第4話
咸臨丸、全長48.8メーターに対し72.08メーターの開陽が久しぶりに並んで大空を航行している。
かつて、幕府の再興を念じて江戸を離れようと、榎本艦隊が開陽を頭に咸臨丸他6艦を引き連れて品川沖から北を目指して銚子の岬を回った時のこと、折からの台風に見舞われ、艦隊は出鼻をくじかれた。開陽は帆柱を折られ、舵を破損してしまったが、一方では座礁し大破した艦もあった。そんな中で咸臨丸は、清水まで流されてしまったのだ。そしてそこで、修理中に政府軍に襲われ、激しい戦闘の末の敗北。多くの犠牲者を出してしまった。後に榎本は、死者を丁寧に葬ってくれた清水の次郎長に感謝を伝えるとともに、そこに石碑を刻んでいる。
福沢諭吉は、並行して走る開陽の榎本武揚に声をかける。
「榎本さんも、函館戦争では敵味方なく傷痍兵を看護したり、最後、敗北を覚悟した際には、我が国のためだからとオランダから持ち帰った『海律全書』を新政府軍に送ったりした。そうしたあなたの行動は、実にあっぱれなものだった。それに、私の親戚でもあり、もともと優秀な男と知っていたから、私も嘆願書を出してまで貴方を救う手助けをしたのだが、あのあなたが記した清水の碑はいかん。幕府の高官だったものが、その後新政府に取り入れられ、華族にまで成り上がりながら、「人の恩を受けたものは、その人のために命を捨てる」などと。それに従えば、勝さんも含め榎本さんも本来、徳川の恩を受けた身なのだから、侍らしくやせ我慢の上、徳川のために殉じて隠棲すべきではなかったのではないですか」
隣の船上で叫ぶ福沢に対して、榎本は黙して、まっすぐ船首の先を見つめている。胸の内で、福沢の厳しい言葉にじっと堪えているかのようだ。
開陽は咸臨丸をともない、北海道の空から日本全体を俯瞰している。そして三人を温かく見守っている。
「このお三人は、同じ幕臣であったにもかかわらず、新しい明治の時代になってからは、それぞれがそれぞれなりの活路を見出していらっしゃる。しかし、その時代にこそ必要な共通するお考えをお持ちになっていたのです。欧米列強からの脅威からいかに日本という国を守り、彼らに負けず劣らず肩を並べてやっていけるか。そして、いつ何時隙をついてやってくるかわからない彼らに対抗していくためには、何よりも先ず、彼らに学ばなければならなかったのです。そうした思いは皆同じでした。そのために勝さんは早く国を一つにしなければならないと、薩長連合の新政府を早々に受け入れた。あの方は、かつてもはや徳川ではやっていけないよと、榎本さんに言っていた。ここは一番日本のために大きな気持ちになって、官軍側に妥協して徳川の生きる道を考えつつ、国を安泰させなければ、とね。一方福沢さんは、豊富な海外留学経験を活かし、向学心に燃える幕臣をはじめ多くの若者たちの教育につくし、将来の日本を背負う人材を育てていらっしゃる。しかも、幕臣だった自らの立ち位置を明らかにして、政府からの幾たびもの誘いを断り、あくまでも在野から客観的にものを見て行こうという一貫した態度は、やせ我慢を通したという点でもたいしたものでなかったでしょうか」
月明かりのもと、2隻の朽ちた軍艦は、何処へ向かうともなく北海道の空に浮遊している。榎本武揚は、眼下の海岸に続く山間を見つめていた。
開陽が少し速度を落とし、主舵を切った。「あそこ見えるところが、榎本さんが買われた小樽の牧場ですね。あなたはやはりこの北海道、蝦夷の地に思いが強かったのでしょうね」
榎本武揚は自らの生涯をある種、後悔に似た感情にとらわれていた。
「生き甲斐を失った幕臣たちと目指したこの地に理想の国をつくろうとした時もあった。そのために戦い、そして多くの仲間を失った。その後、新政府の黒田清隆候に拾われて中央にいても、この辺境の地、蝦夷は、私の心をつかんで離さなかった。他国からの侵略からこの地を守り、学校を始め、多くの施設も作った。私は生涯の恩人の黒田さんに尽くすことで、国の要職についてきたが、果たして新政府のために働いたと言えるのだろうか。最後の幕臣として、どうにかこの地で徳川を再興しようと、そんなロマンにあこがれてきたのではないだろうか。勝さんは、新政府でいい加減な働きしかしていないように見せて、その一方で徳川の名誉を何とか回復しようという影での努力は並々ならぬものがあった。福沢さん、我々は、その身をどこに置こうと、あなたの言うやせ我慢の士であったと思いますよ」
開陽と咸臨丸が闇夜を抜け、夜明けに向かって航海を続けている。
「時代がどんどん移り代わっていきます。そして、彼ら三人の幕臣たちの見せた国への思いは絶えることなく脈々と受け継がれ流れていきます」
三人の幕臣たちを乗せたオランダ生まれの2隻の軍艦は、時空が織りなす光彩の波を切り裂き、ゆったりと航行を続けていく。いつまでも、どこまでも。
開陽丸・無念の航路 寺 円周 @enshu314
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます