【2章】天壌無窮の旅路

第9話 長旅の始まり

「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯。本当に⋯⋯死ぬかと思いました⋯⋯」


 シグフリアは額の汗を拭った。そでの衣が汚れているせいで、土埃の茶色が白肌に拡がる。疲労困憊で特に両足は限界を迎えていた。

 特に辛かったのは衣類の汚れだった。着替えを含めた荷物は〈冥府の河原〉に捨ててきてしまった。シグフリアは師匠とクザロの遺体を弔うためにも引き返したかった。だが、カインバルトは強く反対した。


「ここはもうクライド王国の領土だ。バウシュビッシュ渓谷を抜けた。厄介な魔物に遭遇しなかったのは幸運だった」

「強酸を撒き散らしてくる蠕虫ワームに襲われたのに⋯⋯!? しかも、れですよ! ものすごい大群たいぐん⋯⋯!!」

「人間の肉を好む魔物は、しつこく追いかけてくる。山塊の蠕虫ワームはそこまで脅威度は高くない」

「⋯⋯笑えない冗談です。それ」

「ボスが死んだ途端、れはりになったろ。群れる魔物の弱点だ。統率する一匹を潰せば撃退できる。全ての魔物がそういう生態ではないがな」


 人体を溶解させる強酸の吐き付けを回避し、カインバルトは押し寄せた大群たいぐんから一匹の蠕虫ワームだけを討滅した。放たれた剣撃は大気を震わせ、地下に逃れようとした蠕虫ワームの巨体を一刀両断した。


「その後も大変でした⋯⋯」


 漁夫の利を狙って襲撃してきた魔物達を蹴散らし、なんとかここまで下山できた。


「食糧と水の問題があったからな。多少の無茶は仕方ない」

「⋯⋯とんでもない大怪我をしているんですから、無茶はダメです。縫った傷口が開いちゃいますよ?」

「悪化はしてない。本調子ではないが無問題だ」


 カインバルトは大怪我を負っている。片目と肺を損傷する重傷だったが、たった一日の休息でほぼ回復した。本調子ではなかったが、バウシュビッシュ渓谷の峠で、何匹もの魔物を斬り伏せて、シグフリアを守り抜いた。

 大きな問題となったのは物資だった。大樹のうろに隠していたのは緊急用の食糧や医薬品のみ。今のカインバルトとシグフリアは必要最低限の持ち物しか持っていない。

 〈冥府の河原〉に引き返すのは、元々の荷物を拾う意味でも魅力ある選択肢だった。しかし、カインバルトは痕跡を残すことを嫌った。


(クザロが帰ってこなければ、レヴァンティール帝国は新たな追手を放つ⋯⋯。シグフリアが世界を滅ぼすと信じきっているのなら、使える手段は何でも使う)


 レヴァンティール帝国は、〈冥府の河原〉でクザロの死体を発見するはずだ。


(相討ちで死んだ。そう見える状況にはしてきたが⋯⋯)


 クザロの捜索に手間取ったとしても数カ月程度であろうカインバルトは予測する。残された激闘の痕跡、捨てられた荷物、魔物に食い荒らされた帝国騎士と宮廷魔法使いの死骸。その場で何が起きたかは容易に想像できる。


(俺達が死んだと思ってくれるだろうか? シグフリアと俺の死体が見つからずとも、荷物はすべて置いてきた。魔物に死体が食い散らかされたと見做してくれるか⋯⋯。いや、ないな。帝国の捜索部隊は優秀でしつこい)


 カインバルトは楽観的な予測を否定した。シグフリアの死体を持ち帰るまで、レヴァンティール帝国は捜索を続ける。


「あと半日歩くぞ。宿場町のクヨムがある」

「町? 良かった。やっと宿で休めるんですね⋯⋯! 身体を洗いたいです⋯⋯! あと新しい服も⋯⋯!!」

「町には寄らない」

「え? どうしてですか⋯⋯!? 私達、こんな汚れているのに⋯⋯! 食糧だってあとちょっとしかありませんよ!?」

「分かっている。物資の補給は必要だ。しかし、足跡を残したくない」

「足跡?」

「ここはクライド王国の領土だが、レヴァンティール帝国の国境沿いだ。帝国の影響力が強く及んでいる。情報を集める諜報員がいるかもしれない」

「⋯⋯帝国の情報機関は優秀です。敵国との国境ですし⋯⋯いるとは思います⋯⋯。帝国は各国の情勢をいち早く掴んでいました。魔法を用いた情報伝達手段がありますから」

「帝都の宮廷で暮らしてたシグフリアが言うのなら間違いないな。俺がクザロならバウシュビッシュ渓谷で追いつけなかった場合に備える。宿場町のクヨムには帝国の手先が待ち構えている。その可能性は大いにある」

