転生令嬢が大団円を目指したら

小鳩子鈴

転生令嬢が大団円を目指したら

 わたしが過去――というか前世を思い出したのは、9歳のとき。婚約者となる相手と会う日の朝だった。


 起床を促すメイドの声で目を覚まし、時計を見れば6時半。

 その瞬間「ラジオ体操」という言葉がパッと頭に浮かんだのだ。


(らじおたいそう?)


 同時に脳裏をよぎった映像は、同じ歳くらいの子どもたち。夏休みの早朝、砂を敷いた公園。ブランコに目が行く1年生、怠そうにあくびをする6年生。

 そこは、わたしがかつて住んだ町。高校卒業まで暮らした地方の一都市。

 懐かしい空の下、ベンチに置いた再生機から流れ出る、あの音楽……走馬灯のように人生を振り返る。


(……ああ、わたしは転生したのね)


 黒いワンピース、白いエプロンとキャップのメイドがカーテンを開けて、明るい朝の光が入る。

 部屋には立派な木目の家具が並んでいた。

 金模様の施された赤色の壁紙に、細やかな織りの絨毯。子ども部屋にしては豪華すぎるここは、確かに過ごし慣れた自分の部屋だ。

 リズムに合わせて腕をぶんぶん回し始めた脳内とのギャップに、横になったまま身動きが取れない。


「ミアお嬢様? 今日は午前中にお約束がありますので」


 いつもより早起きの理由を説明してくれる彼女はアルマ。この家のメイドだ。


「……おはよう、アルマ」


 そしてわたしはミア。ミア・ドゥ・ベール。ドゥ・ベール男爵家の令嬢である。


「どうなさいました、お嬢様。もしかしてお身体の具合が悪いのですか?」

「ううん。大丈夫」


 ハッと我に返り起き上がると、アルマは安心したように着替えを取りにドレスルームへ入っていく。

 その背中を見送って、ふう、と安堵の息が漏れた。


(そっか。どうりで妙だったんだ)


 これまでのわたしは、自分自身どこか地に足が着いていないように感じていた。

 馬車ではない乗り物に、動く階段、音や映像が再現できる機械。手に入らない食べ物や、聞いたこともないおとぎ話、存在しない国の歴史。

 見てきたかのようにそれらを語り、教えていない歌をうたい、ありえない情景を詩に読むわたしは変わり者扱いをされていた。


(話が合わないって呆れられたし、子どもらしくないともよく言われたわね)


 だがそれも、前世が心に残っていたせいなら納得できる。

 近世ヨーロッパ風の今の世界は、前世で生きていた21世紀の日本とかなり違うし、記憶の最後のほうのわたしは子持ちの既婚女性で、今の母より歳上だ。


 常に漠然と感じていた不安は、前世との違和感によるものだろう。

 理由が分かってすっきりした。

 これでもう、存在しない本を探して図書室に入り浸らなくて済む。材料もない料理を食べたいと言ってキッチンを困らせることもない。


(お母様たちにも心配をかけたわね)


 変わり者のわたしを両親と兄は受け入れてくれているが、周囲は違う。

 昨年亡くなった祖母はこんな孫娘を気味悪がって、家の外に出さないように厳命した。おかげで変な噂は立っていないが、友人もいない。

 それに対しても「仕方ないな」と諦めただけで寂しさも不満もなかったのだから、やはり変わっていると我ながら思う。


 親だった過去を思い出した今は、娘の奇行に気を揉む母たちの気持ちがよく分かる。

 この世界では死んだら神様の国に行くと教えられる。前世や輪廻転生の認識はなく、そんなことを言ったら「ちょっと変わり者」から異常者に格上げされてしまいかねない。

 だから前世のことは話せないが、もう大丈夫だと安心してもらえるように行動を変えていこう。


(今になって思い出すなんて。おばあ様には悪いことをしちゃった……)


 最期のときまで、成人するかしっかり者の婚約者ができるまで表に出ないように、と口酸っぱく言っていた。

 前世を思い出した今ならうまく立ち回って、心配しないでいいと思ってもらえただろうに。


 そんな後悔が押し寄せて、わたしの心にひとつの想いが浮かぶ。

 もう、自分のせいで悲しむ人を作りたくない、と。


(それに、せっかく生まれ変わったのだから、なにかできないかな)


