アナザーワールド
りんどう
序章 Ⅵ、Ⅶ、Ⅺ
第1話 嵐は魔術師と共に
その日の賭博場は相変わらず、煩わしくも心地良い喧騒に包まれていた。
大量のチップをまるで赤子を抱くかのように優しく抱き抱える者。
手際良くトランプを捲るディーラーの前で眼を血走らせる者。
全てを失ってなお、沈み込んだ底なし沼を行く力を求め行き交う人々の脚に縋る者。
それら全ての情動が、黄ばんで禿げかけた白亜色の天井の下絶え間なく蠢いている。
もしもこの場に、我こそは人間というものを知り尽くしたと豪語する哲学者が現れれば、すぐさま目眩を起こして倒れ込んでしまうことだろう。このような場所で正気を保つには、ある程度の鈍感さが求められることになる。
部屋の隅で壁に寄りかかり、何度かコインを空中に放り投げながらアルコールで喉を潤す彼女はまさに、そのような才能を持つ俊英であった。
アメジストのように透き通った美しい瞳が、さらりと眼前の風景を舐め上げる。
揺れるランプにより、その光景は陽炎のような摘みどころの無さを演出していたが、とはいえこのような幻に騙されてしまう程彼女は愚かではなかった。
そして、いつの間にやら夜も更けたことを悟った彼女は、胸元に垂れ下がったネックレスを触れながら、溜息を吐いた。
「チッ。今日はもう撤退か。ここ数日ツいてねぇなぁ」
勿論それは、彼女の財産がここ数日賭博に吸収されているが故の舌打ちである。
彼女は、賭博を一種の娯楽として好んでいる。
大抵の場合仕事は激務になるが、その合間合間で巨大な賭博場に来ては、酒とギャンブルを楽しんできた。
そして、賭けるからには、勝たなくては意味が無い……そうでなければいつかは、入り口の近くで蹲る浮浪者と見分けがつかない人間になってしまうだろう。
「ハハハッ!何だよ、最近不機嫌じゃねぇか」
「あ?なんだ、冷やかしか、チャールズ?」
空になったグラスを机の上に置いたままその場を離れようとした瞬間、彼女にチャールズと呼ばれる初老の男が、幾重にも重なった皺を震わせつつカウンターの奥から顔を出した。
片手には取り出したてなのであろうボトルを乱雑に掴んでいる。
ラベルには、かの有名な酒の産地、モンテドーロの名前……さぞかし値段の張る酒なのだろう。
「いや、冷やかしなんかじゃねぇって。まぁ、なんだ、何の成果も得られず萎びた顔で席を立つ一流のギャンブラーを見てると居た堪れなくてな」
「殴られたいってことなら、顔をもう少し前に出してくれれば拳が届くんだが」
「まさかまさか。お前のような女に誰が殴られたいなんて」
「フゥ……私にしてみれば、胴元のお前がそうやって善人ぶったツラでバーテンダーやってる事実そのものが、殴るに値するんだがな」
「おいおい、そりゃあ俺の娯楽の全否定だぜ、姐ちゃん。俺がどうしてここまで死ぬ気で店広げてなお、わざわざカウンターに立ってるのか……それが、ただ善人振りたいからなわけ無いだろ?」
「性格悪りぃな、お前」
「そりゃあ、賭博場の胴元には褒め言葉だぜ」
それから、彼女は不快と愉快の混じり合った表情のまま、再び席に着いた。
本来注文をしないまま席に座ることはルール違反だが、そのルールの決定者と話す為であれば、それも許されるであろう。
「で?大人しく帰ろうとした私を引き止めた理由はなんだ。本当に冷やかす為だったってんなら、殺してやるから。心配すんな、苦しませはしない」
「だから、冷やかしじゃないって言ってるだろ?ほらよ」
そう言うと、彼は一本のボトルを彼女の前に差し出した。
モンテドーロ製の、35年モノ……かなり熟成のきいたヴィンテージワインか。ラベルには美しい葡萄の細密画が描かれており、製品の細部にまで監督とこだわりが行き届いていることが伺える。
ある程度物を知っていれば、すぐに分かるだろう。
「……これは?」
「知らねぇのか?」
「惚けるな。酒の詳細を聞いてるんじゃねぇよ、どうしてこんなものを私に差し出したのか聞いてるんだ」
