2. 志賀瑠衣子
「お父さんなんか消えちゃえ」
声に出して、心の中でも念じて、スマホをタッチする。
その日から、お父さんはわたしの目の前から消えた。
◇◆
ストレス社会がピークに達し、人々はネットどころかリアルでも争いが絶えなくなった。
そこで政府はある技術を開発した。SNSや動画サイトなどで興味ない人や嫌いなチャンネルを非表示にできるように、人間そのものを非表示にできる技術――それが『人間非表示機能』。これにより自身に積まれる負荷が無くなり、人々は自分に正直に生きれるようになる。
◇◆
わたし、
だってあの人、わたしの部屋に勝手に入ったんだよ? わたしのいない間に、ジュンジョーな乙女の花園に入るなんて、親だとしても許せないし信じられない。プライバシーの侵害だよ。古い人間はリテラシーっていうものがなってないよね。
わたしが学校から帰ってきて部屋のドアを開けた時、お父さんはわたしの勉強机を開けて何かを探しているみたいだった。最初は不審者が入ってきたと思って大声上げちゃったんだけど、お父さんだとわかってわたしはすごく怒った。なのに、お父さんはわたしをじっと見るだけ見て、何も言わないで部屋から出て行った。無視だよ無視。ありえない。
前から、進路はどうとか夜更かしするなとか、うっとうしいことばっか言って、それでわたしが口答えすると、普通の中学生はこうするだとか、お前は馬鹿だの病気だの怒鳴ってきて、まったく聞く耳を持とうとしない。世界中の中学生にアンケートでもとったの? 自分の常識だけで偉そうに言われるのって、マジでむかつくんだよね。
だから『人間非表示機能』を使った。話したくもない人に使っても不自由も不便ないし、うざいし、別にいいかなって。
わたしが産まれてくるよりもずっと前、『人間非表示機能』が配布されてからすぐ、ある地域で自分以外の全員を『非表示』にしてしまったという事件があったらしい。それで『非表示』の効果を段階的に分けるようにして、ランクが高ければ高い『非表示』ほど、姿かたち以外に声も聞こえなくなったり触れられなくなったり匂いとかもしなくなったり、対象人数に限りがあったりするの。
わたしはその中でも一番キツいやつ、専門の施設まで行って申請して承認されないと取り消せないランクの『非表示機能』を行使した。これで申請しない限りは一生お父さんを視なくていいし、声も聞こえなくなる。これでわたしはお父さんの存在を一切気にすることなく生きていけるようになった。あーせいせいした。
◇◆
次の日の朝、おはよー、とリビングに入る。
お父さんは仕事でもういない。まあ、いてももう視えなくなってるんだけど、この時間にはもうあの人は仕事に行ってるから、本当にここには居ないはずだ。
リビングにはお母さんだけがいた。最近、お母さんは自分の部屋から出てきてリビングにいてくれている。お母さんはぼうっとどこかを眺めているだけで、わたしの挨拶には反応しない。『非表示機能』を使ってるかのような反応だけど、わたしには確信があった。お母さんは使ってないという確信が。
「お母さん、行ってくるね」
朝ごはんを食べて身支度を済ませると、玄関のドアを開け、マンションのエレベーターに乗る。わたしの通う中学は歩いて行けるくらいの距離にある。
学校に着き、教室に入る。入った瞬間、賑やかな喧騒が全身にぶつかっきた。みんな楽しそうにお喋りしていて、まるでクラス全体で一つの生き物か何かみたいに、みんな同じような笑顔が貼りついてる。
でも、教室にわたしが入ってきたことに、誰も気づいてる様子はない。
誰も、わたしを見てない。視えてない。
いや、一人だけ気づいてる人がいる。前の席の方にいる女の子。つやつやの琥珀色の長い髪で、上手なメイク。全身でお洒落をしている感じはクラスの中でも高い立ち位置にいることが簡単に分かる。
その子が振り返ってきた。長い睫毛が付いた大きな瞳と、目が合った。
でも、その子すぐに顔を背けてしまう。そして仲間内で何かを報告すると、クスクスと粘着質のある笑いが広がった。
あー、まだ
『人間非表示機能』が段階的なレベルで使えるようになって、軽いレベルの『非表示』なら問題にならない程度の手軽さで人を消せるようになってしまった。
