トリあえず

葎屋敷

とりあえず


「とりあえずビール! じゃないのよ」


 鋭く言われたそれに、俺の身体は硬直した。帰宅したばかりだというのに、妻はまるでカエルを睨む蛇だ。視線を逸らすことすら許されない。

 今の彼女は蛇どころか鬼にも等しい圧力と強大さを備えている。逆らうことは愚策だろう。

 俺はリビングの床に正座してから、頭をぐっと下げた。


「すまん」

「すまん、でもないのよ」


 謝罪はあえなく失敗。じゃあなんなんだよ。


「あなた、帰ってきたと思ったら、疲れたって連呼して、挙句の果てにとりあえずビール! って」

「た、確かに言いました」


 残業を終えて帰ってくる俺を迎えてくれる妻。彼女は炊事洗濯掃除が完璧な主婦で、彼女の料理こそ俺にとって日々の癒しである。そんな癒しを間際にしたら、人は気が抜けるものだし、上司と部下の板挟みになる俺が疲れるのも、帰った途端とりあえずビールを求めてしまうのも仕方のないことだ。しかし、これを言えば一時間説教コースである。


「あなたが仕事頑張ってくれてるのは知ってます。でもここ居酒屋じゃないから。家だから」

「はい」

「ただいまって言いなさいよ、とりあえずは」

「ただいまです」

「はい、おかえりなさい」


 どうやら俺が挨拶もなしに酒を求めたことにお怒りのようで、妻の怒りはそこで終わりを見せた。

 彼女はキッチンに戻ると、用意しくれていた料理を次々と運んでくる。サラダ、トンカツ、味噌汁、付け合わせの小鉢、ご飯。その香ばしい匂いに俺の心はくすぐられる。

 俺はジャケットを脱いで、すぐさま食卓についた。よだれが垂れないように心がけながら、さっそくメインのトンカツに箸をつけようとすると、


「え」


 さっと、箸が空を切った。トンカツは空中浮遊さながら、俺の顔より上にある。よく見ると、妻が俺からトンカツの皿を取り上げていた。


「な、なにするんだ」

「ジャケット」

「え」

「手洗い」

「あー」

「脱ぎたての靴下!」

「うーん」


 妻があげているのは、おそらく俺が飯を食べる前にしなくてはならないことだ。具体的には、脱いだままソファに打ち捨てられたジャケットとか、まだしていない手洗いだとか、さっきビールを要求する前に廊下に置き去りにした靴下を洗濯カゴに入れることである。


「いい加減にして! あなたには、トンカツを食べる資格はありません」

「え、そんな!」

「そんな、じゃないわよ! 反省するまで、あなたのご飯はこれよ」


 残酷な宣言ののち、俺の前に出てきたのはズッキーニだった。丸々一本のズッキーニの周りを囲むように、小さなちぃさな鶏肉の切り端がちょろちょろ転がっている。皿の上にはみ出た緑のそれに、俺はため息を吐いた。


「あんまり好きじゃない……」

「なによ、鶏肉も入ってるでしょ。ズッキーニの鶏肉和えよ」

「鶏肉じゃなくてズッキーニがメインじゃないか。あんまりだ」


 それから、トリあえズッキーニは食卓に毎日並び続けた。いくら機嫌をとろうとも、もう怒ってないかのように笑みを浮かべていようとも、妻のズッキーニ地獄が終わることはなかった。

 俺のタンパク質不足は日に日に深刻になっていった。さすがにこれはやり過ぎだろうと抗議の声をあげたが、妻は変わらない。それどころか、


「トリあえズッキーニ? なぁに、それ?」


 こんな調子だ。ズッキーニを食卓に出しておきながら、ズッキーニの存在を否定する。さも、自分はなにも変わったことはしていない、と主張しているのように。

 「とりあえずビール」なんて言ってしまったが故に、俺の生活は変わってしまったのだ。


 ……それにしても、今回は妻の怒りが長い。どんなに激しく言い合おうと、三日以内には機嫌を直していた妻が、今回ばかりは二週間もこの調子である。しかも、ズッキーニを出し続ける以外は以前の妻と変わらない。


