第21話・才智の記憶

 懐かしい匂いがする。


 アパートの古びた階段を軋ませながら駆け上がり、一番奥にあるドアノブに懐から取り出した鍵をさす。狭い玄関に入り、かかとが潰れたスニーカーを脱ぎ捨てて部屋に上がる。部屋干しされた洗濯物が空間上部を占領していた。朝食のトーストをのせていた皿が二つ、まだダイニングテーブルに放置されている。皿を流し台に片付けてから宿題の漢字ドリルを取り出したところで玄関のチャイムが鳴った。


『マサチカ、遊ぼーぜ!』

『シンくん!』


 訪ねてきた人物は近所に住むクラスメイトだ。一旦自宅にランドセルを置いてからすぐ来たようで、彼はハアハアと肩で息をしていた。


『シンくん、宿題終わったの?』

『そんなの後でやればいいよ。遊ぶのが先!』

『わかったよ、じゃあ公園行こっか』


 親の離婚で引っ越してきたばかりの頃、一番最初に声を掛けてくれた。向井むかい 慎之介しんのすけは明るく面倒見が良い少年だった。


『その服、暑くない? シンくん』

『別に。慣れてるし』

『プールの時も長袖着てたもんね』


 家が近いこともあり、下校後もよく遊んだ。たまに他の子が加わることもあるけれど、基本的には二人で過ごすほうが多い。高学年になると同級生は習い事を始めて放課後に遊べなくなるから、という理由もあった。僕の家は母子家庭で金銭的な余裕はなかったし、慎之介の家は放任主義であまり教育熱心ではないようだった。


 そのまま中学高校と同じ進路を辿り、僕たちはずっと二人でつるんでいた。親友と呼べる存在だったと思う。


 でも、僕は間違えた。付き合いが長くても相手の全てを知っているわけではないし、何をしても許されるわけじゃないということを忘れていた。


『なあ正哉まさちか、元気出せよ』

『放っといて。しばらく何も考えたくない』

『せめてメシを食え。昨日から食ってねえだろ』


 癌の告知から死亡まで僅か数ヶ月。僕の母はあっという間に帰らぬ人となった。母の職場の同僚や友人が色々な手続きを代わりにやってくれたおかげで通夜と葬儀は無事終えた。ただ、小さな白い箱に納まった母の遺骨と共にアパートに戻ってからは駄目だった。そこかしこに母の痕跡が残っているのに、この世の何処にもいないという現実に耐えられない。僕は見事に抜け殻と化し、アパートの部屋から出られなくなった。


 無理に大学に行かず、高卒で働けば良かったと何度も悔いた。母は身を粉にして働いて僕を育て、苦労が報われる前に死んだ。記憶の中の母はいつも笑っていて、死ぬ間際まで僕に笑顔を向けていた。


 引きこもった僕を心配して、慎之介は毎日毎日様子を見に来た。食べ物を運び、着替えさせ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。その親切を受け取る余裕が当時の僕にはなかった。


『いいよな、慎之介は』

『なんだよ急に』

『僕には母さんだけだった。オマエんちみたいに両親が揃ってるわけじゃない。心底うらやましいよ』

『……そっか、そうだな』


 八つ当たりじみた言葉を、慎之介は否定もせずに受け止めていた。僕は膝を抱えて床ばかり見ていたから、この時の慎之介がどんな表情をしていたのか知らない。


 大学を卒業する頃には何とか生活を立て直した。社会人になるのだ。いつまでも泣いていられない。散々世話になったのだからと、初任給が出た頃に慎之介に連絡を入れた。飲みに行こうと誘ったが、都合が合わなくて予定が立てられなかった。


 いま思えば、避けられていたのだと思う。僕は幼馴染で親友の彼のことを何ひとつ知らなかった。知ろうともしなかったからだ。


『向井の親、離婚したんだってよ』

『え……』


 会社帰りに偶然共通の友人、鳥居とりいに会い、世間話のついでに慎之介の話題が上がった。


『僕、それ知らない』

『俺らはもう大人だし、親のことなんかわざわざ言うことでもないからなあ』


 就職してからは直接会うことはなかったが時々メールのやり取りはしていたから、他人の口から出た慎之介の話に困惑した。鳥居の母が慎之介の母と同じ勤め先で、その繋がりで得た情報なのだと言う。


『アイツんち父親が酷くてさ。モラハラとかDVっつうの? 苦労して調停してやっと熟年離婚出来たんだと』


 知らなかった。親友だと言いながら、僕は彼の上辺しか見ていなかった。両親が揃っているから幸せだと決めつけて無神経なことを言ってしまった。


 出会った時から、慎之介は一年中長袖の服を着ていた。水泳の授業も必ずラッシュガードを着用していた。修学旅行では大浴場には入らず、一人で部屋のシャワーを利用していた。体に残る虐待の痕を隠していたのだ。


 最寄り駅で鳥居と別れたその足で慎之介の自宅へと走る。謝らなくては、と思った。今さら遅いかもしれないけれど、僕の言葉で傷付けたことだけは詫びねばならない。


 住所は知っていたが、訪ねていくのは初めてだ。いつも慎之介が遊びの誘いに来ていたからだ。家に居たくなかったのだと今なら分かる。


 インターホンを鳴らすと、低い男の声で返事があった。あれ、と思った時には玄関のドアが開いた。現れたのは中肉中背の男。酒とタバコくさい息を吐き出しながら、玄関前に立つ僕を睨みつけている。


 離婚したのなら別居となる。自宅は一軒家。いま住んでいるのは慎之介の父親だけ。


『こんな時間に何処の誰だ』

『あの、僕、慎之介くんの……』


 口に出してから、しまったと思った。







 ──記憶はそこで途切れている。




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