第15話 庶民と選民


「そこまで。窮鼠猫を噛む。責められ続ければ、鼠のような弱者でさえ、猫のような強者に噛み付くものです。で、あれば、一介の都市民がその統治者に噛み付くなど当然のこと。それを海のような器でもって受け止め、度量を示してこそ真に立派な超人と言えるのですよ、ペリドット様」


 黒服たちの群れの中からペリドットの脇に歩み寄った男は、諭すようにそう語りかけた。

 彼が着用する、黒と白を基調とした喪服のような僧衣は、どことなく不吉な印象を周囲に抱かせる。

 しかし、男自身の雰囲気は極めて柔和かつ穏健であり、その優しげな眼を見れば自然と警戒心も解けてしまうのであった。


「は、離せっ!」

「……仰せのままに」


 男の肩甲骨辺りまで伸びた黒髪が、柳の葉の如く振れる。

 とはいえ、この煌めく緑を瞳に湛えた青年は例外らしい。


「しゃしゃり出るな、等活!お前には特別に隣に立つ権利をやったが、俺の決定を覆すだけの力は与えてないはずだぞ!」

「ええ、ですから、これは家臣より告げられる讒言の一種としてお受け取りいただきたく」

「讒言だと?それなら、今ここでお前を無礼者として斬り殺しても良いのか?」


 彼は、勢いそのまま腰に帯びたサーベルを抜き、大男の乳白色の首元に押し当てた。

 無論、刃の付いていない方ではあるが。


「勿論でございます。下名が生まれた西南の大皇国には、このような考え方がございますゆえ。曰く、命を賭して主を嗜める家臣こそ、真なる忠臣である、と」

「……」

「今一度お考え直しを。激情に駆られていては、どれ程貴方様が優れていようと、人は付いて行きませんぞ」

「だっ、黙れっ」


 剣が震える。

 冷たい刀身が、首筋に当てられては離れを繰り返す。

 ペリドット自身、武術に秀でているわけでは決してない……そのように腰の入っていない姿勢で力を込めたところで、人間の首など落とせはしないだろう。

 とはいえさしもの彼も、プライドを優先して醜態を晒す行為がどれ程愚かしいことか、理解しているようだ。

 ペリドットはわざとらしく大きな舌打ちをすると、すぐに腕を下ろしてサーベルをベルトに収める。


「……分かった。ここは、お前の顔に免じてあの女の無礼を不問としよう」

「恐悦至極、実に懸命な判断と存じますぞ」

「……」


 サリナは眼前の二人を見定める。

 これは喜劇か、はたまた悲劇か。


「あなたは?」

「それは下名に対する問いかけでございますか?」

「フッ。良い機会だ、自己紹介してやると良い」

「ええ、ええ、僭越ながら申し上げます。等しいの等に活かすの活と書きまして、等活。それが、下名の名前でございます。数週間前よりペリドット様の幕下に入りまして、恐れ多くもいくつか助言を差し上げる役職に従事しております。以後、お見知り置きを」

「等、活……」


 少なくとも、モンテドーロやハダーシュ砂漠では聞かないような名前である。

 彼が先程口にしていた、西南の大皇国ではこのような名付けをするのだろうか。


「さて、ペリドット様。陽も傾いて参りました、彼女らの処遇についてはお早めにご判断を」

「……処遇?」


 ふと、オーラムは耳にした単語を復唱する。

 そう、そうだ。

 そもそも彼らはどうしてここに居るのか。

 彼らの目的は、未だはっきりとしていない。


「あぁ、そうだったな。庶民の観察に精を出す暇なんて、俺には無いんだ。さて、どうしたものか……」

「結局、アンタらの目的ってなんなんすか?」

「目的?目的だとぉ?そんなもの決まってるじゃあないか!神聖なるペリドット区域で、愚かにも教会への侵入という犯罪を犯さんとした下等民の捕縛、さ!」


 調子を取り戻した彼は、どこまでも楽しげにそう言い放った。

 教会への侵入。確かに、それは事実である。

 しかし、その罪は一方的に弾劾される筋合いのあるものなのか。


「それなら、こちらにも言い分があるっすよ」

「言い分だぁ?不法侵入、この言葉の意味が分からないのか?もしかしなくてもそのおめでたい頭の中にはババロアが詰まってるのか?」

「では、大層なご身分の貴方には、市民の言葉を聞く余裕すら無いんすか?」

「無い、無いね!さっき言ったろ、君の時間と俺の時間では、その価値に天と地程の差があるんだ!くだらない愚痴を聞いているくらいなら、次の公共事業の計画を立案した方がマシだね」

「はぁ……」


 取り付く島も無いっすね、とオーラムは声を漏らす。

 既に分かり切っていることではあったが。まともに会話していては、いつまでこのように罵倒され続けるか分かったものではない。

 そのように、こちらの会話をのらりくらりと自分のペースで交わしてしまう人間の対処法を、彼女はよく知っていた。

 そう。懇切丁寧かつ無理矢理、こちらのペースに乗せてあげることである。


「それでは親愛なるペリドットさんに質問っす。この教会、ここ数日人の出入りが一切無いことはご存知っすか?」

「はぁ?」

「聞き返すということは、知らないんすね」

「どうせ、この場を切り抜ける為の嘘だろ」

「まさか。少し人材を回して、この辺りを注意深く監視し続ければすぐに分かることだと思うっすよ。それなら、これはどうっすか?」


 彼女は、ゆっくりと振り返って教会の壁を軽くノックした。

 鈍い反響が中から聞こえてくる。


「この教会が、既に別の勢力に乗っ取られている、ということは?」

「別の勢力……?」

「鸚鵡返しじゃ答えにならないっすよ」

「報告に上がって来ていないことを俺が知ってるわけないだろ。なんだ?知識で俺に優っていることを誇示したいのか?」

「そういう態度で事に当たるから……いや、それはもうこの際どうでも良いっす」


 これ以上悪態を吐いても仕方がない。

 失望の念は止まるところを知らないが、彼女は話を続ける。


「なら、最後にもう1つ。ナラゴニア教会がこの都市に侵入していることはご存知っすか?」

「……」

「ほほう。ナラゴニア教会でございますか」


 ざわざわ、とその名前を聞いて彼の周囲の人々がどよめき始める。

 口に出すだけでこの乱れようだ。

 彼らの評判がどれ程悪いのか、推して知るべしである。


「そのような誘導をされますと、まるでこの教会がその悍ましい者共の手に落ちたと勘違いしてしまいますな」

「勘違い?もしかして、それすら知らなかったんすか?それなら——」

「ナラゴニア教会、と言ったな?どうやら君は庶民どころか、調和を掻き乱す害虫にまで成り下がっていたらしい」

「は?」

「そういう形容するのも憚られるようなクズ共のことを思うだけで、俺という純水には濁りが生じるものなんだ。皆、良く聞け!」


 ペリドットは胸に手を当てながら振り返り、言い聞かせるように語り始める。


「そのような危険な集団の侵入を、この偉大なるモンテドーロ、そして俺が許すわけもない!実際、関門は常に機能しており、一切の侵入者もないのだからな!虚偽を流布し、都市の秩序を乱さんとするこの狂人どもを取り押さえろ!」

「何を言って……」

「オーラムさん」

「……」


 彼女の服の裾が優しく引っ張られる。

 見るまでもない。サリナだ。


「これ以上、話し合っていても埒が開きません。それと、あの黒い髪の人……」

「あの人がどうしたんすか」

「上手く言葉にできないんですが……警戒した方が良いと思います。あそこで偉そうにしてる人よりもずっと、嫌な臭いがするので」

「……」


 そうっすか。

 オーラムは微かに視線を上げ、男の姿を視界に入れる。

 そして、再び藤色の髪をした少女の方に耳を寄せた。


「身共が合図をしたら、左に向かって思い切り走ってください。包囲を見る限り、そこが一番手薄で、突破し易いので」

「アタシは多くても4、5人を相手にするのが限度っすよ?」

「大丈夫です」


 彼女は、指貫グローブを嵌めた手を力強く握り、前方を猛獣のように見据える。


「身共が、道を開きますから」

「……ハハッ。頼もしいっすね。流石は、あの子が信頼した傭兵です」

「褒めるのは、作戦が成功した後にお願いします。それでは、数えますよ」

「……」

「おい!何をコソコソと話してる?逃げようなんて思ってるんじゃないだろうな?」

「良いっすよ」


 ゆっくり、ジリジリと。

 左足を地面に擦らせながら、後方に下げていく。

 

「3」

「いや、そんなことは愚かしい庶民でも考えないことだな!たった2人で、俺の精鋭たちからどう逃げ切るっていうんだ?さぁ、大人しく首を垂れろ、モンテドーロの威信を揺るがす罪人ども!」

「2」

「うるさいっすねぇ」

「はぁ?」

「1」


 数十人に取り囲まれて、尚逃げ出そうとするのは愚かしい考えだって?