「まー、そうカッカするな。あそこに座っているお客様からだ」
「……」
彼女は、チャールズの指差した方向に眼をやり、確かにそこでアルコールを嗜んでいる老人を視認した。
黄土色の三角帽にぼうぼうの顎髭、マントのように流したローブは、熱気の籠もった賭博場ではいかにも過ごし辛そうである。
だが、それよりも、彼女の目を引いたのはその異様な雰囲気……少なくとも、視界の傍でグラスを拭いているいけすかないバーテンダーとは一線を画す存在感があった。
「たけぇんだぞ、この酒。俺のワイナリーじゃ、一番か、二番か……優劣はつけられねぇが、それ位の代物だ。もしかしたら、あの爺さんお前に惚れてるのかもな。今時精力的なジジイなんて珍しく無いだろ」
「バカなことを言うな。……確認するが、あの爺さんが私にこの酒を送ったんだな?」
「あぁ、そうだって言ってるだろ」
「席を離れる」
「あ、おい、酒も持っていけよ!」
もう、彼女の耳にチャールズの声は聞こえていない。
ズカズカと人混みの中に入り込み、臆することなく波を掻き分けると、10秒と経たないうちに老人の元に辿り着いた。
幸い、彼はテーブルに座っており、向かいの椅子が空いている……深い紫色の短髪を揺らしながら、彼女は腰を下ろした。
「私にあの酒を贈ったのは、アンタか?」
「ふむ……来たか」
老人はゆっくりと顔を上げ、碧眼でもって女の身体を貫く。
その視線は彼女の人となりと才能を見定めているかのようだ。
「君が、ヴィオラ……ヴィオラ、プロフリゴ君かね?」
「その前に、私の質問に答えろ」
「いかにも、儂が君にあの酒を贈った。気に入って貰えれば幸いだ」
「フゥ……分かった。そうだ、私が、ヴィオラ=プロフリゴだ」
ヴィオラは訝しむ様子を隠すことなく、しかし、一定の友好は示すように態度を直した。
蝋燭の炎の煌めきを反射して、木の枝を模したネックレスの意匠が燃えるように光を放っている。
「先に言っておくが、私に賄賂は通用しない。寧ろ、悪印象だ。仮にあれのお陰で交渉を優位に進められると思っているのなら、その目算は誤っていると言わざるを得ないな」
「呵呵、なに、そうとは思っていないさ。あれは単純な儂の善意よ。それに、交渉などと、誰がそう言ったのかね?」
「ハハッ、申し訳ない。私の経験上、前触れなく贈り物をしてくる輩は何か下心あって——特に、私を雇おうとしているヤツか、私に惚れたヤツか。そのどちらかなんだ。まさか、アンタまで後者の可能性を示唆するわけじゃ無いだろう?」
「無論だな」
「じゃあ、答えは一つだ。アンタは、私を雇いたいと思っている」
「ふむ」
「だが、私は名前と顔を知っているヤツからの依頼しか受けないようにしているんだ。だから、もし話を進めたいなら今すぐに名を名乗れ。でなければ、私は帰らせて貰う」
「中々どうして……君は、儂の想定以上に賢いようだ。ともすれば、君の言う交渉とやらも、難儀なものになりそうだ」
彼はクイッと、グラスの中に入った最後の一口を飲み干した。
芳醇な香ばしいウイスキーの香りが、まだ漂っている。そして、少しばかり余韻を楽しんでから、再び彼の口が開いた。
「では、名を名乗ろう。儂は、アレイスター=クロウリー。故あって、貴殿を雇い入れるべくはるばるここまで足を運んだ次第だ」
「アレイスター=クロウリー……」
「聞き覚えがあるのかね?」
「いや、その真逆だ、爺さん。アンタ、どこで私の名前と仕事を知った?」
「それを知る必要があるのかね?」
「当然だ。アンタは私のポリシーに反するルートから情報を得た可能性がある。私は、そんなヤツからの依頼は受けない」
「ポリシー……か」
どこを見ているのか、何が見えているのかは知らないが、クロウリーの眼がぎゅるんと震える。
目端の皺はその笑顔が故にさらに増え、常人離れした、一種の神秘性が彼の表情を覆っていた。
「これは不躾な質問になるが……戦争に赴き人間の命を奪うことを生業とする傭兵の君は、どうしてそのようなポリシーにこだわるのかね?」