 俺は意を決して、あることを試してみることにした。




 その日はいつも通り帰宅して、ここ二週間は欠かさなかったことを、あえてしなかった。

 靴下を洗濯カゴに入れなかった。ジャケットもハンガーにかけなかった。手洗いもしなかった。

 そして開口一番、俺は「とりあえずビール!」と言ったのだ。


 さあ、妻はどう反応するか。

 俺がじっとその動向を伺っていると、彼女はさして動揺して様子もなく、さっと食卓にズッキーニを置いた。


「はーい、どうぞ!」

「え、いや、俺はビールを……」

「そうよね、とりあえずはビールよね!」


 いつもの彼女なら吐かないセリフ、満点の笑顔、置かれたズッキーニ。怖いと言うより、不気味だった。

 俺は妻のエプロンにしがみつき、膝を床について懇願した。


「お、怒ってるなら、こんなことせずに言ってくれ! 何度でも謝るから!」

「なんのこと?」

「ズッキーニばっかり出されて、そのたびに責められているようで辛い! 栄養不足で頭もいたい、体力がもたない! とりあえずビールなんて、居酒屋のようなことを言ってすまなかった。もう許してくれ!」

「なに言ってるのよ?」


 妻は私の手を取って、こちらの瞳を覗き込んで、やはり満面の笑みを湛えていた。


「素敵な言葉じゃない、とりあえずって!」

「……え?」

「あ、もしかして本当はお腹空いてないの? なら、とりあえずお風呂入っちゃって!」

「…………い、いい加減にしてくれ!」


 私はそう叫ぶと、寝室に一目散に駆け込んで、自分のベッドに入り込んだ。たとえズッキーニといえど、夕食を脱いたのは失策だったと言わざるをえない。






「今日は飲みに行かないか?」


 そう誘ってきたのは、同僚の入江だった。

 最近は妻の機嫌を直してもらおうと、早く帰宅してばかりだった。よって飲みの誘いも断っていたのだが、正直今は家に帰りたくない。

 俺は入江の誘いを快諾して、会社近くの居酒屋へと足を向けた。



 ガヤガヤと仕事帰りのサラリーマンが集う、狭い店内。見慣れたバイトくんに持ってきてもらったおしぼりで手を拭きながら、俺は妻のことを思い出してため息を吐いた。


「お、どうした? 悩み事か?」

「ああ、そうなんだ。話聞いてくれるか――?」

「もちろん。あ、その前に注文済ませちまおうぜ。すみませーん」


 入江はそう言うと、忌むべきあのセリフを口にした。


「とりあえずビール二つ!」

「…………いや、俺はウーロン茶で」

「おいおいおいおい、どうしたんだよ。ビール大好きなお前が」


 店員に対して注文を訂正する俺に、入江はようようとこちらの悩みの深刻さを感じ取ったようだった。


「ほら、話せよ。どうせ奥さんとなんかあったんだろう?」

「……お前にも怒られるかもしれないけど」

「ああ」

「実は、些細なことで嫁のことを怒らせちまって。それから、ずっと食事が同じメニューなんだ。夕飯は毎日ズッキーニだ」

「独特な怒り方をする奥さんだな」


 正当な評価に、俺は首肯せざるをえない。


「そうなんだ。でも、今までここまで長いこと怒らなかった。二週間だぞ、二週間」

「二週間ズッキーニか」

「ああ」

「そりゃきつい」


 入江はオーバーに両手をあげて降参のポーズを取って見せた。親身に聴いてくれてるのかもしれないが、面白がってるようで癪に障る。


「一応、料理以外はいつもと同じ、いや、ちょっと様子が変なのも気になる。どうも機嫌がいい。俺のことを少し追い詰めていって喜んでるのか。本当に何事もなかったように振舞いながら、ズッキーニを出してくるんだ」

「へー、それはそれは」

「……お前、面白がってるだろ」

「バレたか。……いや、そんな顔するなって。協力はしてやる。奥さんがなんで怒ってるのか原因を分析し、彼女の機嫌を直す方策を打ち立てよう。で、どんなことで怒らせたんだ?」

「……ビールだ」

「は?」


 うすら笑いを浮かべていた入江の表情が崩れる。そして俺の言葉を理解しようと、視線が鋭くなった。


「ビール? なんだお前、酒乱にでもなって奥さん困らせたのか」

「違う。ビールは確かに怒らせるまでに毎日飲んでたさ。でも、多分そこを怒らせたんじゃなくて」

「じゃあ、なんだ」

「『とりあえずビール』って、そう言っちまったんだ……」


 俺はそれから、嫁の言っていたことや、当時の状況などを仔細話した。実利のあるアドバイスを得るために、できる限り客観的に話すように心がけた。そのため、「お前が悪い」と評されることも覚悟していたが――。


