第2話 渇きを潤すということ

 あの、奇妙な老人と出会った夜からおおよそ一ヶ月が経った。

 それから、ヴィオラの心持ちというものは殆ど変わってはいない。

 その手には、新たなる仕事場の名前が書かれた紙が握られている。

 月牙泉。

 それは、大陸最大の乾燥地帯、ハダーシュ砂漠に存在する巨大なオアシス。

 近隣の大都市であるモンテドーロと砂漠を繋ぐ中継地点として栄えていると彼女は記憶しているが……どうして、ヴィオラのような傭兵を必要としているのだろうか。

 アレイスター=クロウリーはこれについて、行けば理解できるとしか言わなかった。彼の様子を鑑みるに、知らないということはあり得ないだろう。とすれば、あの場では言えない事情があったのか。

 それに、去り際に手渡された一枚のタロットカード——手を繋ぐ二人の女性が捻れた背景と共に描かれている——も実に奇妙だ。彼女が味わっている感覚を的確に説明することなどできないが、どうしてもただの紙とは思えない。

 ヴィオラは、あの夜からこういったことについて常に考えていた。しかし、答えと言えるものは一向に出ていない。

 ただ、たとえ、クロウリーの言葉が謎に満ちており、不透明であったとしても、彼女に逃げるという選択肢は無い。

 何故なら、謎の根底には彼女の過去が……特に、彼女の恋人であるクラリアが関わっているかもしれないからだ。もしクロウリーが、ヴィオラを巻き込む為にその名前を利用したのであれば、然るべき報いを下せば良いだけのこと。

 問題は、本当にクラリアが生きている場合、どうするか、だ。

 ヴィオラの中で、その答えはまだ出ていない。


「もし。少し、よろしいですか?」

「ん……」


 もやもやと、彼女の中で渦巻く考え事の中に声が差す。

 腕を組みながら顔を上げると、そこには彼女と背丈が同じくらいで、細身の青年が立っていた。

 氷のような冷たい瞳で、こちらを見つめている。


「なんだ?」

「ヴィオラ=プロフリゴ様で間違いありませんか?」


 だが、その声色は柔らかく、多少他人行儀であるものの、敵意は全く感じられなかった。


「最近はよくフルネームで話しかけられるな……。あぁ、そうだ。つまり、アンタが月牙泉から迎えに来た従者か?」


 そして彼女もまた、相手の振る舞いに呼応してできる限り友好的な態度を示した。


「申し遅れました、僕はマーキュリー=ヴァレンティヌスといいます。厳密に言えば、僕は従者ではありません。僕は、あなたの同僚に当たる人間です」

「ははーん。成る程な。お前も雇われってわけだ」

「仰る通りです」

「仕事してきてこの方、月牙泉が傭兵を集めてるって噂は聞いたことないが……最近になって躍起に集め出したのか?」

「そういった話は車の中で致しましょう。ここは確かに人が少なく、気候も比較的穏やかですが、何が起こるか分かりません。それに、月牙泉に辿り着くまで時間も掛かりますから」


 ふと、ヴィオラは手元の時計に眼を落とす。

 時刻はおよそ8時を指していた。


「まだ朝だが。今日中に着くのか?」

「道中、酷い砂嵐に出くわすことが無ければ、夕方までには」

「成る程な。分かった、ついていこう」

「……」


 その場に下ろしていた鞄を慣れた手つきで背負い、アイコンタクトで行こう、と合図を送るヴィオラ。

 だが、当の運転手はどことなく圧倒されている様子で、すぐには動こうとしなかった。

 更に言えば、どこか彼女のことを怪しんでいる雰囲気すら感じられる。


「……どうした?」


 いくら鈍感な人間とはいえ、流石に居た堪れなくなったのか。思わずヴィオラは、足を止めて尋ねた。


「あなたのことは旦那様から多少、聞きました」

「旦那様……ってのは雇い主のことか?ま、本来ならポリシーに反するが、とやかく言うつもりはねぇよ」

「きっと。気難しくて、口が悪くて、酒とギャンブルに目が無いお方なのだろうと思っていたのですが……本当にあなたはヴィオラ=プロフリゴ様なのですか?あまりに、印象と違っていたもので」

