5.淀屋橋翔太 新生活
僕がこれからお世話になるところは京都の山の中にある古い神社だった。古いけれど、庭も家の中も手が行き届いていてとても清潔感があった。
「ごめんください、森ノ宮です」
「はーい」
と奥から女の人が出てきた。森ノ宮さんより少し若く見える小柄で可愛らしい見た目の人だった。
「こちらはこれから翔太君がお世話になる桜ノ宮凛子巡査部長です。」
この人も警察官なのかと驚いた。
「翔太君こんにちは。桜ノ宮凛子です。警察官には見えないかもしれないけれど」
心を読まれたのかと焦った。丁寧な言葉遣いと笑顔なところは森ノ宮さんと似ているが、桜ノ宮さんはどこか厳しさを感じる。
「森ノ宮さん、お茶でも飲んでいきますか」
「ありがとうございます。そうしたいのですが、これから中学校の手続きをしたり市役所に行かなければならないのでここで失礼します。」
「まぁ、森ノ宮さんがやってくださるのですね。ありがとうございます。」
「いえ、凛子さんはいろいろと準備もあるでしょうし、私ができることはさせていただきます。翔太君のことをどうかよろしくお願いいたします。」
「分かりました。その点はどうぞご心配なく。」
「翔太君、体に気を付けてくださいね。時々会いに来ます」
もう行ってしまうのか。森ノ宮さんにすっかり心を許していた僕はさみしい気持ちもあったがまた会いに来るという言葉は嬉しかった。
「はい、僕はここで頑張ります。ありがとうございました。」
森ノ宮さんはいつもの優しい笑顔で僕の頭をポンっと優しくなでた。
家の中は物が少なく、チリ一つ落ちていないまるで時代劇のセットのように完璧な空間だった。家具一つ一つとても古いが大切に使われてきたものであろうことが伝わる。桜ノ宮さんに促されて向かい合わせに座ると、着物を着た品の良い年配の女性が静かにお茶と和菓子をもってやってきた。
「こちらは私の祖母です。翔太君の身の回りの世話をしてくれます。」
その女性はゆったりとしているが美しい所作で僕のほうを見て会釈をした。
「トキ、と言います。困ったことがあれば何でも言うてね」
穏やかだがどこかピシッとした空気に自然と背筋が伸びる。
「よろしくお願いします」
僕も軽く会釈をする。
トキさんは僕に微笑みかけてからすっと立ち上がり部屋を後にする。
「さあ、お茶とお菓子をどうぞ」
深い緑色のお皿にのった白くて真ん丸なお饅頭(剰余饅頭というらしい)はふわっと柔らかく、すっきりとした甘さが心地よかった。
「翔太君は何かスポーツをされていましたか。」
桜ノ宮さんが笑顔で僕に聞いた。
「小さいころ剣道を少し。でも北海道に移ってからは何も」
「そうですか。剣道を。それは良いですね。これから修行の一環として剣道をやりますよ。ここには道場があって週に2度ほど警察官を中心とした人たちが稽古に来ます。もちろん、森ノ宮さんも。皆さんとっても強いのですよ」
「森ノ宮さんも強いの?」
桜ノ宮さんは僕のほうを向いた。相変わらず笑顔を崩さない。
「あ、その。すごく穏やかで優しそうだから、剣道のイメージがなくて」
「能ある鷹は爪を隠す、というでしょう。森ノ宮さんは京都府警の中でも1,2位を争うほどに強いです。」
さて、といって桜ノ宮さんは湯呑を静かに机に置いた。
「本格的な修行は明日から始めます。今日は必要なものをそろえに町まで行きましょう。歩いて」
ぎょっとした。ここは山の中。車の中で見たけれどお店があるようなとこまではかなり距離がある。
「ついでに中学校までの道もお教えします。覚えてくださいね」
桜ノ宮さんは笑顔を崩さない。
「あ、あの桜ノ宮さん」
「凛子さん、そう呼んでください」
「あ、じゃあ、凛子さん。中学校まで歩いてどのくらいですか」
「ゆっくり歩いて二時間。走れば一時間くらいでしょうか」
走って一時間!?ここは山のなか。平坦な道じゃないのに。
「さぁ、行きますよ。今から出発しないとお店がやっている時間に間に合いませんからね」
呆然とする僕をよそ目に凛子さんは玄関に向かう。
「ついてきてくださいね。お疲れでしょうから今日は早歩きくらいにします」
凛子さんの笑顔が鬼に見えてくる。僕の想像をはるかに超えた早歩きで凛子さんはどんどん進んでいく。涼しい顔で。僕はもう走っていた。下り坂だが山道を歩く(ほぼ走っているが)のはつらい。膝ががくがくしてくる。それでもついていかないと確実に迷子だ、いや遭難だ。必死で後を追う。三十分くらいたつと僕はもう息が切れて苦しかった。凛子さんは立ち止まって僕が追いつくのを待っていた。
「体力はなかなかありますね。初日にしては上出来です。」
そう言ってリュックから大きな水筒を二本取り出して一つを僕に渡した。
「水分補給しましょう」
水筒を受け取るとあまりの重さに驚く。こんなものを二本も背負ってあの速さで歩いていたのか。僕はのどがカラカラだったので時々むせながら必死に飲んだ。飲み終わると凛子さんは僕の水筒を取り上げてリュックにしまい歩き出した。
「さあ、まだ半分も来てませんよ。行きましょう」
僕はへとへとになりながらなんとか中学校までたどり着いた。
「一時間四五分かかりましたね。徐々にタイムを縮めていきましょう。行きは下りなので四五分、帰りは登りなので一時間位を目指しましょう」
やっぱり凛子さんは鬼だ。明日から本格的な修行って言ってたけど僕は生きていけるだろうかと心配になった。
中学校から商店街までは三十分ほどだった。そこで僕のこれからの生活に必要なもの、例えば中学の制服とか、普段着(主にジャージ)、歯ブラシとかそういうものを買った。スーパーマーケットではなくいくつかの個人商店をいくつか回って必要なものを買いそろえ、それらを一緒に購入した中学校への通学リュックに詰めると
「これ持ってくださいね」
と穏やかな笑顔で凛子さんは言った。すでに僕の足はだるくなっている。これを背負って帰る。しかも帰りは上り坂。ぼくは絶望した。
帰り道のことは記憶にない。ただひたすら必死に凛子さんを追いかけた。家に着いたとき、僕は倒れこんでしばらく動けなかった。ようやく動けるようになると、凛子さんは僕の部屋に案内してくれた。部屋にはすでに今日買った制服がハンガーにかかっていた。
「夕飯前にお風呂に入ってください。これは着替えです。」
今日買った下着とパジャマ代わりのジャージを渡された。凛子さんはテキパキしていて無駄がない。
お風呂から上がると台所からトントントンという包丁の音がして、僕は温かい気持ちになる。
「さぁ、お腹がすいたでしょう。夕飯にしましょうね。」
トキさんに促され、僕は席に着いて夢中で食べた。
まもるひとたち わたあめ @wataame_amakunai
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