 あぁ、確かにそうかもしれない。

 だが、この青年は既に忘れているようだ。

 折角、背後に控える助言役とやらが、含蓄に富んだ諺を教えてくれたというのに。

 窮鼠猫を噛む。

 いや、この場合、溺れる者は藁をも掴む、と表現した方が適当か。

 しかし、どちらにせよ指し示す教訓はただ1つである。

 追い詰められれば追い詰められる程、人間というものは、何をしでかすのか分からないのだ。


「後で泣いても知らないっすよ?」

「0!」

「う、うわあああっ!」


 それは、槍投げの要領だったのだろうか。

 まるで、投石機から岩が投げ飛ばされるように。

 或いは、カタパルトから砲弾が弾き出されるように。

 白亜の閃光が群衆の左翼を引き裂いた。

 そして、槍が地に堕ちんとする前に、サリナは地面を抉りながら空中に飛翔する。


「庶民にも満たない馬鹿共め!取り押さえろ!」

「ふんッ!」


 その姿は当に一騎当千。

 着地の瞬間、すかさず槍を横なぎにして向かってくる衛兵を振り払いつつ、右脚を軸に左脚を蹴り出して掻い潜らんとする者たちを蹴り飛ばす。

 壁に、仲間に、空に。

 四方八方に吹き飛ばされていく雑兵たちは、ただ1人の少女を前に苦戦を強いられていた。

 一方、彼女は涼しい顔で大立ち回りを繰り広げている。

 人数差は、ペリドットの言う通り圧倒的なものであった。

 しかしどうやら、戦力差もまた、圧倒的なものであったらしい。


「何をやってる!このペリドットに恥をかかせる気か!」

「こちらへ!」

「分かってるっすよ!」


 全ての人の注目が、サリナに集まっている。

 その中で、オーラムが為すべき仕事は簡単なものだ。

 ただ彼女の導きに従って、その胸の中に飛び込めば良いのだから。

 ただし。


「行けません、行けませんよ。罪を犯したのであれば、然るべき罰を受けなくては」


 1人、静かに彼女の背後に迫る影から逃れられれば、の話だが。


「なっ!?」

「オーラムさん!」

「ほほう。そのような表情は初めて見ましたな、オーラム女史。しかしこれも致し方無きこと。そう、思いませんか?」


 先程のペリドットと同じだ。

 がっしりと腕を掴まれ、全く動くことができない。

 等活を名乗る大男は、その体格に見合った膂力でもってオーラムを拘束する。

 サリナは絶えず襲い来る刺客をいなしながら、隙を見計らうが。

 まるで、見えて来ない。


「ぐっ」

「ペリドット様、これでよろしかったですかな?」

「チッ、手こずらせやがって。まぁ、思った通り俺の策がハマったな。想像以上の馬鹿で助かったよ」

「その人を離しなさい!」


 彼女は叫ぶ。

 しかし、言葉とは、逃れ得ぬ力を前にすると実に無力なもので。


「ほら、行きますよ」

「……ふぅ。サリナさん、逃げてください」

「……」

「アタシのことは大丈夫っす。ま、少し面倒なことになるくらいっすよ」

「ほほう。幾度となく書物で眼にした光景ですが。こうして実際に目撃すると、中々感動的なものですな」


 顎を摩りながら、等活は笑った。

 その眼には、沈黙に沈む暗黒が宿っているかのようである。

 どこまでも深い黒が、2人を見据える。


「おい!等活、何をしてる!早く連れて来い!」

「そうは言いましても、力づくで解決するわけには行きませぬ。そうですね、出過ぎたことと承知の上で申し上げます。ここは1つ、彼女らと取引をしてみてはいかがでしょう?」

「取引ぃ?薄汚い犯罪者と対等なテーブルに着けと言うのか?いくらお前でも許されない侮辱だぞ!」

「ほほ。そう、仰らずに。確かに、ペリドット様の考えは正しいと言えるでしょう。犯罪は須く取り締まるべきであり、都市の威信を揺るがす芽は早めに摘むに限る。それも、徹底的に」


 都市の威信を揺るがす芽?