 前世では紆余曲折と挫折が多かった。

 凡庸な人間のありきたりな人生も、終わってみればひとつの幸せの形だったと分かるけど、最中はそう思えなかった。

 どうせなら今世は、生きている間にしっかり幸せを実感したい。

 それには自分だけではなく、周りの人も幸せでないといけないだろう。


 他人の幸福を望むのは偽善ではなく、わたしが小心者だから。

 だって、たとえば自分だけ豪華な料理を出されたりしたら、優越感より気まずさを覚えるタイプなのだ。おいしいごはんを食べるときに、後ろめたさなんて感じたくない。


 だから――そう、目指すは大団円。

 皆が笑えばわたしも気兼ねなく笑えて、その中の一人として幸せになれる。


「お嬢様、こちらを」

「うん」


 そんなことを考えているうちにアルマが戻り、布を贅沢に使ったオフホワイトのワンピースドレスを着せられる。久し振りの外出着だ。


 変わり者認定されているわたしではあるが、むやみに癇癪を起こしたり、目下の者を馬鹿にしたりしないので使用人との関係は悪くない。

 丁寧に支度をしてもらい、見せられた鏡には、まっすぐな金色の長い髪に淡いトパーズ色の瞳の令嬢が映っている。


 顔立ちそのものは悪くない。

 だが、子どもらしくなく痩せこけた頬と、ぎょろりと大きい目だけが目立つ。


「……白い服を着ると幽霊みたいね」

「お嬢様?」

「なんでもないわ。そのリボンを結んでくれる?」


 ぽそりと溢れた独り言をごまかして、瞳に似たオレンジ色のリボンを髪に結んでもらう。これで少しは顔色をごまかせるだろう。


 外出どころか庭にも滅多に出ないから肌は青白く、身体も華奢だ。フリルの袖から出た骨張った腕を触りながら、もう少し運動をしようと今のわたしが心に決める。

 大団円を目指すにも、基礎体力は必要だ。


(それこそ、ラジオ体操でもしようかな?)


 その思いつきにふふ、と子どもらしくなく笑って、長いスカートの裾をしゃらりとさばくと部屋を出た。




  ☆ ☆




 今日の外出は、とある子爵令息との顔会わせだった。つまり、お見合い。

 まだ9歳の男爵令嬢であるわたしにも婚姻の打診はくる。本人の資質よりも、家としての立場や都合が優先される貴族社会ならではである。


 これまでにも何度か婚約間際までいったことはあった。だが、条件が合わなかったり、政治の風向きが変わったりして流れたのだ。

 今回は大伯父の縁で持ち込まれた話とのことで、婚約はほぼ確定だそう。

 変わり者のわたしに目を掛けてくれる奇特な大伯父の気持ちは嬉しいのだが――。


「お前なんかと結婚するものか!」


 訪問した子爵家の美しい庭で、この家の令息が鋭い視線でわたしを睨む。


(あらあら)


 先程までは邸内の応接室で双方の両親が談笑していたのだが、込み入った話し合いが必要になった段階で、「子どもは外で遊んでいらっしゃい」と数名の使用人を付けて追い出された。当事者なのに。

 部屋を出た瞬間に反抗的な態度を露わにした少年と、それでも庭に出たのだが。


 親たちがいる応接室からは見えないところまできたとたん、ずんずんと先を歩いていた彼が振り返り、人を殺しそうな視線を向けられたと思ったら開口一番のこれである。


 坊ちゃまの暴言に冷や汗を流す子爵家メイドを横目に、泣きも怒りもしないわたしを不審に思ったのか、さらに言葉を重ねてくる。


「聞いているのか? オレは、お前なんかと結婚しないと言ったんだ。誰がこんな幽霊みたいなみっともない奴と――」

「聞こえていますよ。わたしも同じ気持ちです」

「は?」

「鏡を見て、自分でも幽霊みたいだなって思いました。それに結婚もしたくないです。気が合いますねえ」


 背の高い彼を見上げて呑気に言うと、馬鹿にされたと感じたようで怒りで顔を赤くした。

 黒髪に宝石のような緑の瞳、幼いながら端麗な顔だちは将来ものすごい美男子になりそうだ。もうちょっと食べて栄養を摂って、こんなふうに顔を歪めて怒らずに黙っていれば、だが。


