デッサンたち

飯鹿一「いいじかはじめ」

内縁

 昏々、眠っている。夫の身体が。私は少し倦んだ気持ちで煙草に火をつけた。常夜灯と夏が額から喉元までをてらてらと照らし、乾きが喉仏をうごめかした。顎の裏に吸い傷がどす黒い色をしている。煙草を唇で揉む。大きな息で煙を吐いた。

 平々凡々を煮詰めれば、穏やかな美形の男だ。笑顔が上手く、おおらかで、優しく甘えた。つるんと剃って整えた生え際から眉間の皺へ一筋、汗がしたたる。「初めてだわ」眉間の皺を見たのは。気弱で微笑む人だ。少し甘い煙草の味が舌にじりじりと火の味を伝えてくる。

 情事の火種が身体の奥でかっと光り、煙草をもみ消した。これで過去だ。重い灰皿を持ち上げて移動しようとしたとき「う、う」夫がうなされて起きた。「うわっ」びくりと跳ね、細い脛をこすり合わせ肩で這う。「びっくりした」私は紫色の混色になりつつある夫婦愛に眉をしかめ「煙草、もらった」紙箱を枕元へ。

「え。欲しいなら言えよ」

 夫は満面の笑みを浮かべて紙箱を拾い上げ「もう一本、どう」小さな中を捜索。まだ四本は残っている。

「灰皿洗ってくる」「俺がやるから置いとけ」

 節だって長い男の指でちいさな煙草を拾い上げる。この仕草が今は妙に塩味がある。「来週の休みに行きたいとこ決めていい」

 薄くて広い唇が好きだ。細いくせに良く食べ良く噛む。「んー」マシュマロが好物の白くて薄い歯ならび。「考えとく。遠くてもいい?」私は目を逸らして灰皿を頭に乗せた。

「実家はやだよ」

「だめなの?」

 夫が大きく伸びをする。ナイトスタンドからはちみつ色の光を半裸に浴び、筋骨の影がうつくしかった。細身だけにあばらの規則性が呼吸に弾む様子が映える。「だめ」腫れてナイーブそうなくちびるに煙草を挟み、起き上がった。丸めた背骨の起伏が好きだ。

「話できないから」

「個室は私が無理。水かけそう」

 深夜にがつぅん、とシンクが鳴る。「そんなに怒ってたんだ」オイルライターがぼっ、と鳴る。謝罪はすでにもらった。「こっちむいて」吸い寄せられていく自分に腹が立ち、もう一度灰皿をごっ、と鳴らす。「わかれる。四度目だし」彼の隣からゆるいワンピースを拾い上げ、袖を通す。「そだな、四度目」夫は煙草をくゆらし「プロポーズ五度目」起き上がる。

「なんで結婚してくれねえんだ」

 初めて吐き出すような声を上げた。答えられなかった。好きだからと答えられなくなった。「実家に帰る」数秒のにらみ合い「……送って行く」夫が目を逸らす。

 財布と携帯電話を持ち「勝手にして」ローヒールをはき、外に出るとすぐに川べりの湿度が髪を持ち上げた。クーラーのダクトが腥い夜に唸っている。三叉路が多く、往路は楽でも帰る時にはかなり迷う道だった。

「駅すぐの三叉路、気をつけろよ」

 私は頷いた。もう彼は送ってくれない。初恋の人に似た声で「死ね頑固女」ざくりと背中に刺さり「今だから言うけど」お腹の物をおろす事にした。

「確実に浮気で一人殺したからね」

「誰を」

 いらいらに尖った声にさらせない物がふたつ、私の中にある。

「私が二股をしてしまった娘、お葬式呼ばれて灰被った」「言うな」「もうひとつの人も踏ん張れなかったのに」「あいつならさっさと結婚して子供できたぞ」「私も今三ヶ月」

「なんでプロポーズを無視した?」

 地の底から熱気が上がる。めまいがした。「ちょっとこい」腕を引っ張られると、無力だった。涙がこぼれる。「お前、もう四十近いだろ」十も年が下だ。うつむいて玄関に座り込んだ。

「思い直せ。この先ない」

「何もわからない。いつも隙間に違う人がいて。どうして」

 言葉が混乱する。夫も頭をかきむしって「そらっ」私を持ち上げた。「こういうのが、怖かったからだよ!」私も怯えて縮こまり「どうするかな」彼はソファーへ腰掛けた。猫のように膝の上へ「おろして」「おりろ」這って布団の中に丸まった。

「水飲め。車出すから」

「怖い」

「だったらずっと実家に電話をつなげておけ」

「だったらなんで、女の人ばっかり」

「仕事上いろんな人に会う、叱られるからさっさと髪とかせ」

 彼はテーブルの隅っこにある鍵へ手を伸ばし、私は怖くなり携帯電話の明かりをつける「電池」残り三パーセント。

「俺の使ってくれ。それと、戸籍がすべてじゃないと思いたかった」

 肩にカーディガンがかけられると、怖くて「戸籍でも誓いになってほしかった」強がる事もできなかった。

 

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