第4話
お昼寝タイムに入った樹の隣には寝かしつけるつもりがうっかり先に寝てしまった梓が転がっている。葵が晴陽と一緒にゲームをし始める。空音はそっと缶ビールを持ってベランダに出た。左手に缶を持ったまま右手でタバコを取り出して咥える。火をつけて指に挟み、ぼんやりと空を見上げた。
曖昧な記憶の多い空音は、正直子供たちを産んだ時のことですらよく覚えていない。大変だったような気はしている。それこそ、腹を痛めて産んだ子供たちだと思ってはいる。当時のことを思い出せないのは、過去の出来事を悔やんでいるからなんだろう。空音は痛むこめかみの辺りを押さえてゆっくりと息を吐く。
例えば、小学生の時に近所に住んでいた友人と少しばかり設定を凝ったごっこ遊びをしたこと。
例えば、中学生の時に所属していた合唱部で、こっそり男子に混じってテノールパートを歌ったこと。
例えば、高校生の時にありとあらゆる物に名前を付けて壮大なストーリーを空想したこと。
ちょっとした暇つぶしになら使えるかという程度のくだらないこと。思い出せなくたって何も困らない、些細なこと。そんなことならいくらだって思い出せるのに。
空音は思い通りにならない歯痒さでどうにも堪らない気持ちになって首筋を掻きむしる。
これといって思い出したいことがあるわけではない。必要性を感じないから放っておきたい。そう思うのに、肝心なことが抜け落ちているような気がしてスッキリしないのだ。何か大事なことを忘れてしまっているような気がして、思い出さなくてはと気持ちが焦る。どうだっていいのに、思い出したくないのに。違う、思い出したいんだ。思考がまとまらなくなって空音は低く呻いた。
「空音」
タバコとビールを取り上げられて名前を呼ばれ、ゆっくり振り返るとすぐ後ろに晴陽が立っている。一瞬息を詰まらせた空音だったが、目を閉じてゆっくり息を吐くことでなんとか冷静さを取り戻した。ぼうぼうと熱く感じる首に少しひんやりとしている手の甲を当てて晴陽を見上げる。
「何かあった? うわ、苦っ」
ビールを1口呑んだかと思うとぺっと舌を出して眉を寄せる。子供舌の晴陽にはビールの美味さはわからないらしい。空音は薄く笑って缶を取り返す。
「何か、すげー嫌なことがあったような気がするんだよ」
内容の思い出せない悪い夢を見た時のような、何とも言い難い不快感。
「あの人の夢でも見た?」
晴陽は一番高い可能性を提示するが、空音はゆっくり首を振る。晴陽はあの人を当事者の空音よりもずっと嫌悪している。やけに棘を感じる声色がなんだかおかしくなって思わず笑ってしまった空音だが、晴陽は不快そうに眉を寄せている。咳払いをしてからゆっくりと思考をまとめていく。
「無関係ではない、けど……直接関係はない……と、思う」
噛み締めるように言いながら、空音はタバコを咥える。火をつけながら視線が左下に向くのを見て、晴陽は少し身構えた。感覚的なイメージを思い出しながら自問自答する時、人の視線は左下に向くと聞いたことがある。空音がそれをした後、決まって嫌な言葉を聞かされるからだ。
晴陽が顎を持ち上げると、空音は不思議そうに上目遣いで晴陽を見つめた。思考を中断させられても不機嫌な様子はない。今の内ならまだ間に合うな、と晴陽は空音の唇に自身の唇をゆっくり重ねた。
「は?」
ぽかんと口を開けたので舌を滑り込ませる。空音は2度瞬きをして、諦めたように目を閉じてされるがままになった。晴陽は胸に拳を叩きつけられるまで空音の頭を撫でながら深く口付け続けた。
「昼から盛ってんの? 変態」
挑発的に笑って鋭い犬歯を見せる空音。
「空音には言われたくないな」
晴陽がそう笑って耳元に唇を寄せて息を吹き込むと、空音は大きく体を跳ねさせた。抑えきれなかった甘い声が鼻から抜ける。
「マジでふざけんな……」
じとりと睨みつけながら空音が低く唸るが、熱を帯びた声では迫力がない。晴陽はしれっとタバコを咥えて空音の隣に移動した。空音は前髪をかき上げ、大きなため息と舌打ちをかました。
無理やり断ち切られた思考の糸を繋げることが出来ず、空音は煙で輪っかを作って遊び始めた。
「それ楽しい?」
「いや、正直かなり微妙」
自分で言っていておかしく思えたのか、空音は煙を全部吐き出して笑った。つられて晴陽も笑って、ふと思いついて口を「オ」の形にして煙を吐き出してみる。空音のように輪っかは作れなかった。
「下手くそ」
ケラケラと笑う空音の顔に晴陽が煙を吹きかける。目を細めてイタズラに笑った空音は吹き返して舌を出す。
「意地悪」