「あなたもわたしも強制されてここにいる、それだけのことですよ」

「な、そ……っ」


 そう返されるとは思わなかったのだろう。彼は言葉に詰まってしまった。

 けれど、ピリピリと肌を刺すような殺気はそのままだ。


(まいったな。適当に断るつもりだったけど、それじゃ駄目みたい)


 この世界に限らないが、それなりに社会的地位のある人間の結婚はビジネスだ。

 だが、わたしより4歳上とはいえ、この令息もまだ13歳。

 遊びたい盛りに家の都合で、興味もない、見た目も可愛くない婚約者をあてがわれるなんて御免だろう。


 それに、わたしの精神年齢は既婚子持ちの成人女性。お子様と結婚なんてできるわけがないし、第一こんな変わり者の伴侶だなんて相手が可哀想じゃないか。

 だから今世では結婚しないつもり。その名の通り、独身貴族が目標です。


 でも、なんだか。断ったらこの子、もっと可哀想なことになりそう。

 それは……後味がよくない。きっとずっと気にかかってしまう。大団円にはほど遠い、ゆゆしき事態だ。


「ですので、ご提案。もしわたしたちの婚約が決まっても、しばらくは従っておきませんか」

「なんだって?」


 花の飾りがついた帽子の下で思わせぶりに目を細めると、ついと近寄って、メイドたちに聞こえないように声を潜める。


「どうせ誰かと婚約しなくちゃならないんです。ラファエル様に好きな女性ができたら、すぐにわたしから婚約を解消してさしあげますから、それまでのお相手になりましょう」

「……嘘だ」


 急に距離を縮められて狼狽えた彼は、なんとか足を踏ん張ってわたしを見おろす。

 近くで見ると、糊のききすぎたカラーで擦れて首の皮膚が赤くなっていた。愛情のふりをした嫌がらせはタチが悪い。


「口約束は信用できませんか? わたし、あなたのお義母様みたいな嘘はつきません」

「なっ!?」


(あ、びっくりさせちゃった)


 彼――ラファエル・ド・ソレルはこの子爵家で浮いた存在だ。

 バリバリの政略結婚をした先妻との子で、今の後妻や連れ子の弟とは折り合いが悪いと聞く。

 父の子爵は、ラファエルと連れ子のうち優秀なほうを後継にしようとしており、育児方針は打算まみれ。

 それをいいことに、後妻はラファエルを巧妙に虐めているらしい。

 ぱっとしないわたしとの結婚に後妻が乗り気なのも、この態度の理由だろう。


(実のお母様が離婚したのは、ラファエル様が3歳のときだったかしら)


