第3話

 駅に着いてスマホを確認した空音は小さくため息を吐いた。まだ到着はしていないらしくメッセージは届いていない。車を停めて降り、駅の中へと入る。缶コーヒーを買って一気に飲み干し、ゴミ箱へ空き缶を投げ入れた。

 少し待っているとようやく電車が到着した。ポケットの中のスマホが震える。右手をポケットに入れた空音は改札口に近付いて左手を挙げた。顔を上げた晴陽がスマホを持った手を挙げて軽く振る。

「お疲れ様」

「いや、もう、ホントによ」

 もう電車なんて嫌いだ。うんざりした様子で晴陽は吐き捨てた。それがなんだかおかしくて噴き出して笑う。空音が左手を差し出しながら背を向けると、迷わず手を取った晴陽が指先に噛み付いた。

「噛みグセついちゃってんじゃん」

 困ったわんこだなぁ、と空音は笑う。つられて笑う晴陽はスマホをポケットにしまってから空音の頭を撫でた。

「買い物して帰るから」

 膝を折り曲げて逃れた空音がさっさと歩き出す。耳が少し赤いことには触れずに大人しく手を引かれる晴陽だったが、愛おしさが溢れて親指で手の甲を撫でた。薄らと傷の残るそこは少しざらついている。新しい傷だなと理解した時、少し腹の底から黒い物が広がっていく感覚があった。

 空音が何も言わないのなら、晴陽がとやかく言うことではない。わかっていても落ち着かない。

 今度は、何があったの?

 問いかけたら彼女は答えてくれるだろうか。晴陽は自嘲気味に笑いを漏らして手を握る力を少しだけ強くした。答えはわかりきっている。空音が満足げに胸を張っている内は敢えて触れないことに決めた。

「じゃがいもと鶏肉は必須。あとはジュースとケーキか」

 空音が指折り数えながら買い物カゴを取った。晴陽がカートを掴んで引き寄せると少し迷った後にカゴを載せる。晴陽はカートを押しながら先を歩く空音を追いかけた。

「たまにはステーキとか食べたいなー」

 肉を選びながら、空音がぽつりと呟く。晴陽は空音が手に取ったステーキ用の牛肉を見てその値段に驚愕した。さすがの格安スーパーでもそう安く手に入れることはできないようだ。空音は名残惜しむようにそっと牛肉を置いて、本来の目的である鶏肉を選び始めた。

「チキンステーキはどう?」

「それ、いいね」

 晴陽の言葉に、空音は1キロの鶏肉をカゴに入れて親指を立てた。ステーキソースはレシピを見て家にある材料で作ることにして、にんじんのグラッセと缶詰のコーンとブロッコリーを添えることにする。次々カゴに入れていき、1キロのじゃがいもも入れる。フライドポテトは付け合わせではなくある意味メインなのでチキンステーキに添えるわけではない。

 ケーキはスポンジを買ってクリームやフルーツで飾り付けていくことに決めた。空音はスポンジとホイップクリームとイチゴとカットフルーツアソートをカゴに入れる。ジュースを何本か選んでレジへ向かう。

 会計を済ませて車に戻った空音は梓に《今から帰る》とメッセージを送って車を発進させる。

「明日はお寿司でも食べる?」

「2日続けてご馳走は贅沢過ぎない?」

「たまにはいいでしょ」

 そう呑気に言いながら、晴陽は既に近くの店に予約の電話をかけた。空音は肩を竦めたが、止めることはしなかった。アパートに着くと、3人は外で遊んでいた。

「あ、パパ、ママ!!」

 気付いた葵が晴陽と空音に駆け寄る。晴陽の右手と空音の左手が勢い余って飛んでいきそうな葵の体を受け止める。出遅れた樹は面白くなさそうにムッとして梓に抱きついている。

「え、今日チキンステーキ?」

 2人が買ってきたものを確認した梓がルンルンと踊り出しそうな調子で言う。葵は早速ナイフで肉を切る仕草をして、樹がそれを真似る。

 空音は一足先にアパートに戻り、手洗いとうがいを済ませてケーキスポンジとフルーツとホイップクリームを取り出す。時間がかかるものは先に済ませた方がいい。

 スポンジにホイップクリームを塗っていき、フルーツを乗せて残り半分のスポンジを乗せてホイップクリームをまた塗る。ちょんちょんと8回クリームを絞り出し、その上にイチゴを乗せる。完成したケーキは冷蔵庫に入れる。

 にんじんをオリーブ剥きにしてバターと砂糖と水と一緒にフライパンに入れて弱火でことこと煮ている内に、綺麗に洗ったじゃがいもをくし型に切ってどんどん揚げて、塩を振って大皿に移していく。ブロッコリーを茹で上げたら鶏肉を出して皮に切れ目を入れて塩コショウをしておく。