「あぁ?……チッ、んなこと、言うまでも無いだろ。アンタ、この世界で最も優秀な傭兵とは、どのような傭兵だと思う?」
「……」
数秒、彼は口元に手を当てて思案し、そして、謎が解けたとばかりに顔を上げる。
「呵呵!面白い!その定義に則れば、確かに君はこの大陸で最も優秀な傭兵といえるであろう」
「分かった風な顔でそんな台詞吐いても、クソ程の役にゃ立たねぇよ」
「これはこれは……失敬。成る程、君の考える最も優秀な傭兵とは、戦況を左右するだけの確かな実力を持っていながら、その名前が一切世俗に広まっていない者のことを言うのだ、そうであろう?そして、仮に儂が君の存ずるところでないルートから君の情報を入手したのであれば、それは君に対する営業妨害も同義であり、最早排除すべき敵でしかなくなってしまうというわけだ」
「……」
「確かに、暗殺者や傭兵。つまり、人命を奪うことに特化した職業は、得てして仕事に失敗することで名が広まるものだ。加えて、君が自らの名声が広まり過ぎぬよう気を遣っていると言うのであれば、このように接触するだけで、かなりの手間が掛かったのにも頷ける。君は、傭兵としての仕事を失敗したことないのであろう」
「失敗ね……いや、無いわけじゃないさ。でもそんなこと今はどうでもいい。それで?私が、爺さんの持つ情報の出所を知りたいと思う理由が分かっただろ?教えてくれよ」
「分かった、教えよう。君の右手がそのサバイバルナイフに伸び切る前にな」
「ふん」
ヴィオラの腰ベルトの右側にはサバイバルナイフ、左側にはハンドガンがそれぞれ収められている。そして今、その右手はナイフの柄にまで伸びていた。
場合によっては、目の前の相手に強引な対応を行わなければならないだろう……彼女の眼光は常日頃と変わらず鋭いままだったが、その中に秘められた感情は刻一刻と移りゆく。
「儂がヴィオラ君のことを知ったのは、儂が所属している組織のボスが、君を推薦したからだ」
「そのボスは誰だ?世界連合の軍幹部か?ラグナルの宰相か?それとも、アズールの独裁者か?」
「呵呵、それらはかつての君の雇い主かね?しかし、彼女はそのどれでも無い。」
「じゃあ、誰だ?」
「それは、これを見れば分かるであろう」
そう言うと、クロウリーはローブのポケットの中に手を入れ、数秒ごそごそと漁ってから、美しい宝石があしらわれた木箱を取り出した。
大きさは手のひらに乗る程度のものであり、重いわけでもない。ただ、頑強そうな鍵が掛かっており、無理矢理にでも開けるのは相当の力を込めないことには現実的で無いだろう。
「これが、鍵だ」
「……」
「君が、開けると良い」
「私が?」
「そうだ。寧ろ、君にはその箱を開ける責任と権利がある」
「訳が分からねぇな。何を企んでる?」
「情報の出所が知りたいのであろう?」
「……フゥ。分かった、開けよう」
ヴィオラはそう言うと、彼の差し出した小指サイズの小さな鍵を親指と人差し指で摘み上げた。
鍵そのものの構造は単純だ。しかし、それを指してみると分かる……中には、何か得体の知れない力によって細工が為されているらしい。
程なくして、小さな音と共に鍵が開く感触が手のひらの中で響いた。
「……」
どうして、今自分は緊張しているのだろうか。
ただ、箱を開けるだけだろう。普段、このようなことは気にも留めないような行為であるはずだ。
微かに、手が震えているのを感じる。
だが、逃げるわけにはいかない……流れ下る唾を一度飲み込んで、彼女は蓋を押し上げた。
そして。
「!!!」
「キャッ!」
「あぁ!?なんだぁ!?」
気づいた時には、右手にナイフを持ち、眼前の老人の首元にそれを当てていた。
ヴィオラの右足は机の上に乗せられており、その衝撃でか、近くの机でテーブルゲームに興じていたグループに被害が行ったようだ。
喧嘩か?と周囲の人々がこちらに注目するのを感じる。
だがそれでも、彼女はその箱の中で見たものが脳に焼き付いて離れなかった。
これは……このロケットは……彼女と共に、埋葬したはず。
「おい、お前!これをどこで手に入れた!」
「呵呵……成る程、これが愛か。君が恋人に選ばれるのも良く分かる」
「ふざけたこと抜かすんじゃねぇ……私が見間違えるわけねぇだろ。これは、アイツの。クラリアの、ロケットだ」
「その通りだ、ヴィオラ=プロフリゴ君。その箱の中に入っているものは正真正銘、かつて君の相棒であり、恋人であり、伴侶であった、クラリア=スカーレットのものだ」
「じゃあ、どうしてこれがここにある!このロケットはアイツと一緒に、一緒に……」
そして、それ以上自らの過去を口にする前に、血が上って真っ赤になった視界がスッと明けていった。
ここは、何も彼女とクロウリーだけの空間ではない。
段々と被害を受けた隣のテーブルの客の抗議の声が耳に入ってくる……右手に持ったナイフも、突きつけたところで何の意味も無い。
落ち着け。深呼吸だ。少なくとも、今は怒り狂うべきじゃない。
だがそれは、あまりにも彼女にとって地雷としか言えないものだった。
「……ふぅ」
彼女はそれから、軋んだ音で悲鳴をあげる机から足を下ろし、後ろに倒れた椅子を立てて再び腰を下ろした。
「怒りは治ったかね?」
「いや、全く。ただ、冷静に話すことくらいはできそうだ。さぁ答えろ。どうしてこのロケットがここにある」
「その回答は本当に必要かね?既に君の中で答えは出ているはずであろう。あぁ、先に逃げ道を塞いでおくが、君の伴侶の墓は一切荒らされておらんよ。君が自費で作ったものそのままだ」
「……」
「儂の上司は、そして君の情報の出所は、君のかつての愛人だ」
「彼女が、生きているのか?」
「でなければ、儂は死者の命令を受けて……或いは、それに類する物の幻覚を見て、君の元まで赴いた狂人ということになる」
「それなら、どうしてクラリアは私に会いに来ないんだ?」
「彼女の意思は、彼女のみぞ知る。少なくとも、儂に推し量れるようなものではない」
「……」
もし、クロウリーの発言が嘘だったなら、と考えてみる。
ヴィオラはこの後、確実にクラリアの墓へと向かうだろう。
だから、もし彼がこのロケットをその中から持ってきたのであれば、すぐに嘘だとバレてしまう。そんなことは聡明なクロウリーであれば分かっているはずだ。
それに、傭兵と雇用主の契約は報酬という名の互いの信頼の上で成り立っているのだから、このような重大な虚偽が明るみに出れば当然、雇用関係も終わる。加えてそれがヴィオラであれば、必ず報復を行うだろう。
何から何まで、この嘘は割に合わない。吐くにしても、もっとバレにくくて信頼させ易い嘘など山程ある。
そう、つまりは。
「何をやればいい?」
「……儂の依頼を受けるのか?」
「あぁ。ただしそれは、アンタの証言に嘘は無いと私が信頼している間だけだ。もし、どこかに偽りがあれば、すぐにでも仕事を放棄する。それに、アンタのこともただじゃおかない」
「分かっているとも。それに、儂の言葉に嘘偽りはないのだから、そのような復讐の日が来ることも永遠に無いのだ」
「それで。本題を言ってくれ」
「了解した。早速、君に依頼したい仕事だが——」
そしてこの日。
私は、この長く、深遠なる戦いの入り口に立った。
いやもしかすると、私が彼女と、クラリアと出会ったその日から、この戦いは始まっていたのかもしれない。
アメジストの煌めく箱の中で、楕円形のロケットがころりと転がる。
その中心には、何によるものか、穴が空いていた……まさかデザインによるものでは無いだろう。
生々しく赤黒い痕はその凄惨な過去を端的に示している。
そして、その陰に隠れた一枚の写真は、現在か、未来か、はたまた。
少なくとも、ヴィオラ=プロフリゴという女の人生のチェックポイントとなることは間違いなかった。
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