだが」

「それは事実でしょう」


 アレキサンドライトの方にヴィオラは視線を向ける。


「私とて、モンテドーロに住まう個でしかありませんから」

「フンッ。それならもう少し、無神経なところを見せてみるんだな」


 そうでないと、嫌いになれねぇ。

 石を蹴り上げ、転がっていくのを見つめる。

 コロコロ。コロコロ。

 軽い斜面に促されて、小石は止めどなく落ちていく。

 そして、ふと音が消えたかと思うと、そこには奈落が広がっていた。


「……チッ。あぶねぇな」

「落盤の跡ですね。深さは……」

「飛び降りるか?安心しろ、受け止めてやるよ」

「……」


 蝋燭の炎に照らされて浮かび上がる彼女の顔に、動揺の色は見えない。

 しかし、口を噤んだままでいる辺り気は進まないようだ。


「じゃ、先行くぞ」

「えっ。あっ、はっ?」


 それなら、嫌でも飛び降りるしかない状況にしてやろう。

 彼女はこれから散歩に出かけるくらいの軽さで、数十m級の深い深い穴の中へ飛び降りた。

 アレキサンドライトの視界から、ヴィオラが消える。


「ヴィ、ヴィオラさん!?」


 案の定、頭上から聞こえてくるのは動揺と狼狽が入り混じった絶叫だった。

 これが、ヴィオラなりの背中を押す方法である。

 少しばかり捻くれているだろうか。

 だが、彼女はそもそも根っからの捻くれ者だ。今更誰も気にしたりはしない。


「よ、っと」


 持つべきは類い稀なる経験と身体能力か。

 まるで階段を一段飛ばしで降りるかのように彼女は楽々と着地してみせた。


「おーい、聞こえるかー?」

「だ、大丈夫ですかーっ!?」


 フッ、とヴィオラは思わず声を出して笑った。

 何せ、彼女が声を裏返してでも全力で叫んでいるものだから。

 必死過ぎるだろう。私はそこまでヤワじゃねぇっての。


「怪我してませんかーっ!」

「してねぇよ!お前のことも受け止めてやる!早く降りてこい!」

「わ、私っ」

「早くオーラムを助けに行くんだろうが!」

「……」


 少し、ほんの少しだけ声を荒げてヴィオラがそう言うと、アレキサンドライトの叫び声が再び響いてくることはなかった。

 そして、遥か上にぽっかりと空いている穴の中から、小さな影が風のように降下する。


「——!!!——!!!——!!!」

「さて、と」


 ヴィオラの手に集まった光が揺れ、空間に波のような隔たりが生まれる。

 それが広がると、あたかも朝日を受け止めるヴェールのようだ。


「んー!」


 一生懸命両手で口を塞ぎ、叫び声を抑え込んでいる彼女が、柔らかな皮膜の上に落下する。

 ヴィオラは心の中でガッツポーズをしていた。


「フフ。我ながらナイスキャッチだ」

「はっ、はっ、はっ……」

「どうした?」


 アレキサンドライトの息切れが凄い。


「……た、高い所は少し苦手なんです……」

「……」

「ふぅ……はぁ……で、でも、ありがとうございます……死ぬかと……」


 死ぬかと、というか。

 表情は既に死んでいた。


「わ、悪かった」

「いえ、いえいえ。踏み止まっている暇なんてありませんから……」


 彼女はそう言うと、震える脚を一度強く叩いてからしっかりと立ち上がった。

 タフな人である。


「それにしても、不思議な力ですね。ヴィオラさんのアテュですか?」

「アテュ?あぁ、私の能力のことか」

「はい。私は《技》、あなたは……」

「《恋人》だ。「剣」と「盾」のいずれかを展開できるらしい」

「……教えて下さるんですね」

「出会ったばかりなら兎も角、今更隠す必要もないだろ。連携に役立つかもしれないしな」


 確かに、手の内を明かすことは則ちウィークポイントを知らせるようなものだ。

 不明である状態とは、如何なる情報よりも強力であり、恐ろしい。

 とはいえ、それは味方にとっても同じことだろう。


「となると、この被膜は……「盾」?」

「御名答」


 流石は職人の都市の君主。見立て通り、この膜は《恋人》の能力の片割れ、「盾」の応用である。