 皮目をパリッと焼き上げて裏返してじっくり火を通している内ににんにくをみじん切りにする。

 どんどん肉を焼いて、にんにくと醤油とみりんと砂糖のソースを作ったらあとは皿に盛り付けていく。フライドポテトは別口だ。

「よし、できたぞー」

 いつの間にやら戻ってきていた全員が指を咥えて待っているのが面白くて笑いながら空音は皿を並べていく。

「ちょっと食べるの待って。一服してくる」

 ベランダに出てほっと息を吐き出すと、晴陽が一緒についてきた。2人で並んでタバコに火をつけて煙を吸い込む。窓越しの子供たちの視線に気付いた空音は口を窄めて細く紫煙を吐き出し踊らせた。まるで龍のように昇っていく煙に子供たちがきゃっきゃと喜んでいる。

 気を良くした空音は背を向けたままポケットからオイルライターを取り出して手の中で弄び始める。そして思いついたようにそれを指先で摘んで掲げ、くるりと手首を返す。両手を広げて手の中にライターがないことを見せ、指を鳴らしてから晴陽のポケットに手を入れる。すると消えたライターはそこから出てくる。

 理屈としてはとても簡単な、しかし誰にでもできるわけではないちょっとした手遊びだと空音は笑う。キラキラした8つの瞳に見つめられて少し照れくさそうだ。

「よし、食べるか」

 タバコを揉み消した2人はお互いに消臭スプレーをし合ってからテーブルにつく。みんなで手を合わせて「いただきます」をして我先にとナイフとフォークを手に取って肉を切り分け始める。しばらく食べるのに夢中になって、晴陽がハッと気付きみんなに飲み物を配る。

「あ、忘れてた。乾杯しよう乾杯」

 手の甲で唇を拭った空音がそう言い、梓がおしぼりで空音の手を拭いながら頷く。みんなでグラスを持って、葵と樹は顔を見合わせた。

「葵、2年生。樹、年長さん。おめでとう。2人ともがんばれよ。乾杯」

「乾杯!!」

 みんなで声を揃え、グラスを合わせたら喉を鳴らして飲み下す。空音はビール、梓はカルーアミルク、晴陽と葵と樹はコーラだ。葵と樹の皿にフライドポテトをどっさりと乗せて、空音は一息つく。

「葵は小学校に好きな子いるの?」

 梓が葵に問いかける。それはまだ早いだろう、と晴陽が笑う。全くわかっていないな、なんて思って空音は顔を背けながらくつくつと喉を鳴らして笑う。

「は? いねぇし」

 ムッとして唇を尖らせながら、葵はツンと尖った言葉を吐いた。

「莉央ちゃんだよ」

 内緒話をするように口元を覆いながらその名前を繰り返し、空音はまたくつくつと笑う。

「ちっげぇ!!」

 顔を真っ赤にしながら葵が強く否定する。

「このくらいの子でも好きな子っているんだね」

 今でこそ空音にゾッコンではあるが、元々恋だの愛だのにはとんと疎かった晴陽は感心したような声を上げる。梓は面白がって樹に顔を向けた。樹はキョトンとした顔をしていたが、空音と葵が同時に口を開いた。

「いろはちゃん」

「え、樹も?」

 もう好きな子がいるのか、という晴陽の問いかけを正しく理解したのか、樹はちょっと頬を赤くしてこくこくと頷いてみせた。

「樹はいろはちゃんからラブレターもらってっから。な、樹?」

 ラブレターというのはお手紙のことだよ、というのは以前教えている。空音の言葉に樹が大きく誇らしげに頷いた。ハートマークを添えて『だいすき』と書かれた手紙は紛れもないラブレターである。空音はニヤニヤと笑いながら肉を口に運んだ。3回噛んでビールで飲み下し、頬杖をついて葵と樹を見つめる。夢中になってポテトを口に運んでいる2人は視線に気付かないようだ。

 空音が子供たちを大切に思っているのは充分に伝わってくるが、生活能力のない彼女には子供を育てることなんてできなかった。1度は児童福祉施設に預けた過去もあり、共に暮らすことは諦めているのだ。どんな思いで彼らを手放し、そしてこうして顔を合わせているのか。

 梓と晴陽は目配せして、空音の手を握った。両手を塞がれた空音は目を丸くしたが、その大きく開かれた瞳は今にも溢れそうな涙で揺れていた。

 パッと手を払い除け、空音が目元を擦る。雫を拭いとって、何事も無かったかのように食事を再開したのを見て、晴陽はなんだか胸が締め付けられるような感じがした。

 今日の空音は少し弱々しい。

 何かあったのだろうとわかっていても、聞いてあげることさえできない自分が情けなくて、少しだけ苦しかった。

「大丈夫」

 独り言のように、空音がぽつりと漏らす。

「大丈夫」

 グラスに口をつけながら、自分に言い聞かせるように言って、残った中身を一気に飲み干した。

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