第38話

 雪晴れの光がまばゆくて、廊下に出た途端、フィズは目を細めた。


「なに。どうしたノ?」


 リュウホが、寒さに身を縮ませながら抗議の声をあげた。久々に晴れているとはいえ、暖房がない廊下は、凍えそうなほどに寒い。

 フィズに引っ張られて廊下に出たリュウホは、ぶつくさと文句を言っていたが、フィズの表情が暗いのを見て、閉口した。


「リュウホ」


 声が掠れる。掴んだままの腕に力を入れると、リュウホはフィズの背中を優しく撫でた。彼の真っ黒な瞳に、自分の泣きそうな顔が映って、フィズは思わず目を伏せた。


「あた、あたし……」


「ウン。どうしたノ?」


「クラスの女子で腹筋が割れてるの、あたしだけだったの……!」


 これは、由々しき事態である。フィズは「あー腹筋割れてきたなぁ」ぐらいのテンションだったけれど、それを見つけた時のクラスの女子のあの輝いた顔。おかげで周りからのフィズの評価は「なんかすごい人」になってしまった。


「みんなは割れてないって言うの……」


「ヘエー」


 必死に訴えかけると、リュウホは心配そうな表情をすんっと引っ込めた。まるで、そう、知らねぇよ、とでも言いたげな。


「知らねぇヨ」


 言われてしまった。

 先程とは打って変わって、リュウホは興味をなくしてしまったらしい。大きく欠伸をすると、教室に帰って行こうとした。

 慌てて腕を引いて止める。わざわざ教室を出てまで真剣に話しているのに、その態度はあんまりだ。


「リュウホぉ」


「……ハイハイ。分かった、分かったヨ」


 縋るような目を向けると、リュウホはため息を吐いて、それでも足を止めてくれた。

 どうでもいい雑談や、何かを相談する時、彼はいつも「めんどくさい」という態度をするけれど、なんだかんだで対応してくれる。レオーネとはまた違ったタイプの断れない人だ。


「……フィズちゃんって腹筋割れてるんだネ」


「うん。先週辺りからね」


 証拠に服をめくって見せる。リュウホは叫び声をあげてフィズの頭に手刀を入れた。


「見せんなヨ。しまえ」


 これはだめなのか。目尻を赤くするリュウホに肯くと、素直に服を戻す。

 リュウホは、もう肩を掴んだくらいじゃ赤くならないけれど、やっぱりまだフィズのパーソナルスペースには慣れないらしい。こういう絡みをすると途端に赤くなる。

 もちろん、フィズも再三注意されて、あまり話さない異性には気を払っている。だけど、気を許しているリュウホにはどうしても近くなってしまうので、先にリュウホが諦めた。


「なんで嫌なノ? いいジャン、ムキムキ。かっこいいヨ」


 東の国の人は、全体的に背が小さい。リュウホも例に漏れず小さめだ。大食らいのわりには肉がなく、全体的にひょろりとしている。太らない体質なのはいいが、同時に筋肉もつかないのは悩みらしい。腕相撲も十秒くらいでフィズが勝つ。


