第16話・悪夢

 雨戸を閉めて室内を暗くしてからベッドに横になる。向かいのベッドのディノは既に眠ったようで、規則正しい寝息が聞こえてきた。


 初めての夜間巡回で魔素溜まりと魔獣を目の当たりにして、僕は緊張していたらしい。安全な宿舎に帰って食事と風呂を済ませたら気が抜けてしまい、目を開けていられないほどの睡魔に襲われる。底のない沼に落ちていくように、僕は深い眠りについた。




──ごめん、みんな


──ぜんぶ俺のせいだ




 誰かの懺悔が頭の中で反響する。気が付くと、僕は真っ暗な闇の中に立っていた。以前にも同じような夢を見たな、と思いながら辺りを見回す。自分の足元や伸ばした手の先すら確認できないほどの暗闇の中で、一箇所だけほのかに明るい場所があった。赤髪の青年が地面に膝をつき、俯く姿が見える。


「ゼノン」


 名前を呼ぶと、ゼノンはゆっくり顔を上げた。どれだけ泣いていたのか、目元が赤く腫れている。僕は彼のそばに腰を下ろし、目線の高さを合わせた。


「どうして泣いてるの」


──俺の覚悟が足りなかったからだ


「覚悟? 何のこと?」


 具体的な返答はしたくないようで、ゼノンは黙り込んでしまう。せっかく会話が成り立つのだ。この機を無駄にしてはならない。


「第一分隊の仲間が心配しているよ。僕じゃ任務も満足にこなせない。ゼノンじゃないと駄目なんだ」


──隊長、ベニート、ジョルジュ、ディノ……


「そうだよ。みんな君の帰りを待ってる」


 みんなゼノンが元に戻ることを心待ちにしている。記憶を取り戻し、これまでのように活躍することを期待し、望んでいる。しかし、僕の言葉にゼノンは首を横に振った。


──オマエはそれでいいのか


「えっ」


──俺の体から出た後、オマエはどうなる


 まさかゼノンから心配されるとは思ってもおらず、困惑してしまう。彼の瞳には僕の姿が映っていた。筋肉質な赤髪の青年ではない、黒髪で痩せた青年の姿だ。


──自分がどういう状態か知らないのか


「僕が?」


 戸惑いながら問い返すが、ゼノンは何も答えない。急に怖くなって立ち上がり、視線を下げて自分の体を確認する。ゼノンとは違う、細くて頼りない体。


 意識だけが異世界のゼノンに乗り移っているのならば、僕の体は今どうなっているんだ。こうなる前の記憶がない。


「えっ、あれ? 僕、どうして」


 僕、才智正哉は入社一年目の会社員。事故に遭ったとか大病を患った覚えはない。ならば何故僕は自分の体から離れているのか。知らない世界で知らない人として生きているのか。


「僕の体は、今、どうなってる……?」


 意識を取り戻してから異世界の生活に慣れることばかりを優先して、元の世界のことを忘れていた。いや、無意識のうちに考えないようにしていたのかもしれない。


 暗闇の中で唯一見えていた赤髪の青年の姿が消えた。僕が困惑している間にどこかへ行ってしまったのだ。僅かな明かりも消え、もう自分の腕や足すら見えない。墨で塗り潰したような黒一色の世界に一人で取り残されている。


「ゼノン、置いて行かないで!」


 必死に叫んだ声は反響すらせず空間に飲み込まれていった。






 まぶたを開ける。薄っすらと見慣れた天井が見えた。視線だけを斜め上に向けると、閉じられた雨戸の隙間から昼間の光がわずかに漏れている。


 ここは第一分隊の専用宿舎、二階にある自室。夜の巡回任務に備えて昼間に眠っていたのだ。毛布から腕を引き抜き、顔の前に手のひらを掲げてみる。筋張ってゴツゴツとした、たくましい手。ゼノンの体だ。もしかしたら元の体に戻れたのではないかと期待していた自分に気付き、落胆する。


 寝汗で額に張り付いた前髪を掻き上げ、深い溜め息を吐き出した。妙な夢を見たせいで眠った気がしない。むしろ眠る前より精神的に疲れていた。


「あれ?」


 ふと隣のベッドを見ると、寝ているはずのディノの姿がなかった。もしや起床時間を過ぎているのかと焦る。時間になっても起きなかったらアロンが起こしに来てくれるはずだ。それに、ディノが僕を置いていくわけがない。


 そこまで考えて、本当にそうだろうかと不安が芽生えた。サイオスがいるのだから、僕はもうジョルジュ班に必要ない存在になったのではないか。僕抜きで任務をして、問題なければそのままお払い箱にされてしまうのではないか。嫌な汗が首筋を伝う。


 居ても立っても居られず、ベッドから降りた。寝間着のまま上着を羽織り、そっと部屋の扉を開けて廊下に出る。窓からは昼間の陽光が差し込み、眩しいくらいに板張りの廊下を照らしていた。ジョルジュたちが寝ているはずの隣の部屋からも気配を感じない。ならば階下か、と階段を降りる。


 食堂の奥にある厨房からはアロンの鼻唄が聞こえてきた。次の食事の準備をしているのだ。だが、食堂内には誰の姿もない。


「みんな、どこに行ったんだろう」


 焦る気持ちを抑え込みながら、食堂を通り過ぎて角を曲がった。突き当たりに隊長室の扉が見える。薄く開いた扉の隙間から話し声が漏れ聞こえ、思わず息をひそめた。忍び足で近付き、耳をそばだてる。


「……アイツはなぜそんな真似を」

「わからん。第二分隊も突然のことで混乱して状況を把握できなかった、と」

「管轄外に単身乗り込むなんて……」


 声の主はジョルジュと隊長、ディノだ。何の話をしているか知らないが、随分と深刻そうだ。


「それで、君たちから見てゼノンはどうだい」


 突然ゼノンの名前が出てドキリとする。


「傷はもう問題ありません。記憶を失って不安定になっているせいか、目覚めた直後はおかしなことを口走っていましたが、今は特に。やや食欲がないところが気になるくらいです」


 まず答えたのはマルセル先生だ。医師としての立場で僕の状態を説明している。次にディノが答える。


「ゼノン、ボクたちを『さん』付けで呼ぶんです。ずっとかしこまった言葉使いをされて、他人みたいで嫌かな」

「アイツは敬語なんか使う奴じゃない。性格も軟弱になって、正直腹立たしい。だが、反射神経だけは徐々に元に戻りつつある。あとは記憶さえ戻ればいいんだが」


 続けて口を開いたのはベニートだ。隊長の前だというのに、彼は苛立ちを隠しもせず吐き捨てるように言った。最後に、ジョルジュが答える。


「これまでの態度が悪過ぎたんですよ。僕は今のゼノンを好ましく思っています」


 思わぬ言葉に、ハッと顔を上げる。ジョルジュがそんな風に思ってくれていたなんて意外だ。しかし、次の瞬間、僕は絶望の淵に落とされる。


「だが、怪我を負った経緯を考えると、ゼノンを信じられない。僕は信用できない人間を第一分隊に……隊長のそばに置いておきたくはありません」



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