誰か一人標的を決めて、全員でその人を視えなくすれば透明人間の出来上がり。でも、透明人間がどんな反応をしているのかも知りたいから、一人は『非表示機能』を使わないようにして、透明人間の反応を周囲に教えてみんなで嘲笑う。一人視えるようにしておけば何かあったときにみんなで口裏合わせる先導役になることもできるというメリットもある。逆らったら自分が透明人間にされてしまうから、みんな標的を『非表示』にするしかない。
幼稚だなあ。ハイテクな世の中になっても、使う人間がしょうもないんだったら、なんの意味もないじゃん。作った人が可哀想だよ。
そんな、顔も知らない開発者の人に同情を送っていないと、自分がどうにかなってしまいそうになる。ここに来るといつも、お腹の底に冷たい重しを入れられたかのように苦しくなって、肩や足に力が入らなくて立っているのがやっとの状態になってしまう。いつまで経っても気分が最低のままで、別のことを考えていないと涙が溢れ出そうになる。
ストレス社会をどうにかするための機能は、多分きちんと機能してない。それどころか、もっと心の負荷を負う人が出てきてる始末だ。
ちょっとした言い合いをしたら『非表示』。告白に失敗したら『非表示』。他人をいじめたくなったら、『非表示』。嫌なものから簡単に目を背けられて、お手軽に人を排除できる。そんな世界、どう言葉にしていいのか分からないけど、多分、止まったままになってしまう。
こんな世界、私はイヤだ。
透明人間にされる標的に選ばれるのも、みんなの笑いものにされるのも、気づいてる先生が知らないふりをするのも、家がちょっとあれなのも、全部全部、イヤになってきた。わたしはこの世界に沿えなかったんだ。
もう疲れてきた。
いつも通り、誰とも喋らず学校が終わり、家に帰る。
ただいまー、とリビングに入ると、まだお母さんがそこに居た。
わたしも、そろそろだ。
リビングの真ん中でぶら下がってるお母さんをぼうっと見ながら、何となくそう思った。
何年も前、突然「疲れた」と言って自室にこもって、それっきり出てくることがなかったお母さん。ある日、朝のリビングで首を吊っていたお母さん。
お母さん、ベッドから起き上がれたんだ。自分の力でロープとか結べたんだね。頑張ったんだね。
何も言わず、何かドロドロしてるし変な匂いもしてるけど、ベランダから差す夕日に照らされているお母さんの顔は、すごく安らかに見えた。
お母さんは、最期くらいわたしのことを想ってくれたのかな。わたしは毎日思い出してたよ。
幼稚園の帰り道、手を繋ぎながら帰ったこと。夜遅くまで仕事していて、先にお母さんの布団で寝ていたわたしを起こさないように布団に入ってきてくれて、温かかくてぐっすり眠れたこと。真夏の暑い日に、自分のは買わずにわたしにだけアイスを買ってもらって、アイスを食べるわたしのことを嬉しそうに見ていたこと――。
いっぱいいっぱい、お母さんの思い出が私の中にあるの。お母さんともっと一緒にいたかった。
そうやって、お母さんとの思い出に浸っていると、突然、リビングのドアが開いた。
振り返ると、そこには誰も居なかった。でも、誰も居ないのにドアが開くはずがない。
「……お父さん?」
確信があった。お父さんだと。
でも、呼んでも返事はない。だって私が『非表示』にしちゃったんだもん。姿はもちろん、声も聞こえないんだから、当たり前か。
次に、ベランダのドアが開いた。
そして、数秒後にはドスンと、何か重い物が落ちる音が微かに聞こえてきた。続いて、甲高い悲鳴も、聞こえてくる。
そっか。そうなんだね。
わたしは玄関を出ると、マンションの階段を上がる。
昨日、リビングに居る母さんを眺めていて、わたしは自分の部屋に置いていたロープとかをとりに行こうと決心した。
屋上まで上がると、扉を開ける。ここの錠が壊れていることに、誰も気づいてない。
でも、そこにはお父さんがいて、きっとあの人は机の中にあったロープとか練炭とかを見ちゃったんだろうな。部屋のドアが勝手に開いて、そこにわたしがいるってわかったんだろうな。
屋上から見る景色はとても綺麗で、あったかい夕日がわたしを照らしてくれている。わたしのことを歓迎してくれているようで、嬉しくなった。
なあんだ、お父さんもそうだったんだ。わたしはとても安心して屋上から飛び降りた。
人間非表示機能 りらっくす @relax
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