せっかく勇気を出して誘ってみたというのにお断りされてしまった晴陽はポケットに手を突っ込んで不貞腐れた。空音は素知らぬ顔をして細く紫煙を吐き出して踊らせる。それは花のようになって広がる。やっぱり器用だな、と感心していると葵が窓を叩いた。ゲームの画面を見せてきている。モンスターを集めるゲームで希少なモンスターを捕まえることができたようだ。
得意げにしている葵に空音がぐっと親指を立ててみせる。タバコを揉み消して消臭スプレーを吹きかけて部屋に戻る。置き忘れたビールは晴陽がしっかり回収してきた。
「すげー、このモンスター伝説級じゃん。よく捕まえたな」
じっくり眺めながら空音が葵の頭を撫でる。わしゃわしゃと撫でられながら、葵はとても誇らしげに胸を張っている。そういえば、と晴陽は不思議に思ったことを空音に問いかける。
「葵とは微妙にちょっとだけ距離とるよね。どうして?」
本当に何気ない質問のつもりだったが、空音はどうやら聞こえないふりを決め込むようだ。まだ話せない理由があるらしい。晴陽は追求をやめて葵の手元を覗き込む。捕まえた伝説級のモンスターのレベル上げをしているところだった。
「よし、寝る。おやすみ」
そう言い捨てて、空音はスイッチの入っていないこたつに潜り込んだ。かなりアルコールが回っているはずだからすぐ寝落ちすることだろう。晴陽がそう予想した通り、すぐに寝息が聞こえてきた。樹と梓はまだ寝ている。晴陽もなんだか眠くなってきたので葵も巻き込んでみんなで寝ることにした。
しばらくして1番に目を覚ましたのは樹だ。冷めきったフライドポテトをもぐもぐと頬張りながらみんなが起きるのを待つ。
次に目を覚ましたのは空音。樹に待ったをかけてレンジでフライドポテトを温める。その内に葵が目を覚ました。2人にポテトをつまませておいて、空音はケーキを切って皿に取り分ける。
「アズ、ハル。ケーキ切ったぜ」
空音はつんつんと2人の脇腹をつついて起こす。勢いよく起き上がる梓とのろのろと起き上がる晴陽の態度の違いに笑いながら、空音はすっかり温くなったビールを苦い顔で飲み干す。
葵と樹はさっさとケーキを食べ終えてすぐにゲーム機を取り出して対戦を始めた。
「そういえば、樹は誰と風呂入る?」
「あ、忘れてた。めっちゃビール呑んだわ」
梓の言葉に空音はフラフラと立ち上がって壁にもたれかかる。空音は弱いくせに水のようにぐびぐびと呑むのですぐに酔い潰れて使い物にならなくなる。流石に心配なので梓が一緒に入ってあげることにした。
「誰から入るかじゃんけんターイム!!」
ビシ、と拳を掲げた空音に葵と樹が続く。
「最初はぽん!!」
「は?」
1人だけパーを出した空音がケラケラと笑い転げた。もう眠くて仕方がないのかやたらとテンションが高い。ズルをした罰と酔い覚ましのために茶碗を洗うように言った梓が仕切って、晴陽、葵、梓と樹、空音の順番で入ることに決まった。
空音はお気に入りの歌を口ずさみながらテンポよく茶碗を洗っていく。テーブルを拭いた梓が隣に立って、遠慮がちに口を開いた。
「浩太サンから、連絡来たりした?」
「……なんで?」
肯定も否定もせず、質問に質問で返す。一瞬の逡巡が答えとなっていた。梓は布巾を広げたり畳んだりしながら言葉を選んでいる。気のせいかもしれないけど、と前置いてから、梓は俯きながら小さく呟いた。
「今日のソラ……なんか、怖い」
ぴたりと手を止め、空音は梓の顔を覗き込んだ。そっと目を逸らされて、空音は奥歯を噛み締める。
「ハルを迎えに行く前に。結婚おめでとうって」
空音は機械的に言葉を紡ぎ出した。梓の体が小さく跳ねる。梓は心の凍ったような空音の態度だけがどうしても苦手だった。浩太と交際していた時の、完全に狂ってしまっていた空音のことを思い出すと、怖くて仕方がなくなるから。
「……もう、戻らないよね?」
縋るような梓の声色に、空音は短く笑った。そして手についた泡を洗い流し、タオルで手を拭いた後、梓の頭を撫でる。
「わたしにはもう、ハルがいる」
「よかった」
心底安堵した様子で、梓は微笑んだ。空音の目を、真っ直ぐに見つめたままで、子供のようにあどけなく。
「もう、大丈夫」
そう言いつつも不安があるのか、空音の瞳は揺れている。梓は空音の体をキツく抱き締めて、そして肩に顔を埋めた。
「うちが守るから。だから、怖がらないで」
あの頃のように、ただ自分を責めるだけの無力な子供ではない。梓の言葉に、空音はくすりと笑った。もう乗り越えることができたのか、と梓は顔を上げる。
「大丈夫だって言ってんだろ」
普段と変わらない明るい口調なのに。
やっぱり空音の瞳は恐怖に揺れていた。
SilverRing 月神 奏空 @PlayMusic_SKY
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