一服、

@kajiwara

ふたりぼっち

 手が震える。


 猛暑の茹る様な暑さのはずだが、ライターを持ち火を灯す両手がカタカタと震えて仕方がない。心落ち着かせる為に煙草を点けた筈なのに、手の感触が切り替わらない。人を初めて刺した、という感触がぬめりついて離れない。こんなに――——こんなにも、苦労するとは思わなかった。


 言われた通りに目黒組の金庫番をしっかりと刺したのを確認したうえで、振り返らずにここまで逃げてきた。しかし、とどうしても眼にこびりついて離れない。自分が刺したはずなのに、腹部を抑えながら血の池をのた打ち回る、金庫番の形相、飛び出そうな目玉のぎょろ付き、何より、あの、死にたくないという叫びが。


「いっちゃん……」


 不意に、横から声がして反射的に持っているナイフを突き出してしまう。い、いや、違う。違う。こいつは違う、と逸郎は慌ててナイフを手放した。助手席にボトリと鈍い音を立てて落下する、凶器。


「馬鹿野郎! 早く出せ!」


 声を荒げると、運転席に座る一夫は咄嗟にアクセルを踏みだして車を急発進させる。クラクションを鳴らされようが構わず繁華街から離れる為に道路を疾走する。何度も行き交う自動車の中にパトカーがないかを目で自然に追ってしまう。まだそれらしい影は見えないが、恐らく時間の問題な気がする。


「殺れた……殺れたんだな、いっちゃん」

「あ、あぁ……」


 一夫にそう聞かれて、ようやく現実に戻ってきている逸郎は何度も小さく頷く。両手を眺めると、またあの光景がフラッシュバックしそうになってつい目を閉じる。頭痛がする。正直、実行に移るまでは先輩たちの様に二人、三人と容易に殺せる様なタフな人間の側だと信じて疑わなかったのに、結果はこの有様だ。本当に、無我夢中で刺した。あの、感触。意外に貫けず、全力で体重を傾けてもなお、あの金庫番は死ななかった。だから、執拗に。


 それでも、すぐには死んでくれなかった。もう、途中から自分が何をしているかもわからなくなって、最終的に無我夢中で一夫が待機している車の中へと逃げ込んだ。……思い出す。若頭から言われたのを。


 ちゃんと、息が止まったかを直で確認してから逃げろ、と。だが、もうそんな余裕がなかった。まずったかもしれない。逸郎は無意識に両手で目を覆った。


「なぁ、いっちゃん」

 

 顔は見れないが、一夫が話しかけてくる。そうだ、と逸郎はまた思い出す。こいつをこの世界に引き込んだのは俺だと。もう、不良の頃のくだらねえパー券だのなんだので殴られたりする世界は抜け出して、派手に成り上がろうぜと。俺が先にデカい事をするから、お前はそれを近くから見せてやる、とまでイキって宣言したのを。


「俺ら……組に入れんだよな。入れるんだよなぁ!」


 無邪気な声。逸郎がどれだけ恐怖心に打ち震えながら金庫番を刺したのかを知る由もない、本当に逸郎を称え、憧れている様な、そんな声色がまるで氷柱の様に突き刺さる。


「やべぇよ、いきなりデカい金入るべ、二人でスーツ買ってよ」

「……一夫」

「こんな、中古のレンタルのボロ車じゃなくて外車とかさ」

「一夫」

「俺さ、屋根開くタイプの」


「車止めろ!」


 反射的に喉から振り絞る様な叫び声を放つ。一夫は慌てて車を路肩に寄せて停めた。その怒号に一夫は何が何だか分からず、逸郎を強張った顔で見つめている。見つめて、恐る恐る、といった感じで。


「い、いっちゃん……どうしたの」

「……逃げろ」


 意外、だった。逸郎自身、なんでそんな言葉が自分の口から出たのかは分からない。だが、きっと組織は、若頭は金庫番を仕留め損ねた逸郎を許してはおかないだろう。全力で探し出してきて、見つかったが最後、死んだ方がまだマシな生き地獄を味合わせてくるのは目に見えている。だが、それ以上に。


「……悪い、あいつ、死んでねえ」

「えっ……?」

「トドメ、刺せなかった。あんなに……死にそうな人間、殺せねえよ」


 逸郎はそう言いながら、懐から財布を取り出してありったけの紙幣とキャッシュカードを取り出す。そうして一夫に正面から向き合い、言う。


「お前、車から降りろ。それで……なんでもいい、警察に駆け込むなり、お前が自分で頼れると思う隠れ場に逃げこめ、これやるから」


 そうして一夫の手に無理やり紙幣とキャッシュカードを握らせる。一夫はその言葉にも行動にも理解が追い付かないのか、声を震わせて。


「い……いっちゃん、やめろよ、訳わかんねえよ」

「まだお前はまともになれる。俺は……」

「やだって、いっちゃん! いっちゃん!」


 一夫の引き留めも聞かず、逸郎は無理やりに一夫の両肩を鷲掴みにして運転席のドアを開いた。必死に抵抗しようとする一夫の頬を握り拳で弾くと、一夫は力なく車から追い出された。


「いっちゃん、行かないで! いっちゃん」


 地面に打ちひしがれて絶叫する一夫を拒む様に、運転席に移動した逸郎はドアを勢いよく閉める。サイドミラーも見ずにアクセルを踏み込んで車を走らせる。大丈夫だと信じている。子供の時から泣き虫で喧嘩も弱く、そのくせ変に愛嬌と度胸だけはある、そんな奴だった。だからこそ、逸郎は自分の巻き添えで一夫を死なせたくなかった。


 ふとすっかり連絡を忘れていた為か、ズボンのポケットのスマホが振動してビクッとする。のろのろと車を止めてつい、画面を見てしまう。若頭だ。


 頭に様々な可能性が過ぎる。殺しは成功したのか、という件か、それとも逃げ出した事に対する激怒の件か。振動し続けるスマホに応答できる勇気がなく、やがて一度振動は止まり、また再び鳴り出す。


 ……いや。


 逸郎は気づく。俺は、自分可愛さで逃げ出しただけじゃないかと。結局、自分の身の可愛さにそれらしい事を並べて。自分が一番死にたくないだけじゃないかと。ヤクザが真っ先に毒牙にかけるとしたら、俺よりも――――。


 本能的に、逸郎は来た道をUターンしている。いるかはわからない。もし、自分の言うとおりに一夫が逃げてくれていたら、それは一番良い。空振りだったらいい。どこかに、逃げてくれていたら。そう、微かな願いを抱えながら逸郎はアクセルを踏み込んだ。現実は――――今、正にだった。


 無理やり立たされている一夫が、大柄な男達に囲まれてバンの中へと連れ込まれようとしている。このままドアがスライドされればきっと……。そう、考えるよりも体が勝手に動いて、逸郎はバンの真正面へとハンドルを切り抜いて正面から衝突した。ひしゃげていくバンパー、まるでスローモーションかと錯覚する様にゆっくりとガラスが割れていく。


 衝突時に生じた切傷で頭からおびただしく血を流しながらも、逸郎はドアを開けて外に出る。あれほど、金庫番を襲った時には震えが止まらなかったナイフを持つ手が不思議な位落ち着いている。呆然としている一夫の周りにいる男たちが襲ってくるのを、手や足を斬りつけて牽制する。そうして逸郎はしゃがんでいる一夫に手を差し伸ばして。


「……逃げろって、言っただろ、馬鹿野郎」


 そう笑う逸郎に、一夫は涙目で。


「だって……俺、いっちゃんいねぇと、ダメだから……」


 逸郎は一夫の手を握り立ち上がらせる。呻いている男たちと、炎上しているバンを背に、二人は肩を組んで歩き出す。何も解決していない、どころか事態は悪化しているだろうが、不思議と逸郎の心はスッとしている。懐からくしゃっと潰れた箱の中、煙草を一本取り出す。


「……かっちゃん、火ある?」

 

 一夫がライターで先端に火を点けてくれる。今まで生きてきた中で、一番旨く感じる。煙草を口から離すと一夫が聞いてきた。


「いっちゃん……これからどうしようか」


「……海でも、見に行くか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一服、 @kajiwara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