 家にばかりいるわたしの耳には、必然的にメイドたちのおしゃべりが大量に入ってくる。

 まだ幼いから理解しないだろうと無警戒に話されたあれこれを、わたしはすべて覚えている。妙に記憶力がいいのも困ったものだ。


 実母からはネグレクトされ、今は後妻の目を恐れて使用人にも味方がいない。彼に非はないのに。

 たしなめられる言動ばかりでも両親や兄に受け入れてもらえたわたしは、気が咎めてしまう。


 わたしを睨む目、険しい表情。

 まだ守られるべき年齢なのに、ラファエルのまわりは敵だらけだ。


 それでも、初対面の小娘に怒りをさらけ出すほど彼がすさんでいなければ、それなりに手を打ってさっと去れたのだが。

 わたしをこの場に引き止めるのは恋心ではなく親心。

 自ら心を削って尖らせている彼の手を取れと、前世のわたしが訴える。


「お父様たちには内緒で書面を作って、未来の婚約破棄を神様に誓いましょう。だから、そんなに露悪的にならなくても大丈夫ですよ」

「……ろあくてき?」

「ええと、自分の悪いところをわざと見せて、嫌われるようにふるまう、ということです」


 図星を指されたラファエルの顔からさっと血の気が引く。

 まだポーカーフェイスは苦手らしい。垣間見えた子どもらしさにほっとした。


 貴族の結婚に際して、婚約解消は珍しくない。

 しかし、婚約破棄を申し出ていいのは女性だけで、男性から婚約を破棄することは大変な不名誉である。

 それがこの世界の常識だ。身分の上下は関係ない。


 わざと浮気をしたり、ぞんざいに扱ったりして、女性から破棄を申し出てもらうよう誘導するのは男性側の常套手段。

 不誠実と咎められ慰謝料を払ってでも、名誉を守りたいのが男というものだろう。

 女性は女性で、それを計算の上で、次の結婚へ向けて条件を整え機会を待つのだから大概だ。

 わたしには正直、面倒な駆け引きである。


 婚約破棄にまつわるそんな裏事情を、9歳の女児が知っているとは思わなかったに違いない。

 見透かされた動揺を隠そうとする彼に、うん、とひとつ頷く。


「結婚はしたくありませんが、ラファエル様とお友達になりたいです」

「は? 友達?」

「わたし、おばあ様の言いつけでずっと家から出られなかったのです。なのでお友達がいなくて」


 寂しそうに微笑んでみせれば、少しだけ雰囲気が軟化した。顔色の悪さも相まって同情を誘えたらしい。


「わたしはあまり出かけられないので、ラファエル様が家に来てくれませんか? わたしだけじゃなく兄もいますから、一緒に遊びましょう」

「兄君が……」


 兄の話にラファエルは分かりやすく興味を示した。13歳男児にとって、異性よりも同性の友達のほうが魅力的なのは当然だ。

 事後承諾で悪いが、兄にも一肌脱いでもらおう。変わり者のわたしも大目に見てくれる気のいいおっとり兄だから、やさぐれたラファエルもきっと懐くに違いない。


「兄はラファエル様と同じ歳です。わたしはチェスの相手にならなくて……チェス、お好きですか」

「あ、ああ」

「兄が喜びます。ね、ラファエル様に好きな人ができるまで、お友達になりましょう? 婚約はフリだけで、結婚しなくて大丈夫ですから」


 駄目押しのようにきゅっと柔く手を握る。身だしなみと称して肉が見えそうなほど短く切られた爪が痛々しい。

 ラファエルは繋がれた手を困ったように見て、少し迷って――わたしの目論見は、もちろん上手く運んだ。




 ★ ★ ★




 13歳のときに婚約者ができた。

 4歳下の、ミア・ドゥ・ベール男爵令嬢。

 同年代の彼女の兄と遊べるから、と取引のように申し出られた婚約を握手で了承したときは、どうせすぐお終いになる関係だと信じて疑わなかった。


 ドゥ・ベール男爵家の面々は、鵜の目鷹の目で他人の失敗を窺う貴族世界において、搾取される側に属するタイプである。


 家族思いで少々抜けている父男爵。

 控え目な上に口下手な男爵夫人。

 嫡男のティアゴは人が好すぎるし、娘のミアは病弱で引きこもりという噂。


 王都から遠い男爵領は質のいい木材が取れるがそれだけで、実家のド・ソレル子爵領のようにほかの名産品もなく、ぱっとしない。

 そんな末端に近い男爵家から見目のよくない伴侶を取らせ、子爵家での俺の立場をさらに弱めようとした義母は当初、思惑通りに事が進んだとほくそ笑んでいた。


 しかし、10日が過ぎ、ひと月が経ち。

 遊びに行ったまま帰ってこなくてもいいと豪語していたくせに、本格的に俺が男爵家に入り浸るようになると義母や義弟の表情が変わった。

 自宅で好き放題に虐げていた継子が、心身共に健康になっていくのを見るのが悔しいらしい。


 家格差を笠に着て「息子に構うな」と伝えても、濁した言葉ではやや鈍い男爵夫妻に通じず「遠慮なさらないで」「娘の婚約者なら私の息子も同然です」と100%の善意で胸を叩かれるのだからどうしようもない。