 「盾」は、あらゆる攻撃を防ぐ。

 彼女はその性質を利用して、「盾」を柔らかな膜として定義し、受け止めてみせたのだ。これは、イメージすることが能力の行使に不可欠だからこそできる芸当であった。

 新参のオルガンである彼女にとって、大きな進歩と言えるだろう。

 戦術の幅も広がるというものだ。


「初めての試みだったんだけどな」

「えっ?」

「ハッ、安心しろよ。仮に失敗しても、怪我1つ負わせはしなかったさ」

「あ、あなたという人は……」


 信頼して飛び降りたのに!とでも言いたげな眼である。

 実際、成功したのだ。

 それで良いだろう……とは、ならないか。


「悪い悪い。ま、それは置いておいてだ。取り敢えず、どう進むかな」

「……。そうですね、幾らか塞がってはいますが岩を取り除いて進んでいけそうな場所がいくつかあります。そのどれかから当たるのが良いのでしょうが……」


 会話から意識を離して、周囲の状況を確認する。

 なんて広い空間だ。

 岩盤の落下とは、ここまで大きな被害を齎すものなのか。

 もしかするとこの地面の下には多くの……いや、やめておこう。


「ん……?おい」

「はい?」

「1つ、確認したいことがある」


 ヴィオラは険しい表情を浮かべながら、ふと眼に留まったある場所に目掛けて歩き始めた。

 ハンマーが引かれ、シリンダーが回る音が静寂に満ちた空間を浮遊する。


「アンタが連れてきた部下は5人。そうだな?」

「そうですよ。ブルーノさん、ミルコさん、メリッサさん、アンジェロさん、アルフレーダさん、合計5名です」

「良かった、私の思い違いじゃないらしい。それなら——」


 勢い良く大岩を振り払い、ランプを翳す。

 そして現れたこめかみに、彼女は銃口を突きつけた。


「どうしてお前がここに居る?」

「……」


 ガスマスクをした男。

 年齢は……40歳か50歳くらいか。

 見覚えがあった。


「ブルーノさん!?」


 名前などどうでも良い。

 問題は。共に洞窟に入ったはずの男が、相方すら従えず、猟銃を構えて物陰に潜んでいたことである。


「バディはどうした?答えろ。2度は言わない」

「……あ」

「!?」


 息が詰まったような、言葉にならない驚愕の意思。

 アレキサンドライトの声だ。

 ヴィオラは、勢い良く振り返り、無数の穴の内の1つに眼を遣った。


「悪ぃな、ブルーノ。見立てが外れちまった。……なぁ、傭兵さんよ。銃、離してやってくれねぇか?」

「……」

「オレも外すよ。ボスを撃つつもりなんてハナからないし、ヴィオラさん、あなたのことを撃つなんて……本望じゃねぇからな」


 ぽっかりと開いた闇の口の中から、初老の男がゆっくりと姿を表す。


「アンドレア=プレラーティ……」

「アンドレアさん……」

「それで、どうするよ。残念ながら、オレじゃああなたに早撃ちで勝てそうにないからなぁ」

「私は少なくとも、対話を好むような人間じゃねぇ。撃てば解決するなら」


 彼女は一発、背後の男の側頭部に肘打ちを入れて昏倒させると、向き直って拳銃を構えた。


「撃つ。躊躇いなくな」

「ふっ。ま、そいつが死ななかったんなら良い。オレの頼み事を聞き入れてくれたってだけで殺されたんじゃ、寝覚めが悪いだろ?」

「頼み事……」

「すまねぇな、ボス。少しばかり監視させて貰ってたのさ」


 本当に悪いと思っている人間の口調、態度ではない。

 最高会議での一票。クリスタルから受けた忠告。

 まぁ、こうなることも念頭に入れてはいたが、現実となると中々面倒だ。


「アンドレアさん」

「今までの最高会議じゃ、理路整然とした説明さえすればオレは手放しにお前さんの意見を支持してきた。ただ今回は違う。ボス、初めはきっと混乱しただろう」

「違う、といえば嘘になりますね」

「あぁ。確かに、ボスの言っていることは正しい。如何なる理由があろうと、故人の遺言よりゃ今を生きる国民の命の方がずっと大事だ。聞く限り、会議中幾らか暴動もあったみたいだが……そんなもの、無視した方が世の為人の為ってモンだろうな」