「それじゃあ、町に滞在するのは⋯⋯」

「諦めろ」

「はぁ⋯⋯」

「溜息をつくな。意地悪で言ってるわけじゃないぞ」

「でも⋯⋯お風呂に入りたかったです⋯⋯。私達、身体の汚れが酷いです」

「俺達はクヨムを出発した行商人と取引する。着替えの服もそいつらから買い付ける。⋯⋯長旅をする商隊は風呂桶くらい持ってる。湯を借りる機会はあるぞ。宮廷育ちのお嬢様」

「期待してます。その後はどこに?」

「この時期は東方街道の十字路に向かう商隊がいる。そのままクライド王国の都に向かうぞ」

「王国の都⋯⋯? 人が多いところに行ったら、見つかってしまうかもしれませんよ⋯⋯?」

「逆だ。人の少ない地方よりも目立ちにくい。帝都で暮らしてたなら分かるだろ。人が多すぎて、全員を覚えていられたか? 木を隠すなら森の中だ」


 カインバルトは地面に座り込んだシグフリアを引き起こす。いつまでも休憩はさせていられない。

 レヴァンティール帝国は最高の切札を使った。騎士団最強の魔法剣士クザロが敗死したとは考えもしないだろう。すぐには動かないと踏んでいた。その間にどれだけ遠くまで逃げ延びられるかだ。


「蒼刃の魔法剣は誰にも見せるなよ。クザロの愛剣だ。それを持っていると知られたら不味い」


 合理的に考えるのなら〈冥府の河原〉に捨て置くべきだった。しかし、クザロが死に際に伝えてきた遺言を無視できなかった。シグフリアにとっても大切な品だ。


「分かりました。でも、いずれ刃の色は変わると思います。クザロさんの魔力が薄れて、私の色が濃くなっていますから」


 シグフリアは魔法剣を鞘から解き放った。蒼色の刃が黄金色に侵食されていた。所有者が移り変わり、黄金色の魔力が馴染み始めていた。


「黄金の刃⋯⋯。それはそれで目立つ。というか、金ピカの刃になるのか⋯⋯」

「なんですか? その顔?」

「凄まじく悪趣味だと思っただけだ⋯⋯」

「魔力の色は生まれつきです。言っておきますが、黄金は高貴な色です」

「分かったよ。もう言わん。だが、どこかで鞘は捨てるべきだな。帝国騎士団の紋様が刻まれてる。見つかったら言い訳できない」

「はい⋯⋯。念のために魔法で隠蔽をしておきます」


 シグフリアは魔法剣に透明化の魔法を施した。


「たいしたもんだ。ドラゴンの角や尻尾は普段そうやって隠しているのか?」

「いいえ。これは透明魔法じゃありません。首飾りに施された幻影魔法のおかげです。実体を消す超高度な魔法術式。私ではなく師匠が作ってくれました。これほどの幻影魔法を扱う技量が、今の私にはありません」

「オリジナルの魔法術式だな。俺の身体は魔法を弾く。だが、シグフリアに接触したとき、首飾りの幻影魔法は無効化されなかった。見かけ以上に凄い代物だぞ。⋯⋯レヴァンティール帝国は惜しい人材を失ったな」

「はい。師匠はとても優秀な魔法使いでした」


 シグフリアはバウシュビッシュ渓谷の山々を見上げる。両大国を分断する険しい山岳地帯。魔物の巣窟として恐れられるバウシュビッシュ渓谷を生き延びた。宮廷でシグフリアを守ってくれた師匠はもういない。だが、帝国最強と名高いクザロを討ち負かした用心棒がいる。


「⋯⋯⋯⋯」


 熊のように大柄な体躯。顔付きは凡庸で秀でた美顔とまでは言えないが、身を任せたくなる凜々しい力強さがある。幻影魔法で消えている竜尾が左右に揺れ動いた。

 シグフリアの心中で感情が燃え上がる。親愛の情を抱く人間はこれまでにもいた。宮廷で大切に育てられていたころは、周りの魔法使いや騎士団の面々が好きだった。しかし、今のシグフリアが抱くは、これまでと大きく異なる好意だ。当人も強く自覚していた。


「カインバルト。前を歩いてくれませんか? ちゃんと着いていきますから」

「体臭はそこまで匂ってないぞ。長旅なんてこんなもんだ」

「⋯⋯デリカシーが欠けてます。ちょっとくらい私の乙女心を気遣ってくださいよ」

「俺は用心棒だぞ。そんなものを求められても困る」

「⋯⋯そんな調子だと女の子にもてませんよ?」

「誰かに好かれるほど、俺は上等な人間じゃない。いつどこで野垂れ死ぬか分からん」

「あまりご自分を卑下しないでください。カインバルトは私の命を救ってくれました」


 カインバルトは社交的な性格と言えない。周囲との人間関係は希薄な気がした。シグフリアは口元を隠して微笑する。この人の良さが分かっているのは自分だけかもしれない。まだ出会ったばかりの関係だが、手応えは感じていた。