「いんや、それは奥さんが悪い!」

「…………へ?」

「『とりあえず』なんて、素敵な言葉じゃないか! 世界一って言ってもいい。そんな言葉を言われたぐらいでなぜ怒る? お前の奥さんを悪く言うのは忍びないが、はっきり言って器量も常識もない。行間が読めない子どものような人だ。すぐに別れろ」

「お、おいおい。さすがにそれは――。これは、俺が悪かった話で」

「確かに、靴下を放棄したところはよくなかったな。でもそれだけだ。お前が発したその言葉は、とても大事で根源的で、まさしく人生のテーマのような言葉じゃないか。それを発するための過程と思えば、腹も立たないだろう。お前の奥さん、はっきり言っておかしいよ」

「……なに言ってるんだよ、入江」


 入江が唱えたのは無茶苦茶な論法で、詭弁ですらない。それこそ常識の外にいる者の戯言としても価値のない、面白みもない。あまりにも意味が不明な音の羅列だった。

 俺は入江の言っていることがわからなくて、首を傾げる余裕すらなく、目の前にいる男を見た。張り付いている笑顔は薄っぺらく、かといって崩れるようには見えない。型に無理やりはめ込んだような満面の笑みで、俺の妻を否定し、俺のあの日の言葉を肯定する。

 なんだ、なんなんだろう。


 とても気味が悪い。


 さらに不気味だったのは、入江と俺の話を盗み聞いていたらしい近くの席の客たちが、一斉に入江の意見に肩入れし始めたことだ。


「そうだぞ、にーちゃん。そんな女、別れたほうがいい」

「『とりあえず』って言われて怒るたぁ、教養がねぇなぁ、最近の若いのは」

「いいやぁ、俺の息子嫁なんか、その辺しっかりしたものだ。教養ないもんは昔に比べれば減ってるはずだ。たまたま、にーちゃんの嫁がハズレだったんだ。次を狙え、次を!」

「そうだぞ。とりあえず離婚しちまえ!」

「いいこと言うねぇ。そうだ、とりあえず離婚しちまえ!」


 複数の見知らぬおっさんたちに離婚を勧められ、俺は困惑を顔に張り付けて、内心呆けていた。つまり、意味がわからなくて、ぽかーんとしたのである。


 この人たちはなにを言っているのか。嫁は立派な女だ。確かに口うるさいところもあるが、家事はできるし、明るくて、今回のことが異常事態なだけだ。その原因だって俺にある。彼女はなにも間違ったことを言っているわけじゃない。

 なのに、彼女をけなす彼らの言い分はなんだろうか。まるで筋が通っていない。


「あ、あの! 確かに、うちの妻は長い間怒ってるし、俺もそれで困っていますが、初対面の人たちにそこまで言われるようなことをしているわけでは――」

「おいおいおい、優しいのもいい加減にしろよ」


 第三者からの誹りを受けて、そうなんです荊妻が、と語れるほど亭主関白であるつもりはない。俺が愛する妻のために一声あげようとした。

 しかし、そんな俺の両肩にしっかりとした手が置かれる。それは俺の真正面に座る入江のものだった。


 入江は女癖の悪く酒癖も悪い。こいつが居酒屋の便器で吐いているところに、浮気を知った彼女四号がトイレのドアを蹴って出てこいと怒鳴り続けている、という現場に遭遇したときは品性を疑った。

 しかし、こいつは女を侍らせるために人並ならぬ努力をしている馬鹿野郎でもあり、食事にも気をつかい筋トレも欠かさず、人の話をよく聴き、笑顔を絶やさない。女から好印象を持たれることに全力を尽くしている男であり、そのおこぼれを差し出すがごとく、男友達に対しても溌剌として場の空気を読むいい友人だった。


 そんな入江が、見たこともないような険しい表情をしていた。

 こちらをじっと見据え、瞳孔が開いている。口角をしっかりと上げていたはずの口元は、いつの間にか平らになっていて、なにを考えているのか感じ取れない。

 明らかに様子のおかしい入江に、俺は背中にすぅっと冷たいものが走るのを感じた。そこで気づく。俺は今、恐怖を感じて冷や汗をかいているのだと。会社に入ってから十年、同期であり戦友だとすら思った、入江にだ。


