〘KAC20247色〙青いインク

月波結

青いインク

『拝啓

 お元気ですか? やっぱり手紙なんてかえって恥ずかしいですね。

 春休み、楽しく過ごせてますか?

 春休み前にほぼ無理やり大杉くんに住所を聞いたのは、このためだったんです。

 わたしは今、長崎県にいます。めちゃくちゃ海がキレイなところです。九十九里とは同じ海でも色がまったく違います。

 実を言うと、わたしの家は事情があって長崎に引っ越すことになったのです。

 そんなわけで、もう大杉くんに会えないんだなぁと思ったらガッカリしてしまって、そうだ、手紙ならいくらでもお小遣いの範囲で書けるじゃない、となったわけです。

 隠していてごめんなさい。

 この60円切手を貼った手紙が大杉くんのところに着く頃には、わたしはもう大杉くんに会えないところにいます。

 大杉くん、高校生活がんばってね』


 それは古い缶の中からたくさん溢れ出てきた手紙の一通だった。どこかの棚から突然落ちてきたものだった。

 懐かしい。昭和の遺物だ。

 裏を返すといつも通り差出人の住所はなし。ただ『園村典子そのむらのりこ』とだけ書いてある。みんなから『テンコ』と呼ばれて輪の中で笑っている、明るい子だった。


 僕は中学卒業の折、テンコに住所を聞かれるまで自分が他人からそういう風に思われることがあるという可能性を考えたことがなかった。なので驚いて、テンコの住所をうっかり聞き忘れた。

 それを思い出した時、まぁいいや、二度と会えなくなるわけでなし。

 うちに帰って卒業アルバムの後ろの方を見ると、やっぱり名簿が付いていて、住所と電話番号もしっかり載っていた。僕は安心した。


 けど、長崎となると話は別だ。

 誰もテンコの連絡先を知らなかった。

 もし知ったとしても電話なんてとても無理だ。長崎まで電話したら国際電話の料金くらいかかるんじゃないかと、黒電話を睨みつけた。


 でも、テンコは僕に新しい住所を教えるつもりはないらしい。

 そんなものだろうか?

 一方通行の手紙なんてつまらなくないだろうか?

 高校の入学祝いにもらったんだろう、万年筆の青いインクで綴られた手紙には、見知らぬ海の香りがする気がした。


 ◇


 高校生活が始まるとまた次の手紙がやって来た。

 注意深く消印を見る。『福江』と書いてある。

 僕は地図帳を取り出して、早速『福江』を探した。⋯⋯絶望的だ。

 福江は五島列島という長崎の離島にあって、ある意味長崎より遠かった。

 貯金箱を振ると、ジャラジャラという音しかしない。もっとも、札は音を立てないけど。

 でももし、ここに一万円以上のお金が入っていたとして、僕はテンコに会いに行くんだろうか?

 テンコに?

 それまでなんとも思ったことがなかった女の子に?

 わざわざ全財産をはたいて。


 テンコの手紙は奇妙なものだった。

 早くて週に一度、遅くても三週に一度は届いたその手紙にはテンコの好きなお菓子――例えばロッテのミルクチョコレートの話や、流行った映画を観ていかに感動したかなどが書かれていて、学校生活についてはほとんど書かれていなかった。

 同じクラスにいる百田ももたさんこと、ももちゃんと友だちになったこと、ももちゃんには「秘密だよ」と僕の存在を打ち明けたこと、窓からの五月の緑が輝いていることなどが書かれていた。

 僕が調べた漁港の島、五島列島の深い深い青い海の話はほとんどなかった。

 たまに、「海風が唸るようにごうごうと吹き荒れています」と書かれていたように。


 思うにテンコは好きで五島列島に行ったわけじゃないのだから、なかなか馴染めないんじゃないかと僕は考えた。

 元々好きじゃなかった場所を好きになるのは難しい。それは想像できなくない。

 そう思うと、ももちゃんとの楽しそうな話を読んでいてもなんだか悲しい気持ちになった。


 僕の気持ちは手紙を一通もらう度、テンコへと傾いていった。その不思議な手紙には恋の媚薬でも振りかけてあるのか、夏休みを利用してどうにか会いに行けないものかと考えるようになった。