 ◆ ◆ ◆




 カインバルトとシグフリアは、宿場町クヨムから数里ほど離れた街道沿いで、通りかかる行商人を待っていた。潰された左目が膿んでいないか、シグフリアは念入りに確認する。


眼孔がんこうの傷口は大丈夫そうです。眼帯が必要ですね。汚れた包帯を使い回したくありませんけど、もうこれしかないので⋯⋯」


 湧き水で洗った包帯を巻き直した。カインバルトは片目を失明したにも関わらず、気にしている様子がなかった。


「まったく人通りがありませんけど、商人は来るのでしょうか?」

「このあたりは水場だ。そこの湧き水は飲料水になる。宿場町クヨムで水を仕入れる商人は少ない。金がかかる。だから、東方街道に向かう商人は必ず立ち寄る。待っていれば商人は来るだろう。ただし、取引を持ちかける相手は選ばなければならない」

「今の私達、小汚い格好です⋯⋯。相手にしてくれるといいんですが⋯⋯」

「その点は心配ない。商人の態度は金次第だ。幸いにして路銀は余裕がある」

「手持ちが減ったら宝石類を換金できますしね」


 本来の用途はドラゴンであるシグフリアの甘味おやつ。宝石や鉱物を好む古代竜の伝説は真実であった。


「宝石は使わない。食ってもいいぞ」

「え⋯⋯! でも、もったいないですって⋯⋯!  無駄食いはよくいないと思います!」


 黄金竜の緩んだ口元は涎がこぼれかけていた。瞳は竜眼に変化している。


「涎を垂らして言う台詞じゃないな」

「うっ⋯⋯。見苦しいところをお見せいたしました⋯⋯。だけど、私達が持っている資産の大半は宝石です。売却すれば大金になりますよ」

「宝石は足が着きやすい。しかも、シグフリアが持っている宝石は希少価値が高すぎる。量も多い。こんな辺境で売り払ったら噂になる。買い取れる宝石商は限られている」

「そういうものですか⋯⋯?」

「帝都の華やかな宮廷とは違う。入手元を問いただされたら答えられるか? 盗品と疑われかねないぞ」

「それはそうですね」

「売却は難しい。腹が減ってるなら、シグフリアの胃袋に収まっても問題はない」

「⋯⋯私だって我慢はできますよ。宝石は食べずに取っておきます。きっと必要になる日がくるはずです」


 商人が通りかかるのを待っている間、シグフリアは綺麗な湧き水で髪を洗い始めた。

 本当なら下着も含めた衣類、汗と垢で汚れた肌を洗い流したい。だが、人が来るかもしれない場所で、真っ裸になれるのははばかられる。

 まずは髪と顔の汚れを落とし、手足を冷たい流水に浸す。服は濡らさないように気をつける。着替えの持ち合わせないので、ずぶ濡れになったら最悪だ。


「カインバルトも一緒にどうです?」

「そろそろ商人達が来る。フードを被れ。シグフリアの容姿は記憶に残りやすい」


 シグフリアは目を閉じて、耳を澄ませてみる。風が草木を揺らす音しか聞こえなかった。


「何も聞こえませんけど?」

「あと二十分くらいだ。柄の良い奴らだけとは限らない。俺のような破落戸ならずものを用心棒に雇っているだろう。シグフリアのその格好は良くない」


 白肌の素足を晒すシグフリアは、濡れた髪を絞って水気を切る。


「⋯⋯でも、カインバルトが守ってくれるんですよね?」

「荒事は避ける。旅の鉄則だ」

「分かっています。でも、商人がきたら新しいローブを買ってくださいね。魔物の体液が染み付いて、変な匂いがします」

「⋯⋯戦場に比べればマシだ」


 シグフリアは肩を竦める。レヴァンティール帝国の皇帝が放った最強の刺客を返り討ちにした用心棒。カインバルトの過去は、二年前の戦争に参加していたくらいしか分かっていない。だが、帝国騎士クザロを敗死させた実力は本物だ。


(大怪我をしてるし、宿屋かどこかで休ませてあげたい)


 バウシュビッシュ渓谷での死闘。シグフリアの眼にはカインバルトの勇姿が焼き付いている。不埒な粗暴者が現れたとしても、カインバルトに勝てるはずがない。


「あ⋯⋯。本当に商隊が来ましたね」


 カインバルトが言った通り、シグフリアがフードを被った頃合いで商隊の先頭集団が到着した。荷が満載の馬車を守るように、武装した用心棒が随伴している。

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終焉の竜姫-死神が守るドラゴン娘は世界を滅ぼすか?- 三紋昨夏 @sanmonsakka

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