「な、なぁ、どうしたんだよ……」

「いいか、奥さんとは別れろ。お前の奥さんはおかしい」

「い、いやだから――」

「『とりあえず』っていい言葉だろうが!」


 それは感情があふれたという表現では生ぬるい。爆発したといった方が適切なほど、張り詰めた怒号だった。

 そしてそれは号令でもあるかのように、他の客から激しい感情の発露を誘発する。


「そうだ! 別れろ!」

「この言葉の意味をわからぬ者は別れろ!」

「いいや、言って聞かせろ! 自分が間違っていましたと謝罪させろ!」

「土下座させるんだ。自分がどれだけの非礼をしたかを、地の味を舌にしみこませながら教えてやれ!」

「いいや、それじゃ足りない。身体に教え込め!」

「そうだ」

「そうだ」

「そうだ」

「そうだ! 血祭りにあげろ!」


 その異様な光景は、俺が今まで過ごした人生の中で、一番の狂気と言えただろう。誰もが支離滅裂な理屈でひとりの人間の尊厳を否定している。

 その憎悪は輪唱のように店内に広がった。もはや俺以外のすべての人間が賛同しているかと思われるくらい、響く声は食器を揺らすほどに強くなっていった。


「いやぁ、盛り上がってますねぇ」


 そんな殺気に満ちた空気を割るように現れたのは、厨房に引っ込んでいた店員のそれだった。俺はそんな柔和な声に救いを求めて、彼の顔を見る。この異常な空気の中で、普通の人間、普通の言葉に早く会いたかった。

 しかし、その俺の希望は打ち砕かれた。彼の手に持っているものが理由だ。


「トリあえズッキーニ……?」

「と、鶏肉とずいきの煮物『トリあえずいき』です! うちの看板メニューで……」

「い――」


 一瞬だけ悲鳴を呑み込む。けれど呑み込みきれず、


「いい加減にしてくれ!」


 俺はそう言って店から飛び出した。入江の呼び止める声が聞こえたが、俺は決して振り替えられなかった。




 それから、俺は妻がおかしいのではなく、世界がおかしくなったのだと痛感させられた。

 居酒屋だけでなく、ファストフード店やファミリーレストラン、高級レストランでさえも、『とりあえず――』というフレーズで注文をすることがこの世の絶対となっているだけではない。街中のポスター、雑誌の表紙、商品棚の煽り文句、すべてに「とりあえず」が使われているのだ。


 もはやゲシュタルト崩壊を日常的に起こし、その言葉を見るだけで眩暈を起こすようになってしまった。俺は仕事にもいかず、自宅に引きこもるようになった。

 俺以外は誰もこの違和感に気づく者はない。あの日の居酒屋での様子を気にして何度か入江が見舞いに何度来てくれたが、その度に説明しても、意味がわからないという顔をされてしまう。奴はついには俺の妻とも和解した。理解のある奥さんだと彼女のことを評価しており、むしろ入江や妻の言っていることがわからない、俺の方が異常者であると結論付けた。

 もちろん、もとからの人間性だろうか、そんな異常者である俺のことをすぐに見捨てるような真似は入江も妻もしなかった。しかし精神科に連れていかれるようになってしまったことを考えれば、見捨ててもらった方がマシかもしれなかった。


「ほら、とりあえず今日も病院に行きましょう。いえ、とりあえずはその大量の汗を拭かなくてはならないわね――。とりあえず、その辺のレストランにでも入って汗を――」

「いやいや、奥さん。それはレストランの迷惑になってしまう。とりあえずカラオケとか、ホテルとか、人の目がなくて、かつ最低限の広さがあるところに行きましょう」

「あら、入江さん、確かにその通りね。じゃあ、とりあえずネットでこの周辺を検索して――」


 ふたりがされる会話に俺は耳を塞いでいる。そのような光景も、ここ最近のふたりにとっては見慣れたものだろう。

 俺はこうなってからというもの、人と会話をすることだけでなく、人と人との会話を聞くことすら拒絶するようになった。俺以外の人間の会話には必ず、あの不穏で意味不明で人々の気味の悪さを引き立たせている、「とりあえず」という言葉が使われるからだ。

 それはこういった人々の日常会話にだけでなく、ドラマといった創作物も例外ではない。どこにいっても逃げ場はない。人が介在すり限り、その言葉は呪いのように存在し続けた。だから俺は喧騒を嫌い、人を嫌い、音を呪うようになった。どうすればいいかわからず、両耳を塞ぎながら子どものように大声でわめき、その場でしゃがみ込むこともあった。