 義母による直接交渉は無駄骨に終わり、さらにミアの大伯父と俺の父の間でなにか取引があったらしい。

 俺は婚約者兼食客の扱いで、正式に男爵家で暮らせるようになった。


 ミアの兄ティアゴと一緒に家庭教師から教わり、これまで子爵家では杜撰な授業を受けさせられていたと気づいた。

 食事も、柔らかいパンは喉に詰まらず、温かいスープが美味しいことを知った。野菜は苦くて固いものばかりではないということも。


 実家の子爵家には思い出したように時たま帰るが、前のように萎縮することはない。

 立ち居振る舞いもようやく令息らしくなった俺に父は満足そうだが、さんざん無視してきたアイツを今さら親とは思えないし、向こうも息子に対する愛情なんて持っていないだろう。

 俺が家族と呼ぶのはドゥ・ベール男爵家の皆だ。


 役に立つところを見せたくて必死で様々なことに取り組んでいるうちに、大人たちから認められる程度の頭角は現せたらしい。

 個人で始めた事業も軌道に乗り、ミアの大伯父のド・ラ・フェリエ伯爵からは先日、養子入りを打診された。

 これで、子爵家と関係のない状態でミアと結婚できる。


 準備は整いつつあるのに、ミアはいつか俺がここから去るものだと信じて疑わない。

 幼い日に作った「婚約破棄をする約束」の書面はとっくに燃やした。

 間違いだったあの出会いをやり直したいと本気で願っているのに、それがなかなか伝わらない、歯痒い日々が続いていた。




  ☆ ☆




「あーくそっ、また負けた! ミア、手加減してって頼んだのに!」

「ハンデをあげたでしょう、お兄様。先手も譲りましたし。では、最後のマドレーヌはいただきますね」

「ああっ、僕の好物ーっ」

「うふふ、今日もごちそうさま」


 ボロ負けしたチェスの盤面を悔しそうに眺めて、ミアの兄ティアゴががっくりと項垂れる。

 最初の日にミアが言った「チェスの相手にならない」というのは、実はミアが強すぎて「兄では」相手にならない、が正解であった。


 初めて男爵家を訪れたときの驚きは、8年たった今も色褪せない。

 幼い令嬢は、年齢に見合わない言葉を自在に使いこなし、大人でも難しい本を読み、その内容を誰よりも理解していた。


 五紙も取っている新聞を読むのは父の男爵ではなくミアで、鉄道という新しいインフラにいち早く投資を決めたドゥ・ベール男爵の英断の裏には、ミアの強烈な後押しがあった。


 祖母が彼女の外出を禁じたのは、早熟すぎる孫娘が奇異な目にさらされるのを心配したから。

 やけに優秀なミアは一方で自分に向けられる好意に疎く、家族から与えられるのは義務と情であって、愛ではないと思い込んでいたようだ。


 将来的な婚約破棄を誓って、仮初めの関係になって。

 自宅でも神経を張り詰めていた俺に、初めて安心できる場所を与えてくれたミアは、困ったことにどんどん綺麗になる。


「幽霊」だなんて悪態をついたが、とんでもない。

 痩せすぎだった身体は俺に合わせて食べることで人並みになり、頬もふっくらした。

 大人びた物言いにようやく年齢が追いついてきたミアには、水面下での求婚者が引きも切らない。

 僅かでも俺が退く様子を見せれば、あっという間にその座は奪われるだろう。


「勝利の美酒がおいしいわ」

「ミア、それリンゴジュースだけど」

「お酒は苦手なの」

「まるで飲んだことがあるみたいな言い方だな」

「あら、失言。お忘れになって、お兄様」


 グラスを持つ細い指に嵌まる指輪は、婚約者の体裁を取り繕うために俺が渡したもの。

 8年前には大きすぎたそれは今もサイズが合わない。何度も新しいのを贈ると言っているのに、これで十分だとミアは古い指輪を小指に着けている。


 3連敗したボードをしおしおと片付け始めるティアゴを苦笑して眺めていると、ミアが勝ち取ったマドレーヌを俺の口に押し込んでくる。


「はい、ラファエル様。あげます」

「んむっ」


 甘い。甘いが、ミアがくれるものを吐き出すなんてできない。