「……」


 なんて失礼な。

 友好的だなんだ、というのは取り消そう。

 こいつは、物腰柔らかそうに見えて言うヤツだ。

 ヴィオラは思わず笑顔を浮かべる……しかしこめかみには明らかに血管が浮いていた。


「殴られたいのなら、そうだとはっきり言った方が互いの為だぞ?」

「不快に思われたのであれば、申し訳ございません」

「不快に思わない方がおかしいだろうが!気難しくて、口が悪くて、アル中でギャン中だと?私は——」


 まぁ、事実ではあった。


「……」

「それでは、付いて来てください。月牙泉までご案内すると同時に、できる限りのご質問にはお答え致します」

「お前、よくこの流れで私を案内しようと思えるな……」

「?本人だと確認できましたので、問題はないと思うのですが」

「チッ」


 それから、彼女は何か言おうとして、やめた。

 これ以上は時間の無駄になると気がついたからである。

 暖簾に腕押し、豆腐に鎹。あまりに張り合いがなさ過ぎると、こうもなろう。

 好き放題言っておいて丸め込まれている感じが気に入らないが、少しくらいなら我慢するだけの度量は彼女にもあった。

 そう、怒りっぽいヴィオラにも。

 ただ。


「一つだけ、私の面倒な部分を把握し忘れてるな」


 彼女は、根に持つタイプでもあるのである。



 車というと、それは大陸であまり普及しているものではない。

 あまりに高価であったり、環境に左右されたり、エネルギーをどう安定供給するかという大前提の問題があったり。

 頻繁に乗ることができるのは、裕福な国家の高官を始めとした限られた人間だけであろう。

 だから、ヴィオラも車に乗って移動するのは数年ぶりのことであった。

 一面砂の情景が次々と流れていき、小さな山々、オアシス、少しばかりの草木が現れては消えていく。

 それは実に新鮮な体験であった。だがしかし、新鮮だからといって、快適というわけでは決して無かった。


「クソ、吐きそうだ……」

「車酔いですか?」

「そもそも乗り慣れてねぇんだよ……揺れも酷いしな」

「申し訳ございません。しかし、運転技術で対処するにしても限度がありますので」

「あぁ、分かってるよ……」


 キュルキュルと、胃の中が渦巻く。朝食べたものが逆流して来そうだ。


「先程から静かにしていると思っていましたが、それが理由だったのですね」

「あぁ?最初から静かだったろうが。その様子じゃ、お前は慣れてるのか?」

「基本的に賓客の送迎は僕の役割ですから」

「そうかよ。……チッ、あー、もう!」


 そして、叫びながら彼女は助手席の背もたれに勢い良く倒れ込んだ。

 深呼吸を意識して、スッと淡くなる視界をカラーに保つ。


「あー……マーキュリー」

「なんですか?」

「気晴らしだ。質問に答えてくれ」

「そういえば、車の中でお答えするという約束でしたね。良いですよ。ただ、これからあなたに何が依頼されるのか、については現地で我々のボスの方から説明がありますのでお答え致しかねます」

「ふぅん……じゃあ、このカードがなんなのか、ってのも聞いたって答えて貰えないのか?」


 そう言いながら、彼女は顔の前でくるくるとカードを回して眺める。

 確かに意匠は綺麗なのだが、どことなく不気味だ。例えるなら、何かしらの呪具を持っているかのような。

 仕事柄、ヴィオラは何者かの念を強く受け継いでしまったものにも何度か触れたことがある。

 血だらけのナイフ、弾が不発のまま投げ出された銃、穴の空いたチョッキに、役目を終えた輪状の縄……喜ばしいことではないが、そういった道具というものは往々にして特有の空気を纏うものなのだ。