「ああ、とりあえず落ち着きましょう――?」

「ああ、あ、あああああああ!」


 妻の心配する声すら、俺には毒となっていった。




 思うに、「とりあえず」とは、人がこれからする思考・行動を示すため前振りのような言葉だ。故に、人の思考・行動があれば、もっといえば人が存在して言葉を用いる限り、「とりあえず」はなくならない。必ず置く隙は存在しており、人と接する限り、俺はその言葉に浸されなければならない。俺が迷い込んでしまったのは、そういう世界なんだと理解し、受け入れるのに一年かかった。


 俺は今では生活保護を受け、あの妻にも見捨てられ、友人にも見放され、最期には親を頼ることになった。

 両親は最初、俺の様子を見て心の底から心配してくれた。しかし、それも最初の数日だけだ。俺がなにに狂い、俺がなにを拒絶してるかわかれば自然と軽蔑した。


 それが精神的な追い打ちをかけてくるのも確かだったが、深刻だったのは食料的な問題だった。というのも、相変わらずズッキーニ生活が続いているのだ。

 妻と別れたのだから、それはもう食べなくてもいいのでは、と思うかもしれない。俺も最初はそう思っていた。しかし、居酒屋の店員が差し出してきたときのように、両親もまた、それらの料理を俺に提供した。し続けた。

 発狂し、鼻水と涙をボロボロと皿の上に零しながら、料理をひたすら口の中に詰め込んだ。料理とは言い難い、微妙な味付けで正直食べたくない。それでも両親が提供してくれなければ、俺は自室に引きこもって眠ることしかできない人間だ。たとえ布団の中で怯えているだけで、時間を無為にしているだけだとしても、生きている限りカロリーは消費する。なにか食べないと死ぬ。いっそ死んでしまいたいと思うが、それだけの時間、俺は飢餓に耐えることができず、結局はその忌まわしい食事に手をつけてしまう。それを無理やり口に含むしかなかったのだ。その時だけは、両親も俺を邪険にせず、ニコニコとしいたことがより俺の精神を蝕んだ。



 *



 ある日、俺は「とりあえず」を受け入れないことをやめた。つまり、「とりあえず」の言葉を真剣に考えることにしたのだ。

 他者と同じように、俺はその日、その言葉を多用した。両親は俺の代わりように驚き、とりあえず祝福の言葉を口にし、とりあえず担当の精神科医に電話で報告し、とりあえず食卓に俺の好物としてズッキーニとずいきを出した。俺はとりあえずそれに笑顔で手をつけた。「とりあえずビール!」と久しぶりに――思えばどれくらい時が経ったか。五年くらいだろうか――口にすると、両親はポロポロと嬉しさのあまりに涙をこぼした。


 それから、俺はとりあえず町に出た。不思議と、その言葉は今までと違って毒のように感じることはなかった。日常の背景として完全に、違和感なく世界を構築していた。いや、支柱になっているといっても過言ではないだろう。


 ああ、そうか。受け入れるだけでよかったんだと、俺はそのとき、はじめて実感したのだった。




 しばらく経ったその日、俺はとりあえず、いの一番に両親へと、自分が就職活動に成功したことを報告した。素晴らしい言葉を受け入れられなくなってから、すでに五年が経過していたため、就職活動は険しいものとなった。しかし、「とりあえず片っ端から受けてみよう」と自らを奮い立たせて挑めば、意外にも俺を受け入れてくれる会社が見つかった。

 その晩、両親は俺のために、やはりズッキーニやずいきをたくさん用意した。もちろん、トリをあえてある。

 もう五年間、俺はこればかりを食べている。


「本当によかったわ――」

「ああ、母さん。泣くんじゃない。ほら、とりあえずティッシュで涙をぬぐって――」

「そうね。ごめんなさい、とりあえずほら、ご飯食べちゃいなさい――」


 両親に促され、晩餐を口の中に放り込んでいく。慣れた味を喉奥に直接運ぶように、深く、深く箸を口の中に入れて食べた。これが、この五年間で癖になった箸の運び方だった。


「さあ、食事も終わったことだし、とりあえず、これからあなたのしたいことでも聴きましょうか」

「したいこと?」

「そうよ。これから再出発していくのだから、とりあえずの目標があった方がいいでしょう。たとえば、とりあえず結婚したいなぁ、とか」

「いやいや、母さん。男ならとりあえず車だろう」

「そうねぇ。それも捨てがたいわ。ねぇ、あなたはとりあえずなにがしたいの?」


 母からの問い、父からの視線を受けて、俺は笑った。鏡を見れないから確認はできないが、これはとても、自然な笑み。能面では表せないような、人間の笑みそのものだったに違いなかった。