 男は徐にガスマスクを取り外すと、ポケットからタバコを取り出して咥えた。


「ここは、廃坑の中でも有毒ガスが希薄なエリアでな。窮屈なら外したって問題ないぜ。少なくとも、1日2日居座った程度じゃ害にはならねぇ……ふぅ」


 自嘲気味に笑い、それから煙を吐き出すアンドレア。

 言われてみれば確かに、飛び降り前まで足元に充満していた白いガスはどこにも見当たらなかった。


「どうしてですか?」

「どうして、か。まぁそうだよな。ただ、大方見当は付いてるんだろ?お前さんは、父親に似て聡明だからな」

「だとしても、あなたの口から直接聞かない限り、信じることはありません」

「……」


 同じようにガスマスクを脱ぎ捨て、アレキサンドライトはじっと彼を見つめた。

 緊迫した空気が麻酔のように身体の感覚を奪っていく。


「モンテドーロの未来の為だ。この洞窟の先にあるものを、お前さんに……いや、あらゆる存在に認知させるわけにはいかない」

「洞窟の先にあるもの……それは、“四獣の遺物”と呼ばれているものですか?」

「“四獣の遺物”?アレはそんなものじゃない。少なくとも、本質はそこじゃねぇ」

「本質?」

「呪いだよ。人間が積み重ねてきた欲望の地層さ。もしかしたらこの金山自体、アレが作り出した罠でしかないのかもな」


 男が紡ぎ出す幾つかのヒントを整理しながら、ヴィオラは怪訝な顔をする。

 アンドレア=プレラーティ。モンテドーロ職人ギルドのグランドマスター。

 地位こそ立派なものだが、本質的な彼は単なる職人でしかないはずだ。


「どうしてそんなことを知っているのか、と言いたげだな」

「まぁな。それと、お前の背後に控えてる……10人か?20人か?そいつらを、何の為に連れてきたのかも聞きたいところだが」

「フゥ……。ハッ、まぁアイツらは保険さ。オレはな、ボス。お前さんの父とは盟友と呼べる関係だった。知ってるだろ?」

「無論です。クリスタルさん、アンドレアさん、そして父。先代のオーラム。お三方が、長らくモンテドーロの屋台骨であったことなど、誰もが知っています」

「その親友から頼まれたんだよ。時が満ちるまで、絶対に金山の秘密に触れさせてはならないと」

「時が満ちるまで?」


 ぴくりと、彼女の眉が動いた。


「今は、時が満ちていないと?多くの犠牲者が生まれ、この金鉱こそ解決の糸口かもしれないというのに?この機を逃して語ることのできるモンテドーロの未来など、どこにあるのですか?」

「そうだ。まだだ」

「数週間前。アンドレアさんもまた、月牙泉の方々に失踪事件の解決を願い出た、そうですよね?あの時の言葉は嘘だったのですか?」

「嘘じゃねぇよ。オレだって、未来ある若者が、無垢な都市民が犠牲になるのは見てられねぇ。ただ、この先のモノはそういうレベルで測れるもんじゃねぇんだよ」


 彼の合図に合わせて、迷彩柄の服装に身を包んだ人々が扇状に展開される。

 推測するに、職人ギルドから駆り出されたのだろう。


「オレも、お前さんの父も、そしてクリスタルさえも。この洞窟に関して何か教えたことがあったか?無かったよな。だから、ボスは殆どこの金山のことを知らない。調べようとすら考えて欲しく無かった」