 一年の時には貯金が足りなかった。

 二年の時には親に頭ごなしに怒られた。

 三年の夏、ようやくその日が近づいた時、なぜかテンコの手紙は遅れがちになった······。

 いつも当たり前に来ていた手紙がなかなか来ない。

 僕はテンコには新しいボーイフレンドがきっとできたんだと考えるようになった。手紙だけの付き合いなんてつまらない。僕だってつまらない。

 会って、顔を見て、声を聞いて、手を握って、そこに君を感じたかった······。


 ◇


 福江は九十九里とは全く違う海だった。

 砂浜がだらだら続く九十九里は、海の色も濁っている。

 福江の海は深い藍色で、どこまでもどこまでも深く続いていそうに見えた。もし沈んだら、きっと青に負けて僕の身体は見つからないだろうと――。


 僕は勇気を持って福江郵便局を訪れた。

 彼女の手紙のいつもの消印。なにか手がかりがあるかもしれない。

「すみません」と声をかけると、カウンターのおばさんが振り返った。

「はい、郵便ですか?」

「あの」と言って、僕はテンコからの手紙をおばさんに見せた。

「この、差出人の園村典子さんを探しているんですが」

「あらほんと。こんなにたくさんある手紙の差出人に住所が書かれたものは一通もないんだね」

「はい、いつも来るばかりで――。転校しちゃった子なんです。一度くらい返事をしたくて」

 その台詞は局内のおばさんたちに十分、効果的だった。

「高校生よね? うーん、知らないな。大体、この辺の子はわかりそうなものだけど」

「小川さん、ほら、あのおばあちゃんは?」


 そのおばあちゃんは毎週のように現れて、白い封筒に青いインクで書かれた手紙の封筒に六十円切手を貼って、帰っていくということだった。

「あの人、園村さん! ほら、この封筒! この辺じゃ珍しい苗字だから覚えてたわ! 園村さん家、どこだっけ?」

「配達員が知ってるよ」

「よかったねぇ、イケメンのお兄ちゃん! 千葉からわざわざ来たかいがあったってもんだ。しかし千葉からねぇ。遠かったわねぇ」

 僕は作り笑顔をするのに必死だった。


 ◇


 配達員さんに教えられて行ったテンコのおばあちゃんの家は、坂の上の海がよく見えるところにあった。小さくて、古い家だった。

 黄ばんだ呼び鈴を鳴らすと、ピンポーンときちんと音がしてホッとする。中から「はーい」と老人特有の声がした。

「はい、どなたですか?」

「あの、僕は園村テン······典子さんの転校前の友だちで大杉って言います。ここに、典子さんはいらっしゃいますか?」

 老婆はじっと僕を見据えて、そして「入りなさい」と言った。

 やった! テンコに繋がった。

 そこに座んなさい、と薄い座布団を指さされる。

 座敷からの景色は絶景で、段々と青い海が空に交わるところがよく見えた。

 ······よく見えたのに、なんでテンコは海の話をほとんどしなかったんだろう? 海が嫌いだった?


「アンタかい、典子の手紙の相手は」

 急須から湯のみにお茶を注ぎながら、おばあさんは笑った。

「見ただろう? ここから郵便局までは一本なんだけど、坂道がキツくてね」

「僕も息が切れました」

「ああ、そうそう、出そうと思ってた典子の手紙、そこにあるよ」

 ちゃぶ台の上に置かれていたその手紙に、僕は手を伸ばした。


『拝啓

 夏休みですね!

 大杉くんと会えない夏休みが三度目になっちゃった、なんて、中学の時だって夏休みに一緒に遊びに行くことなんてなかったのにね。

 わたしは他のみんなみたいに、大杉くんと夏休みに海やプールやBBQに行ってみたかったな! 確か、男の子同士で山にテント張ってBBQしたら、雨が降ってきて大変な目に遭ったって言ってたよね? 夏休み明けに話してるのが聞こえて、すごくうらやましかったの覚えてる。

 わたしが男の子だったならなぁって!

 そんなのバカな考えだと思いますか?

 でも、今みたいにまったく会えないでいるのなら、性別なんて小さいことのように思えます。わたしが男になれば大杉くんに会えるなら、喜んで男になるよ!

 そうしたら彼女ができても、結婚しても、一生、わたしと仲良くしてね。

 バカなことばかり書きましたが、夏休み、わたしは補習です。ちょっと単位が足りなくて。

 おバカなヤツ、と笑ってやってください。

 大杉くんは今年も九十九里に友だちと自転車に乗って行ったりするのかな? もしもまた会えたらわたしも連れて行ってほしいです』


 その手紙にもやっぱり五島列島のことも、福江のことも一行も書かれていなかった。

 この海で日焼けをして笑うのは君で、九十九里の僕のことなんて考える隙間もないはずなのに。


「いつもそんな風に手紙を読んでくれてるんだね、あの子の我儘わがままに付き合ってくれてありがとう。ほら見てご覧」

 おばあさんの手元には一回り大きな封筒があって、そこにテンコの手紙はすっぽり収まってしまった。

 大きな封筒には、ここ、福江の住所が書いてあった。

「いつもこうやって来るんだよ。アンタにね、余程知られたくないんだね。福江に住んでるなんて嘘だよ。わかるだろう? こんな小さな家に住めっこないこと。

 向こうからね、こうして二重にして手紙が届いて、私が中身を郵便局に持って行くんだよ。

 でもね、あの子のことは忘れてアンタは今を楽しみなさい。あの子からの手紙は出したことにしておくから。

 大事な高校生最後の夏休みに、お金かけてこんなところに来てたらダメだよ。前を向きな」


 ◇


 テンコに関する情報は途絶えてしまった。

 おばあさんは頑なに、テンコの居場所を教えてくれなかった。僕はそのまま帰りの船に乗るしかなかった。




 千葉に帰ると、思ってもみなかったことが起こった。

 中学で一緒だった佐々江さんから突然、電話がかかってきた。

祐司ゆうじ、アンタ、佐々江さんて女の子から電話だよ」

 母が受話器を手でおさえて、玄関の電話前で待っていた。僕は佐々江さんとも中学以来会ってなかったので、どうしたんだろうと思った。でも、確か佐々江さんはテンコと仲が良かったことは確かだった。