「そうですね……いえ、答えても良いのですが、ヴィオラさんの求める回答を提示できるかは怪しいので。僕はあくまで、こま遣いですから」

「そうかよ。ま、良いさ、それならこれから私のボスになる人に聞いてみる」

「賢明だと思います。他に質問は?」

「……いや、やめておく。それなら、後でまとめて聞く方が齟齬も起きないだろ」


 確かに、仰る通りです。申し訳なさそうにマーキュリーは軽く苦笑いする。

 それから、彼は窓脇のホルダーに入れられた水筒を口に運んだ。


「しかし、このまま何もお答えできないのはよろしくありませんね。もしヴィオラさんがよろしければ、ボスの名前など、月牙泉のメンバー構成でもご紹介しましょうか?」

「メンバー構成ねぇ……仕事場そのものについてはあまり興味無いんだが。」

「やめておきますか?」

「そうだな……いや、やっぱ教えてくれ。知ってて悪いことは無ぇだろ、名前くらいはな」


 肢体をだらんと垂らして目を瞑るヴィオラ。

 顔色が少し悪いが、吐き気の方は大分収まったらしい。

 負けじと吐き出される減らず口の切れ味が、段々と増していく。


「そうですか。それでは、私たちのボスから。かれの名前は、アルカヘストといいます」

万物溶化液アルカヘストぉ?それ偽名じゃねぇのか?」

「どうでしょうね。確かめようがありませんし、気にしたことすらないので、それはなんとも」

「他人の名前を貶す趣味は無いんだが……まぁ、いいか。それで?」

「非常に心優しく、達観したお方ですよ。僕は敬意を表して旦那様、と呼んでいますが、基本的にどのような呼称でもかれは受け入れてくれます」

「はーん。そりゃ、仕事し易そうな環境だな」

「本気でそう言っているのですか?」

「さてな」


 あまりに適当な相槌。

 それくらい今はダウナー気味な気分なのであろう。

 ご機嫌斜めで当たり散らさないだけ、まだマシである。


「まぁ、かれについては詳しく説明せずとも、対面しただけですぐに理解できると思います」

「流石に、ハダーシュ砂漠を束ねる月牙泉の支配者か。その手腕は噂になってるからな」

「ただ、かれはかなり癖のあるお方でもあるのでお気をつけください。……まぁ、ヴィオラさんなら心配は要らないと思いますが」

「おい、それはどういう意味だ」

「言葉通りの意味です」

「お前、実は性格悪いだろ……」


 ヴィオラはそして、彼の水筒から微かに漂う香ばしい茶葉の香りを感じて、溜息を吐いた。


「それから、かれに雇われているのが、あなたを含めて三名。ヴィオラさんと、僕と、もう一人、サリナ=グルンさんです」

「サリナ……珍しい名前だな」

「アトラス山脈のガルカ族出身だそうです」

「成る程、少数民族出身ならそれも分かる。にしても、ガルカか」


 ガルカ族。ヴィオラが傭兵として活躍し始める少し前、傭兵といえばガルカ、あるいはガルカ族こそ最強の民族と呼ばれている時代があった。

 そこで生まれて訓練を受けた人間ということであれば、やはり腕前も相当なものなのだろう……ただ。


「まだ、存在していたんだな」

「サリナさんによれば、大陸で唯一の生き残りだそうです。恐らく、それは真実なのでしょう。ヴィオラさんは、今までに一度でも、生きたガルカ族に会ったことはありますか?」

