第3話

 五稜郭の戦いを、どう総括したらよいのか、榎本は、その後の自分の新政府での働きから、多くの問が浮かんでくるのだった。土方をはじめ多くの犠牲を出し、五稜郭を陥落させた。最後まで抵抗したものの、新政府軍の手に落ち、一時は切腹を図ろうとしたが、敵に捕らえられる結果となった。


 海の底から函館戦争の最後を見守っていた開陽は自らの不甲斐なさを嘆く。

「大変残念な結果となりました。私がもう少し頑張っていれば良かったと、責任を感じています。私を失った榎本軍は、残る戦艦を繰り出して新政府を迎え撃つのですが、すでに新政府軍は強力な戦闘力を持った軍艦を多数用意していて、瞬く間に追い返されてしまいましたね。そして、北海道に彼らをやすやすと上陸させてしまいました。その後の激しい攻防戦で多くの犠牲者を出すことになったのですね」


 逆光をまともに浴びて佇む男。夕暮れはすべてを後悔に誘い込むようだ。海の底からは開陽が静かに武揚の目に浮かぶ涙を想っている。戊辰戦争の最後の戦いと言われる函館戦争では、榎本と生死を共にした仲間を多く失った。果たせなかった蝦夷共和国の夢。しかし、そんな感傷に浸ってなぞいないはずだ、次のことに頭を巡らせていたに違いないと。榎本武揚の後世での活躍を見てみれば、誰しもが、そう疑うのも無理はない。


 榎本は、その才能と人格を高く評価していた敵将の黒田清隆や親戚筋に当たる福沢諭吉らの嘆願により、本来極刑に値するところを救われ、およそ2年半の拘留の後、特赦により出獄することができた。その後も、黒田に従って北海道開拓使に取り上げられると、地質調査などにつとめ、炭田の発見や農場や牧場事業の展開に力を発揮していくことになる。さらに外国語にも秀でていたからであろうか、政府の諸外国との交渉にもたびたび駆り出され、大きな成果を上げていった。そのような才能を高く買われて、明治18年の内閣制度発足時には、初代の逓信大臣に任命されるに至ったのだ。さらにその後も歴代内閣において文部大臣、外務大臣、能省務大臣を歴任していった。


 このような活躍を目にして、人々に五稜郭の凄まじい戦いは八百長だったのでは、と捉えられても不思議ではないのだ。そもそも彼には、新政府によろうが、よるまいが日本国が欧米文化に触発されて向かうべき新しい国への期待があったのではないのか。先輩の勝海舟と同じように、開国維新を機にそんな新しい日本の姿を予見して、賢く立ち回ったのではないのか。だから、転向者と誤解され、福沢諭吉からも、やせ我慢のできない男と酷評されたのではないのか。


 茜色の空が広がっていく。あの戦に倒れた勇者たちの血に染まったような空だ。そして海の底には、漆黒の闇が訪れかかっている。もはや海の底で大人しくしていることに居たたまれなくなったのであろう。新天地を目指すかのように、開陽は海底からその身をゆっくりと持ち上げると、傷だらけながらも堂々と、過去の栄光に彩られた艦体を浮上させていく。そして、いつしか海面に姿を現した開陽は、ザーッザーッと海水をまき散らしながら榎本武揚を拾い上げると、夕陽に燃える天空へと浮揚していくのだった。


「どこへ連れて行ってくれるのかな」と榎本に問われた開陽は、かつての榎本軍団の戦友たちが去っていった航跡を追うように舵を切っていた。


「御覧なさい。隣には咸臨丸が並走していますよ。あの艦には勝さんと福沢さんが乗っているのが見えるでしょう」


 咸臨丸の上では、いつぞやアメリカに向けて出かけて行った時のように、二人が相変わらず罵り合っているのが見える。


 咸臨丸は、開陽と同じくオランダ生まれの木造3本マストの軍艦だ。開陽より9年ほど早く幕府の軍艦として就役していた。そして日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節団の別船としてアメリカまで往復している。勝海舟も福沢諭吉もこの艦に乗って使節団に参加していた。特に、勝は咸臨丸の艦長という立場であったのだが、その仕事ぶりに福沢は批判的だ。


「あの航海は過酷であったにもかかわらず、貴方は艦長でいながら、船酔いしたと言って一度も船室から出てきませんでしたね。いつもながらいい加減なお人だ」


「は、は。しょうがないじゃないですか。具合が悪かったんですから」


「そう言いながら、アメリカに着いたら、大変元気になられて、わずかな時間も惜しんで、あらゆるところを積極的に見てまわられた。まったく訳が分からない」


「せっかくだもの、たくさん見て勉強しておかなくっちゃあいけないと思ってさ。そういうお前さんだって、あちこち経験したことをもとに、文明論之概略なんて本を出して一儲けしたんじゃないかね」


「それは、その前に我が国の若者たちに向けて「学問のすすめ」を著したのですが、一般の人たちにも、と思ったわけです。欧米の文明への理解をはかる上で大事な教材になったのですから大変意義のあることだと思ってますよ。それに対して、大体貴方様は、向こうで合理主義的なことばかり学んで、幕府軍の総大将にもなりながら、あろうことか敵方に通じて、戦うことを拒否し、無血開城などと江戸を簡単に売り渡してしまったではないですか。武士としての心があるなら、そこはもっとやせ我慢が必要だったのではないのでしょうかね」


「いやあ、外国勢がどんどんやってきて、これからどうなるか分からないという時に、国内で争いごとなんて無駄なことです。俺は、薩摩の殿様や、長州の桂君なんかと意見も合うので、調子のいい坂本龍馬くんをうまく使って、何とか平和裏にことを収めようと思ったのさ。だってもう幕府が、幕府がなんて言ってる時代じゃないと思ったからね。そうこうするうちに西郷という男に会うことになって、これがいい男で、すっかり惚れてしまった。こいつは信用できるってね。すべてなるようになっていくべきだと思ったのさ」


「ですが、榎本さんには、幕府の逆転を期待したんじゃないのですか」


「それは、それですよ。彼は彼で幕府方の困った連中を引き連れて、何かやってくれるんではないかと期待したんですよ。だから薩長軍に幕府の軍艦をすべて引き渡さずに、彼に開陽他7艦を残してやったんだ。そして、その榎本艦隊をうまく北へ向けて送り出してやったのさ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る