灰色に堕ちる
ゴオルド
失恋の色
「別れたい」
そう私が切り出すと、あなたはなぜか遠くを見てから、小さく頷いた。
理由を聞かれたらどうしようかと思っていたけれど、何も聞かれなかった。多分わかっていたのだろう。愛とか恋とかいうものがいつのまにか蒸発してしまって、もう何も残っていないことに。
本当に何もなかった。
何もなさすぎて凪。平穏ですらあった。
嫌いなわけでもないし、ほかに好きな人ができたわけでもない。しかし、あなたと一緒にいる時間がもったいないと時々思うようになった。
昔。といっても、そんなに前のことではないけれど、伯母さんが離婚した。熟年離婚というやつだ。伯父さんとは仲が良さそうだったのに、伯父さんの定年退職を機に別々に暮らすようになった。
「もういいかなって」
伯母さんはそう言って、晴れ晴れと笑った。
私は離婚というのは、もっとネガティブな感情のこもったものだと思っていた。好きならずっと一緒にいるものだと、十代のころは信じて疑わなかった。別れるってことは、浮気したとかDVがあったとか、何か決定的なものがあるはずだと。
親戚たちは、きっとつらい結婚生活だったのね、たくさん我慢していることがあったんでしょう、そんなふうに噂していたけれど、伯母さんは否定した。
「あの人と結婚してよかったと思うわ。でも、もういいの」
人生は有限で、あなたに時間を使うのが惜しいのです。
ああ、もしかして伯母さんもそうだったのかな。今の私と同じだったのかな。本当のところはわからないけれど、人生についての解釈が少し深まったような気がした。
身勝手な私を、あなたはいつだって笑いながらなじった。
「優しくないよね」
そういえば私は優しいと言われたことが一度もない気がする。
「頑固だし」
それはそう。
「突然おかしなことを言うし」
それは心を許している証拠だ。だから何だという話ではあるが。
あなたには、なんだかいろいろ言われた気がするな。それなのに、最後の最後では何も言わないんだ。きっともう何を言っても意味がないから?
別れを切り出した私のほうが、置いてけぼりの気持ちになっている。
すがるように手を伸ばしたら、あなたは手を握り返してくれた。少し安堵する。そのとき、マニキュアが塗られているのに気づいた。
「爪、青いね」
「そうね。結構前から青いよ」
「あれ、カラコンやめたのっていつからだっけ」
「もう大分前かな」
「目が黒くなって、爪が青くなったわけか」
「うん」
いつのまにか失っていたのは色。私の目にはあなたの色がうつらなくなっていたようだ。
「僕は女の子じゃないから」
「急に何」
「ネイルしても、カラコンやめても、気づいてくれなくても文句は言わないけど」
「うん?」
「でも、気づいてくれたら嬉しかったとは思う」
彼のほうから手を離した。
「ほんと優しくない彼女だったよ、あなたは」
そうね、と頷く。
「でも、冷たいわけじゃなかった。あなたにはぬくもりはあったんだ」
ああ、優しいというのは、こういうことかと思う。もう二度と会うことはないであろう女に対して、おそらく不満に思っていることがたくさんあるであろう女に対して、最後にフォローの言葉を贈る。その優しさは、私にはなかった。
「ばいばい」
「うん。ばいばい」
がっかりしたときに落ち込むのが嫌だから、期待しないようにする、という話をよく聞く。
でも、期待しないなんて、本当に可能なのだろうか。期待ってつい無意識にしてしまうものではないのか。
また、別の話も聞いたことがある。がっかりしたときに落ち込まないようにするには、嬉しいときに喜びすぎないようにするとよい、というものだ。
喜びすぎなければ、落ち込みすぎることもないという。
でも、それって本当だろうか。
私は今少しだけ落ち込んでいる。でも、激しくは落ち込んでいない。それはもしかしたら喜びすぎない人間だからなのだろうか。
あるいは愛しすぎなければ、別れの苦しみが少ないということなのだろうか。
それって灰色だ、と思う。
失恋した直後に冷蔵庫の中のことを思い出して、今夜の夕食の献立を考えている私。そんなの灰色じゃないか。もっと泣き叫ぶような紅、身を引き裂かれるような青の別れこそが、確かにこの世界で生きるということなのではないのか。時間は誰かのために使ってこそ、美しく色づくのに。
自分のためだけに自由に使える時間は、どこまでも灰色だ。しかし、私が求めてやまないのもまた灰色なのだ。
ひとりになった。心は平坦で、どこまでもグレーだが、きっとそれが私にはお似合いなのだろう。
夕食はおにぎりにしようと思う。味噌汁もつくろう。卵焼きもだ。
<end>
灰色に堕ちる ゴオルド @hasupalen
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