「そうだなぁ。とりあえず、こうしたい!」

「え――――」


 俺は唖然とする両親を置いて、窓へと駆け寄った。ベランダに出れば、高層に吹き抜ける風が気持ちいい。両親が見栄を張って、いいマンションの十階に住んでくれていることが、俺の人生で初めて役に立った。

 俺はためらいなく、その柵に手をかけた。両腕に力を入れて、よいしょっと自分の身体を引き寄せて、そして柵の上に裸足で立った。


 それから、俺はためらいなく、そこから下へと飛び降りた。


「とりあえず死んでしまいたい――!」


 漏れた声は歪んだ笑いで、人間のものだった。



 *



「――残念ですが、息子さんはもう――」

「そんな――」


 とある病院の霊安室の前で、一組の男女が泣き崩れた。ふたりとも老齢の、ひどくくたびれた夫婦であった。


「家の窓から突然飛び降りたというのは本当ですか」

「はい」


 人が死ねば一応事件性がないか調査しなければならない。それはわかっているが、目の前に立つ警察官からの質問は、母親の心を十分に引き裂いていく。警察官にもわかっていたが、それでも自分の職務と役割を思えば、止めることはできなかった。


「息子さんの自殺に、思い当たる節は――」

「それが、わからなくて」

「どんな些細なことでもいいんです。なにか、悩んでいたとか――」

「……そうですねぇ。ここ二十年、息子はずっと悩んでいたような気がします」


 そう語る母親が思い返すは、ここ二十年の息子の迷走だ。

 あまり出来のいい息子ではなかった。特別運動がうまいわけでもないし、特別頭のいい子でも、容量のいい子でもなかった。そんな我が子は就職して何年か経つと、小説家を目指すようになった。

 彼の両親は、これを表向き応援しつつも、決して息子の成功を信じてはいなかった。恥ずかしがって両親に教えることはなかったものの、息子がどんな小説を書き、どんなプラットフォームでこの世に放出しているか、両親はとっくに知っていた。そして息子の小説を読んだうえで、才能がないと断じたのだ。


 それでも、夢を追うことは悪ではないし、仕事と並行して目指すであれば自由だろうと思っていた。どうせなら、その時間で嫁でも探せ、孫を見せろと思うでもなかったが、決して口にすることはなかった。


 それがいけなかったのだろうか。息子は誰でも小説を投稿できるサイトに自作の長編小説を投稿し続けるも誰からも相手にされず、苛立ちを募らせていき、ついには家族にあたるようになった。

 さらに、息子は勝手に仕事を辞めた。執筆活動に専念するために、仕方がないことだと語った。

 当然、両親はこれに大反発。結果、この親子には決定的な溝ができた。部屋にこもり切る息子。それに心砕かず、かといって見捨てられずに衣食住を与え続ける両親。改善されない、ぬるま湯のような地獄はそこにはあっただろう。


 そして、最近の息子はやはり、執筆活動に明け暮れていたと母親は思う。誰にも評価されない小説を、自分は見つけられていないだけだと信じて投稿していた。その様子を苦々しく思う両親の耳に入った、息子の独り言が――。


「……そういえば」

「はい?」

「『とりあえず』って何度も言っていたような気がします」

「『とりあえず』ですか……?」


 困惑した様子で警察官は首を傾げているが、その証言を口にした母親も、そしてそれを横で聞いている父親も同じ気持ちだった。


「最近投稿している小説サイトのイベント? のようなものがあるらしくて、就寝時間を削って色々書いていたんです。その関係かもしれないんですけど――」

「そうですか。では、心身共に疲れていたのかもしれませんね……」


 お悔み申し上げますと付け加えられた警察官の推察に、両親は頭を下げた。彼らもまた、警察官と同じ意見だったからだ。


 その後、その男の死は、疲労により夢と現実の区別がつかなくなっての飛び降り、つまりは事故と判定された。



 「トリあえず」という彼の言葉の意味を解明しようとする者は、そこにはもう、いなかった。

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トリあえず 葎屋敷 @Muguraya

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