「嫌だー! お兄ちゃんと同じ、脳みそまで筋肉になりたくないー!」


「ジャア筋トレやめたラ?」


「うぐ……」


「そもそも、どんだけやったら腹筋って割れるんだヨ……ボクは全然割れ」


「百回」


「ヱ?」


「百回だよ」


 レオーネが最初に提示したのは五百回だったが、減らしてもいいと言われた。だから、結構大胆に減らしてこの数だ。ちなみに、兄がいる頃は千回はやっていた。


「これくらいなら大丈夫だと思ったんだけどな……全然少ないし……」


 ぼやいてから、リュウホが全く喋らなくなったことに気が付いた。隣を見上げると、彼は驚愕の表情で固まっている。


「リュウホ?」


 声をかけると、リュウホはようやくこちらに戻ってきた。頭を捻ると、疑問を投げてくる。


「一週間にその回数……?」


 否定して一日だと正確に告げると、リュウホは唸ってしまった。

 フィズは眉を下げる。もしかしておかしいのだろうか。


「……おかしいデショ。鍛えたいなら分かるケド」


 フィズの思考を読んだように、リュウホはばっさりと切った。

 まあ確かに、可能な限りダラダラしたいというフィズの信念とは矛盾した行動だ。リュウホが疑問を感じるのも分かる。

 しかし、それで死んでしまうと思うと、自分だけじゃなくてクラスメートのことも心配になるわけで。結構笑い事ではない。

 その焦燥を知らないリュウホは首を傾げる。フィズは彼の胸ぐらを掴むと、ガクガク揺さぶった。


「だって死んじゃうんだよ」


「ハ?」


「東洋では、魔法を使いすぎて死んじゃうことがあるって、レオくんが」


 口に出し、事態が可視化したことで、フィズはよけいに焦った。

 授業では、基礎も終わって、魔法の訓練をしている。早めに対処しないと、大量のクラスメートを失うことになるのではないか。


「早くみんなに筋トレさせないと。あたしがおかしいなら、みんなの意識を変えていかないと、大変なことになるよ……!」


「フィズちゃん、ま、待って」


「みんなを救うのは筋肉なんだー!」


 こればかりは待てない。リュウホの胸ぐらから手を離すと、教室に戻ろうとする。

 だが、それでもリュウホはフィズを止めるべく、彼女を羽交い締めにした。


「フィズちゃん、落ち着いて。このまま突っ走しったラ、今後のあだ名が脳筋教祖さまとかになっちゃうヨ」


「背に腹はかえられないよ!」


「なんでそこで思い切りが良いんだヨ……」


 ため息を吐くと、リュウホは爆弾を落とした。


「東洋で死人が出てるって言うのは誤解ダヨ」


「えっ」


 思わず動きが止まる。目を向けると、彼は肩をすくめた。


「ボクの国では、魔法は軍の上の人しか使わないんだよネ。それで戦死したりするノ。それがなんかねじ曲がって伝わってたのかもしれないネ」


 そういえば、リュウホの国の勇者は、軍を引き連れていた。きっとそこから軍で魔法を使うようになったのだろう。

 じっと目を見たが、彼が引く様子はない。フィズを止める為の嘘、というわけではなさそうだ。


「なんだ、よかった……」


 力を抜くと、フィズは窓にもたれかかった。


「止めてくれてありがとう」


 もう少しで、あだ名が「脳筋教祖さま」になってしまうところであった。脳筋教祖さまってなんだ。


「マァ……その情報だけ聞いたラ、そうなる気持ちも分かるけどネ」


 頭を押さえたリュウホがフォローしてくれる。

 レオーネにも後で教えてあげよう。


「なんていうかネ、一般的な感覚とはほど遠い場所にいるんだよネ……レオくんは、回数減らしてもいいって言ってたんデショ? 多くても五十回とかサ」


「五十!?」


 フィズに衝撃の雷が落ちる。

 そんな回数でいいのか。朝飯前どころか、起きる前に終わってしまう。つまり寝ながらで──いや、寝ながらは無理だな。

 いくらか冷静になったが、それでもフィズはリュウホに抗議をした。


「え、そんなの、体力が落ちて、狩りとかが出来なくなったらどうするの!?」


「フィズちゃん、この時代にはネ、スーパーというそれは画期的な施設があってネ……」


「ちくしょー!」


 これは文明の勝利だ。完敗して地団駄を踏むフィズに、リュウホは半目を向けた。


「フィズちゃんって、バ」


「バ!?」


「……イヤ」


 噛みつくフィズに、リュウホは首を振る。つい口を出てしまったらしい。

 目線をさ迷わせると、言い直す為に再び口を開いた。


「ア……」


「ア!?」


 変わっていないじゃないか。思い切り睨みつけると、リュウホは目をつむって、考え込む。


「……ちょっと待ってネ。辞書引いて適切な表現を見つけてくるカラ」


「もういいよ、どっちか言えよう!」


「馬鹿でアホだよネ」


「欲張りー!」


 せめてどっちかにしてほしかった。リュウホの胸ぐらを再び揺らし、フィズは涙を飲んだ。

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フィズの言ノ葉魔法論 七篠空木 @774toutugi

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