カエル

 僕はつい万引をしてしまった。好きなミュージシャンのライブVRのチケットだった。クレジットカードを通さなければライブに入れない事はわかっていた。ただ、そのぐらい好きなんだという決意表明をしたかった。親はそんなくだらないものの為に罪を、とかんかんに怒って、僕をVR拘置所に入れた。

 リアルの時間では一晩。拘置所のプログラムでは三日間だった。正式にチケットを買うと好きな期間入れられる筈だけれど、確か六千円ぐらいしたから、お試し版らしい。

 僕は首をぐるりと回した。部屋の大きさは僕の自室と変わらない。ベッドと、机の大きさも。ただパソコンは没収されたし、音楽プレーヤも持ち込めず、ストリーミングに繋ぐ事もできなかったから、大好きな『カエル』の歌声を聞かない夜だった。実に三年ぶりの。

 三年前、彼は突如僕の街で弾き語りを始めた。リアル世界でやるなんて馬鹿じゃないか、感染症になるぞ、とおまわりさんに囲まれている所に出くわした事がある。歌はマスクに篭もるし、彼はしゃがれたウィスパー&ハスキー・ヴォイスで、がらがらの喉にはウィルスと戦う力なんてなさそうだ。

 彼がリアルにこだわっていたのは、つい去年まで。僕がしょっちゅう探して聞くようになると、彼は照れながら「マスクをしなよ」と彼のページアドレスをマジックで書いたマスクをくれた。その次の日、有名なネットラジオで曲が流れた。

(デビューをした)

 歌はすごい。ステレオが無くたって、僕のこころで記憶の弦が鳴る。ラジオのヘビーローテーションや、音楽プレーヤで毎日リピートして聞いた曲は、僕自身と分けがたいほどひとつになって、黙りがちな僕の喉を広げさせた。靴音が一緒に響き「歌うな」おまわりさんは僕を叱った。僕だって、黙れるなら黙っている。その方が何事も静かに済んだし、叱られずに終わる。けれど、僕は、歌を覚えてしまった。ポップスでも、ロックでもない、ブルースを。仮想現実の中で、朝も昼も夜も、歌い続ける。

 三日目。目の前にわずかにノイズが走る。『サービスは終了しました』の無機質な文字と、暗闇。「ちょっと、どうして……」「メーカに電話を……」両親の慌てた声にかぶせるように、大声を張り上げた。歌う。「鍵が開かない」僕ははっと歌を止めて、ヘッドセットを探った。鍵が刺さっているが、どちらにも回らない。「嘘、嫌だ」「大丈夫、大丈夫だからな」両親は途端に僕を心配しはじめた。


 僕が暗闇に取り残されていると『カエル』の曲は力を失うようだった。あれから何時間経ったのだろう。トイレも食事も済ませた気がしない。やがて「やあ」彼の声の幻聴を聞いた。「聞こえてる?」「大丈夫だと、思います。私達の声は聞こえているようなので」「親だと言うのに、情けない」どうやら、本物の『カエル』らしい。

「万引しちゃったんだって?」

 彼はしゃがれた声で言った。「だって、ライブなんて行くなら僕の音楽プレーヤを捨てるって」僕は早口に捲し立てる。「受験なんかより、ずっと大事なのに」本心だった。『カエル』は「ばかだなあ」と笑った。「そんなの、僕が一番思ってるよ」心底反省すると、カチャリと鍵が回った。ヘッドセットが外れると、両親が喜び、スピーカーにしたスマートフォンから「あんな、少年」『カエル』の声がした。「いい声だな。歌ってみろよ」と言う。

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デッサンたち 飯鹿一「いいじかはじめ」 @kumanaka2023

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