「もしもし」

 なんでもない風を装って、電話に出る。やあ、どうしたの、なんて軽い調子で。

「大杉くん? どうしてテンコに会ってあげないの?」

 佐々江さんは途中から涙声だった。

「え? じゃあ大杉くんはテンコから手紙をもらうだけで居場所を知らないってこと?」

「そうなんだ。僕は······その、園村に会いに行ったんだよ。······五島列島まで」

「大杉くん、早く教えなくてごめんね! テンコが大杉くんの話ばっかりするから普通に文通してるのかと思って」

「佐々江さんはテンコによく会うってこと?」

「うん。会ってあげてよ。わたしなんかより、大杉くんに一回会うことの方がずっとあの子にはいい薬だわ」

 その後、佐々江さんは落ち着いて、僕たちは待ち合わせする約束をした。僕は、佐々江さんの言うことの意味することを知った。そしてなぜテンコが僕に住所を教えなかったかも――。


 ◇


「テーンコ!」

ゆきちゃん、また来てくれたの!?」

「他にも来たいってヤツはいたんだけどね、今日は特別な人と一緒だから」

「なに、その特別な人って! あーあ、幸ちゃんにも彼氏ができたのか。先越された」

 佐々江が合図して、僕は勇気を持ってその部屋に入った。

「嘘······」

「嘘つきはテンコだろう? いない人に会いに福江まで行ったなんて恥ずかしくて誰にも言えないよ」

 嘘、とテンコはもう一度言った。そしてガラッと様子が変わった。

「幸ちゃんのバカ! 大杉くんに教えちゃうなんてあんまりだよ! せっかくここまで上手く嘘をつけてたのに! 帰って! 帰ってよ······」

 テンコの頭には毛糸の帽子が乗っていた。あの、TVでよく観るヤツだ。

 現実に、鈍器で殴られたような気分がする。まさか僕にいつも手紙をくれてたテンコが、こんなことになってたなんて。


「ごめん、探すのが遅くなって。遠回りなんかしないで、あの、住所を聞かれた日に僕も聞けばよかったんだ」

 テンコはめちゃくちゃに泣いていた。嗚咽を漏らして泣くテンコの声が聞こえて、看護師さんが飛んで来た。

 すぐに面会謝絶になった――。


 ◇


 僕と佐々江さんはヒグラシの鳴く中を、平行に歩いていた。夕方の涼しい風が火照ったアスファルトを冷ましていく。

「ごめんね、上手くいかなかったね。わたしのせいだよ」

「違うよ、僕はテンコの居場所を探してたんだ。佐々江さんのお陰でやっと見つかって······不謹慎かもしれないけどうれしいよ」

「テンコは大杉くんのそういうところが好きなんだな。あーあ、恋っていいなぁ」

「なんだよ、いきなり!」

「だって大杉くんもテンコが好きだから、こんなに一生懸命なんでしょう?」

 僕は口をつぐんだ。

 そんなことはどうでもいいことで、大切なのはせっかく探し当てた彼女にまた会えるのかということだった。

「テンコ、涼しくなったら手術するんだって」

「え?」

「ねぇお願いします。今日みたいなことになるかもしれないけど、また病院に行ってあげてくれないかなぁ? それとも、やっぱり病院なんて抵抗ある? テンコのこと、嫌いになった?」

「佐々江さん、なんのために福江まで行ったと思ってるの? テンコに会うためだよ」

 僕は佐々江さんの長い影を踏まないようにしながら、そう言った。


 ◇


「もう、日曜の朝から新聞なんて昭和じゃないんだからさぁ」

「別にいいでしょう? 日曜くらいしかゆっくり読めないんだからさ」

 もう! と怒りながら彼女は掃除をしている。

 僕は和室の畳の上にうつ伏せに寝転んで新聞を広げていた。子供たちがふざけて、僕の上を飛び越えていく。

 そのうちひとりが転んで泣き出して、彼女は掃除機を止めた。

「パパの上をまたいだ罰よ」

 子供を膝の上に乗せて、彼女は「めっ!」と言った。

 もうひとりが「あっ!」と言うと、書棚の上から古い缶が降ってきた。その中にはびっしり、青いインクで書かれた、古ぼけた手紙が入っていた。

「ねぇ、ママ、『典子』って書いてあるのにどうして『大杉』じゃないの?」

 僕とテンコは顔を見合せた。

 僕はニヤッと笑って言った。

「ママが意地悪だったからだよ」と。


(了)

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