 大人しく咀嚼する俺を満足げに眺め、嚥下したタイミングでグラスを渡してくる。次にミアが持ったのはナプキンだ。口元を拭いてくれようというのだろう。


 隣に座ってのかいがいしい婚約者仕草にメイドとティアゴが生温い視線をよこすが、ミアのこれは恋愛的な意味はなく純粋に食事の介助である。

 ろくな食事を摂っていなかった俺に、隙あらば食べさせようとする癖は直らない。

 今はそんなことをされなくてもちゃんと食べるし、眠れるのだが、ミアの中で俺はいつまでも保護が必要な子どもらしい。


 実際に救われたが、今の俺はそれでは物足りない。

 刷り込みとか恩返しとか。そういうことではなくて、純粋にミアという女性を欲している。


「相変わらず仲いいねえ、ご馳走さまー。胸焼けする前に僕はそろそろ行くよ」

「あ、もうそんな時間。アガットお姉様によろしくね、お兄様」

「ミアに会いたいって言ってた。ウェディングドレスのことで相談があるって」

「ええ、いつでも!」


 ティアゴはパラディ家の令嬢との結婚が決まった。相手のアガット嬢との仲は良好で、ミアは新しく家族が増える日を心待ちにしている。


 出て行くティアゴを見送って、目配せをすればメイドも空いた皿を持ってさりげなく部屋を下がった。

 二人だけになったことに頓着しないミアの名を呼べば、警戒心のない視線がこちらを向く。


「お兄様もいよいよ結婚ね……そういえば、ラファエル様。好きな人はできました?」

「いいや」

「不思議ですねえ。お仕事先やパーティーでは、いろんなご令嬢とも会うでしょう。こんなに格好いいんだもの、告白してくる令嬢の一人や二人や三人や四人や五人いるはずなのに」

「ちょっと多すぎない?」

「百人いても驚きませんが」

「いないって」


 首を傾げるミアに笑って否定する。

 実際には、言い寄ってくる女性は大勢いるが、夜会に出ないミアはそんなこと知らないし、俺は受け入れていないのだから教える必要もない。


「そうですか……でも! 恋はするものじゃなくて落ちるものだと言いますよね。急転直下で運命の人に出会うんですよ、きっと」

「ありえないよ」


 だってもう会っているから。

 なのに、ミアは不本意だという顔で俺を元気づけようとする。


「そんなこと言わないで。心配しなくてもお似合いの女性が現れます」

「そう思う?」

「もちろん。だってラファエル様だもの。それにわたし、みんなに幸せになってもらいたいんです」


 純粋な好意はまっすぐすぎて、目と胸に痛い。

 俺がミアに向ける愛情と、ミアが俺に向ける愛情は違う形をしていることなんて、嫌になるほど知っている。

 けれど。


 隣に座るミアの腰をさらい、膝に乗せた。

 初めて会った日から変わらない、透き通った瞳がきょとんと丸くなる。この目に俺だけが映るときが一番好きだ。


「……愛している。結婚しよう」

「あっ『その時』の練習です? ぜったい大丈夫なのに、相変わらず心配性ですねえ」


 ほら、こうして。

 自分自身を決して対象に置かないミアは、渾身のプロポーズだって自分事として捉えない。


 ――だから、逆手にとらせてもらうよ。


 チェスでは俺もなかなかミアに勝てないけれど、盤上でいくら負けても構わない。

 獲りたいのは本物のクイーンだけだ。


「返事は? ミア」

「ふふ、未来の彼女さん役ですね、いいですよ。『はい、喜んで!』……ね、大丈夫で――っ?」


 言質は取った。そのまま腕に閉じ込めて口づける。

 頬や手の甲に挨拶のキスをしたことはあるが、初めての柔らかさに気が遠くなる。マドレーヌより甘い。


「ありがとう、ミア。愛してる」

「ぷはっ、え? ちょっ、ちょっと待ってっ、ラファ……っんんんっ!?」


 あまりの鈍さに「もう実力行使しかないね」と慰め顔で俺の肩を叩いたのはティアゴで、「8年前から君はうちの息子だよ」と笑ったのは男爵夫妻で。


 ミアを除く全員の同意なんてとっくに取っていた俺の目論見は、当然うまく運んだ。

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