「……」

「“フトゥーロ”って知ってるか?」

未来フトゥーロ……?組織の名前ですか?」

「そう、か」


 アンドレアは煙草を床に落とすと、ゆっくり踏み躙って火を消し、溜息を吐いた。

 それは、落胆の籠もった溜息ではない。

 どちらかといえば、予想通りであることを嘆く。そのような、嘆息であった。


「お前さんの父は周到だ。次世代の為に殆ど情報を残さなかったのは、アイツが陥ったものと同じ沼に嵌らないで欲しかったからだろう」

「父が……父が、関わっているのですか?」


 アレキサンドライトは身を乗り出すように声を上げる。


「父が急逝した理由も!あなたは知っているんですか!?」

「知らないわけがないだろ」

「……!」

「あの最高会議を行った次の日の朝、アイツは死んでいた。彼女をオーラムに指名し、お前さんを空席だったアレキサンドライトに据えるという遺言を残して。不自然だろ?」

「それ以上進むな!!!」


 部下の一人が大声を出し、一歩踏み出したアレキサンドライトを恐喝した。

 アンドレアは右手を挙げて気が立っている全員を落ち着かせる。


「お前さんの父親は、この山の秘密にメスを入れようとした。だから殺されたんだ」

「……」

「あの男がひっそりと死んでいったのは、他ならぬ二人を守る為であり、ひいてはモンテドーロの未来を守る為だ。オレは、アイツの遺言を守らなくちゃいけない。時が来るまでは、絶対にここを通せないんだ。どうか、お引き取り願いたい」


 アレキサンドライトは、黙っていた。

 今聞き及んだことがショックだから?

 いや、そうではないだろう。


「……アンドレアさんの仰る通りです。父は、私にこのブラックボックスと呼ぶべき金鉱の情報を何も残していかなかった。それは、私に触れて欲しくなかったからなのではないか。何度もそう考えたことがあります。ただ——」


 閉じられていた彼女の眼が開く。

 その2色の瞳には、怒りとも、哀れみとも、決意とも言えるような鋭い光が宿っていた。


「それを決めるのは、あの人ではない。ましてや、アンドレア=プレラーティ。あなたの意思に左右されることでもない。私はジェムストーンマフィアのボス。オーラムの称号を湛えていなくとも、それに揺るぎはありません」

「……」

「お断りいたします。私は先に進まなくてはならない」


 そう言うと、アレキサンドライトは進み出て地面の石ころを握りしめた。


「それならば——」


 男の右手が下がらんとする。

 対応するようにヴィオラが再び銃を構えた瞬間、音もなく何者かが2人の間に割って入った。


「……」


 小柄な背丈。

 薄紫のショートヘア。

 機能美を追い求めたインナー姿。

 そして、長い長い槍。

 一瞬で判別が付いた。


「サ、サリナ!?」

「グランドマスター!」

「……武器を下させてください」


 ただ冷酷に、残忍に、容赦無く。

 人間味の無いモノトーンな声を発しながら、彼女は鋒をアンドレアの首筋に当てがう。


「……」

「早く。身共は待つのが苦手なんです」

「オレを殺せば、お前らは金鉱探査を諦めるのか?」

「諦めませんよ」


 ふと、頭上から氷のような青年が降りてくる。


「我々は事件解決の為にここに居るのですから。仮にあなたが命を賭したとしても、やることは変わりません」

「……」


 その言葉でやっと、踏ん切りがついたか。

 男は恋しそうに床の煙草を見つめ、それから笑った。


「フッ。武器を下ろしていいぞ。今日のところはオレのヘマだ」

「ありがとうございます」


 槍を納め、後ろに下がるサリナ。

 ヴィオラも、アレキサンドライトも、共に握り拳を緩め、敵意を剥き出しにしている者は既に誰も居なかった。


「どうしてお前らがここに?」

「詳しい説明は進みながらにしましょう。アレキサンドライトさん」

「はい」

「事態が逼迫しています。恐らく、あなたの部下は既に何人か……」

「……」


 彼女はあくまで、無感情を貫いていた。


「分かりました。それでは、すぐにでも進みましょう」


 アンドレアの脇を通り抜け、その先の通路へと向かう。

 目指すのは最奥。

 金鉱の真実。


「ボス」


 ふと響いた低い声を前に、彼女は立ち止まった。

 振り返ることはない。ただ、彼の言葉に耳を傾けている。


「忠告はしたからな」


 一見それは、敗残兵の負け惜しみのようだった。

 だがしかし、その場に居る全員が、その言葉に籠もった複雑な感情を朧げながら理解していた。

 彼女はガスマスクを拾い上げ、取り付ける。


「痛み入ります、アンドレアさん」


 地面の胎動。山の鳴動。

 求めているものがすぐそばにある予感が沸々と湧き上がる。

 彼女は真っ直ぐに暗黒を見つめ、それから深淵へと再び踏み出した。

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