「……」


 少数民族の運命と言うべきか、はたまた戦争を生きる術としてしまったが故の宿命というべきか。

 ふとした瞬間、その民族の名望は終わりを告げ、傭兵界隈から跡形もなく消え去ってしまったのである。

 理由は未だに分かっていない。もしくは、公表されていない。


「いや、ない。私もまだ、傭兵界隈じゃあ、若輩の方だしな」

「彼女は今も、ガルカ族滅亡の理由を追い求めているそうです」

「その立場なら、私でもそうするだろうな。でも、そんなでっかい目標掲げてる奴が、月牙泉なんかで雇われてて良いのか?思うように調査もできないだろ」

「確かに最初はよそよそしいところもありましたが……今となっては良い仲間ですよ。それに、生活するにも、調査するにも、資金は必須でしょう?」

「それもそうか」


 何をするにしても、まずは金銭が必要になる。

 まぁ、これこそ人間の文明の偉大さと醜悪さを象徴する側面なのだろう。


「一度、話しかけてみることをお勧めします」

「おいおい、これから仲良しこよしする為に集まってるわけじゃねーだろ?」

「しかし、チームワークは必要でしょう?それに、存外気が会うかもしれませんよ。彼女は、根っからの武人気質ですから」

「い——」


 らねぇ、と言いかけたところで、彼女は口を閉じた。

 静かに、胸元に垂れたネックレスを握り締める。

 ズキ、と傷が痛む音がした。


「如何されましたか?」

「いや、何でもない。あとどれくらいで月牙泉に着く?」

「そうですね、一時間もかかりませんよ。酔いが酷ければ、寝ていていただいても構いません」

「……そうか」


 ベルトの金具と銃の持ち手が幾度かぶつかって、軽い金属音を立てる。

 整備されていない道なき道を走っているのだから仕方がないが、車内の揺れは相変わらずで、いくら身体が鍛えられていようと三半規管に加わるダメージは相当なものだった。

 まぁ、経験に乏しいのだから仕方がない。

 砂漠特有の刺すような日光が照りつける。それはジリジリと焼けるようで、軽い痛みを伴う程であったが、ひんやりと冷たい送風機の風のみが、彼女の黒ずくめの身体を癒していた。



「月牙泉の御殿……噂には聞いていたが」


 大地に腕を広げ、子供達を胸に抱き抱える地母神のように聳え立つ木造の御殿を前に、彼女はその、太陽光を反射して黒光りする瓦屋根を見上げていた。

 少しばかり、肩にのし掛かる仕事道具の重みが軽くなったように感じる。

 成る程。周辺地域と比べ、抜きん出て雄大な居城の姿は正に、無辺なるハダーシュ砂漠の主人の住処に相応しい。


「ここは、一種の複合施設ですからね」

「ホテルでもあんのか?」

「モンテドーロとハダーシュ砂漠を結ぶ安全な通路は、実質的に月牙泉を中心とする月牙回廊だけしかありません。そうなると、多くの商人がここ月牙泉に訪れることになります。当然、宿泊場所とそれに付随しているべき様々な施設が必要になるでしょう?」

「なるほどな。ま、建てた本人がどう思ってるかは知らねぇが、商人が泊まるとなれば、貧相な館よりこういう荘厳なものの方が良いんだろう。自分より下の相手を見るや、あいつらは途端に足元を見てくるからな」