 サリナは、無数に湧き出る衛兵をいなしながら、内心で毒づいた。

 現実を歪曲して、真実を伝えようとした人を捕縛しようとする奴らのどこに、そのような権利があるというのか。


「しかし、多少の妄言や誇張、虚偽を許す器も、統治者に求められるものです。国民は得てして、統治者に悪い印象を抱き、根も歯もない極端な噂を信じてしまうものですから。つまり、貴方様に必要なのは、裁くべき犯罪と、捨て置くべき悪事を見極める審美眼と言えるでしょう」

「審美眼だぁ?」

「さて、これは助言役としての問いかけでございます。脇に控えていただけの無口な賓客と、危険思想を明言したかつてのボス。どちらを優先するべきなのでしょう?」

「……はぁ」


 腕を組みながら苦々しい顔をするペリドット。

 しかし、勢いそのまま突っかかっていこうとしないのを見るに、彼の言わんとしていることは理解しているようだった。


「分かった、お前の意見を入れようじゃないか。おい!そこの女!」

「……」

「取引……いや、これは命令だ。今すぐこの場から消え失せろ!そうすれば、追わないでおいてやる。それに、罪にも問わない」

「……そんなこと、できるわけ」

「サリナさん!」


 オーラムにしては珍しく、辺りでこだまする程大きな声でサリナの拒絶を遮る。

 それから、しっかりと互いの視線を合わせて意識を通わせると、ゆっくり頷いた。

 さっきも言ったはずだ。

 自分のことは自分でなんとかする、だから逃げろ、と。


「チッ」


 万事休すか。

 彼女は、無理矢理男に飛び掛かってオーラムを引き剥がす手立てを考えてみる。

 しかし、どうにもそれは上手く行く気がしなかった。

 不可能なのか、と問われれば、サリナはそうではないと答えることだろう。

 ただ、どちらも五体満足で逃れられるか、というと疑問符が浮かんでくる。

 それならば、ここは退いて救出手段を模索するのが次善なのではないか。

 様々な可能性が、彼女の脳内を駆け巡った。

 襲撃の波が、スッと止む。

 そして、二者択一を現実に迫られ、逃げ場を失った瞬間、彼女はオーラムと等活の後ろに立つ、スリムな男の影を見た。


「いや。残念ながら、彼女らには第三の腕があるんです」


 山脈を登る氷河のように冷え切った声が、その場全ての生命体の脊髄を凍させる。

 不意に、彼が後頭部で1つに纏めているパステルブルーの髪がたなびいた。


「おっと」

「彼女の腕を離し、ゆっくりとこの場を離れてください。勿論、両手は挙げたままですよ。少しでも不審な動きを見せたなら、あそこで唖然としているあなたの上司を撃ちます」

「なっ、お、俺を!?」


 ハンマーが引かれ、シリンダーが回った。

 彼の武器である二丁拳銃は、一方が等活の肺の辺りに、そしてもう一方がペリドットの腹部を指し示している。


「ふむ。互いに人質を抱えている状況、ということですか」

「僕は、あの少女と同じ、モンテドーロの賓客です。この都市の名誉にかけて、約束を違うことはないと保証しましょう」

「ええ、ええ。この場で約束を違えば、あなた方はモンテドーロ、そして大陸最大の国家であるラグナル王国の刺客に追われることになるでしょうから。勢力を代表する懸命な方であれば、そのような選択はされないでしょう」