「見られたことがあるのですか?」

「寧ろ、お前は無いのか?」


 数秒、マーキュリーは扉を開閉するスタッフに合図を送りながら口を閉じる。


「んだよ、黙るところじゃねぇだろ」

「どうでしょう、忘れてしまいました」

「はぁ?」


 のらりくらりとした返しにイラつきながら声を上げるヴィオラ。

 とはいえ、これ以上文句を言う気にもなれず、そのまま話を続ける。


「まぁでも、扉をここまでデカくする意味は理解できねぇな。ここまで大きいのはラグナルの王城くらいのものだろう。維持費も人件費も馬鹿にならないんじゃねぇか?」

「それに関しては、旦那様を見れば分かると思いますよ」

「これだけ大きな扉が必要な理由が、か?」

「はい、その理由が、です」

「本当かよ……」


 ガガガ、と心臓が震える程の重低音を響かせながら、二人を前にして扉が開く。

 外見だけ飾り付けておきながら、実のところその中身は貧相なハリボテだった……などと想像してみたが。

 そんなことは無かった。

 南西地域風のエキゾチックな外見とは打って変わって、そこには王道の芸術が散りばめられている。

 花と蔦で彩られたアラベスク模様の壁、巻き付くように飾られた燭台、濃紺にしてシミひとつ無いカーペット。

 加えて、その内装はただ華美である訳ではない。どこまでも続く砂漠の静けさにも似た落ち着きを、華やかさの中に内包している。


「行きましょう、かれの執務室は廊下の最奥です」

「りょーかい、こんな所で仕事できるお前が羨ましいぜ」

「何を言っているんですか、これからはあなたもその一員になるんですよ」

「ああ、そうだったな」

「下手なボケですね」

「……」


 まぁ、確かに、そうだったかもしれない。

 拳を握りつつ彼女は黙ってマーキュリーの後に続いた。

 このまま飛び掛かっても良いのだが、車酔いで体力を大分削られた後だと、どうやらそこまでの元気は湧いてこないらしい。


「あぁ、そういえば」

「……ん?」

「余計なお世話かもしれませんが、僕が執務室の扉を開けるまでに心の準備を整えておくことをお勧めします」

「なんだ?圧迫面接か何かでも始まるのか?」

「圧迫面接された経験が?」

「いや、ない」

「僕もありませんよ」


 コツ、コツ。

 永遠のように長く、砂漠の酷暑が嘘のように冷たく、御殿の外でバザールを展開する商人たちの喧騒など意に介さないかのように寂しい廊下を、ゆっくり歩いていく。

 聞こえてくるのは、絨毯下に広がった硬い大理石の床を叩く靴音のみ。

 マーキュリーはそして、荘厳な彫刻の彫られた天井の方に視線を向けた。

 巨大な樹が、こちらを見つめている。


「ただ、圧迫面接よりもずっと噛み砕くのが難しい話が待っているのは確かです」

「ふぅん」

「興味もない、といったところですか?」

「あ?んなこたぁねぇよ。もう乗り掛かった船だ。今更降りる気はさらさら無いってだけのことだ」

「……そうですか」

 

 ふと立ち止まると、そこには巨大な扉が立ちはだかっていった。


「やはり、ただのお節介だったかもしれませんね」

「かもな」

「では、開けますね」

「おう」


 それから三度、マーキュリーは軽く握った拳で扉をノックした。


「……あぁ、帰ってきたんですね。入って良いですよ」


 ハスキーで少し掠れた、しかしどこか艶やかさのある脳の奥に響くような低い声が、一枚の金属の板の向こうから聞こえてくる。

 その声だけで、彼女は扉の向こうの何かが只者ではないことを理解した。


「分かりました」

「……ん?」


 ヴィオラは少し、想定外といったような様子で声を出した。


「何か?」

「いや、お前、アルカヘストのことをかれ、とか旦那様、って呼んでなかったか?」

「はい。それが?」

「私の耳が確かなら、今聞こえてきた声は女のものだったと思うんだが」

「あー……そうですね……。それに関しては少し説明が必要になることなので。旦那様に直接尋ねて見ることをお勧めします」

「難儀なもんだな」


 女性に対して敢えてそのような呼称を用いていただけならば、そう答えれば良いはずなのに。

 そうしないということは何か裏があるのだろう。


「では、改めて。入ります」


 彼は両手で左右それぞれの持ち手を握ると、ゆっくり扉を押し開いた。

 あまり重そうには見えないが、その速度はナメクジが壁を這うように遅く、段々と向こうから眩い光が漏れ出してくる。

 数秒の時間をかけてやっと、眼が慣れ、向こうの景色の像は鮮明になった。

 空気はもったりとしていて、まるでスライムのようだ。


「どうぞ」

「……」


 マーキュリーに続いてヴィオラは、部屋の中へと一歩踏み出した。

 壁には所狭しと本が敷き詰められており、ここが書斎なのであろうことを物語っている。

 そして、中央には読みかけの本と黒光りした万年筆が乗った、木製の机があり。

 かれはその天板の上に、柔和な笑顔を浮かべながら腰掛けている。

 極めて特徴的なコントラストの瞳をチラつかせながら、かれは口を開いた。


「月牙泉へようこそ。遠路はるばる、苦労を掛けましたね」


 その者は、天窓から差し込む光を受けて煌々としていた。しかし、それと同時に、名状し難い深海の暗闇を何千倍、何万倍と濃縮したかのようなヘドロを内包しており。

 奥底を眺めようと覗けば覗くほど、ヴィオラの意識はその内に吸い込まれ、囚われてしまうのであった。

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