「さて、次はあなたが2つの選択肢の中から選ぶ番ですよ」


 尤も、最初に突きつけられた少女は、それを選ぶことなど無かったが。

 等活はすぐさまオーラムの腕を離し、背中を向けて両手を上げながらその場を離れていく。

 それから、ペリドットの隣まで歩み寄ると、にこりと笑って再び口を開いた。


「ペリドット様。これでよろしかったですかな?」

「……仕方ないだろ。チッ、下劣で卑怯なネズミ共め」

「……」


 一連の取引を、オーラムは黙って眺めていた。

 まだ、後ろを振り返ることはできていない。

 しかし、微かに服の中を伝って入り込んで来る冷気は、背後の男が放っている殺気であり、圧迫感なのであろうということを感じていた。


「サリナさん!」

「……なんですか」

「詳しいお話は後にしましょう!今は、彼女を!」

「おい」

「なんでしょう」


 周りを見渡せば、元気そうに立っているペリドットの私兵は両手で数えられる程度になっており、その殆どが切り傷や打撲、骨折などを負って地に伏していた。

 一方、犠牲者の山のカルデラから据わった眼をこちらに向けている少女は、息一つ切らしていない。

 文字通り、役者が違ったということなのだろう。

 ペリドットもようやく興奮が冷めて、いつの間にやら劣勢になっていることを理解していた。


「今日は帰るぞ。時間オーバーだ。まだ、確認するべき書類も残ってるからな」

「承知致しました。彼女らのことは手配致しますか?」

「……」


 ペリドットは、未だ彼に向けられている銃口とオーラムの手を引いて去っていくサリナの姿を何度か見てから、愉快そうに顔を歪めた。


「いや、その必要はない。俺達はまたあいつらと出会うだろう。一度出し抜かれたくらいでムキになるなんて、まるで庶民みたいだからな」

「ふむ。では、不問にするということですね」

「あぁ。お前も言っただろ?少しの無礼は許すのが統治者の器だ、ってな」

「ほほ」


 その通りでございます、また一歩立派な統治者に近づきましたな。

 等活は眼を細めながら3人の後ろ姿を眺め、そして笑う。

 微笑ましきかな、若き者の青春というものは——

 

「……ありがとうございます」

「……」


 それから、数分程度走って十分に教会から離れただろうという時、サリナは初めて口を開いた。

 決まって受け身な彼女が、自ら会話の口火を切るのは実に珍しいことである。

 しかも、その第一声がお礼、などと。


「後少しで、オーラムさんを見捨てる羽目になるところでした」

「はい、見ていましたよ。現場を掻き乱すタイミングを伺っていたのですが、まさかあのような状況にサリナさんが立たされるとは。安易に別行動を取った僕の非でもありますね」

「まさか。あれを自力で解決できなかったのは、身共の……」


 口を軽く開いたまま、彼女の声は途切れる。

 それからは、どれだけ待っても次の言葉が紡がれることは無かった。

 サリナの中でも、様々思うところがあったのだろう。

 マーキュリーは、敢えてこれ以上深掘りすることなく、話題を変える。


「オーラムさん、で間違いありませんか?」

「そうっす。つまり、あなたがマーキュリーさんってことっすか?それと、サリナさんの言っていた助っ人というのも」

「仰る通りです。既にご存じいただいているとは、光栄なことですね。しかし、一種の礼儀として、簡単に名乗らせてください。僕の名前はマーキュリー=ヴァレンティヌス。月牙泉のスチュワード兼、傭兵を勤めています」

「手広いっすね。大変じゃないっすか?」

「それは勿論。しかし、良い職場ではあると思いますよ」


 少なくとも、彼にとってアルカヘストが命の恩人である内は、その仕事を苦に思うことなど無いのであろう。


「マーキュリーさん」

「はい」

「連絡したことについては、どうなりましたか?」

「あぁ、それについて僕から1つだけ」

「ヴィオラさんのことっすか?」

「そうです」

「進展があったんすか!」

「そうですね……まぁ、進展というべきかは怪しいですが……」


 ごもごも、どのように伝えるべきか、と彼は顎に手を当てた。

 簡単に報告できない内容、ということなのか?


「そちらの解決に、僕が奔走する必要は無くなったんです」

「……」

「どういうことっすか」

「僕らの旦那様……つまり、アルカヘスト様が代わりにヴィオラさんの方へ向かったので」


 かれが出張る、それはつまり。

 サリナは1人静かに、こめかみから頬を伝って流れ下る汗を感じていた。

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