第13話

 季節はめぐる。秋が来て冬を越え、春を過ぎてまた初夏をむかえた。

 披帛を揺らして、穂楽の町を天人が走る。長い衣の裾が、海月の傘の縁取りのごとくひらめいた。

「ただいま!」

 衣の裾を揺らし、薫風とともに流れ込むようにして織風は大鷲団に飛び込む。ちょうど泰明が、新規借り入れ申し込み客の接客中だった。

「天人さま! おかえりなさい」

 織風の帰還を歓迎し、泰明が目を見開く。目を開くときに額を突っ張る癖のせいで、黒眼鏡が鼻梁からずり下がった。

「織風。もうすこしかかるかと思ってた」

 接客の様子を隣で見守っていた鷲星が、撥ね板を上げて番台から出てくる。織風の二の腕を愛おしそうにさすり、恋人の帰還をよろこんだ。

「翠藍さまはなんて?」

「気になるようなことは特になにも。変わらずお役目に励めと激励をいただいたよ」

 蓮花天を出た織風は、大鷲団に間借りしている。月に一度ほど、地上でのお役目の報告のため、蓮花天に上がるのだ。昨日からちょうど報告のために蓮花天に上がっており、今日の昼過ぎに帰還した。

 いつもならば話好きな翠藍につきあわされて、滞在が二日、三日と延び延びになるのが常だが、今回はほかにも報告待ちの天人たちが列をなしていたため、織風は早々に解放されたのだ。織風が地上に定住するのを機に、日課となっていた大蓮での天人生誕の確認は、織風よりも年若いべつの天人へと引き継がれた。

「天人さまあ!」

 織風が到着して早々、大鷲団の軒先にかかった鐘がけたたましく鳴り、来客が飛び込んできた。

「織風天人が戻るのを見かけた人がいたものだから。あたし、仕事をほっぽりだして飛んできたんです」

 後ろで一本に編み込んだ髪を下げた、まだ少女のような顔つきの女だった。女はよほどあわてていたのだろう。着物の仕立て用の鋏を手にしたままだった。

「ああ、話を聞こう。こちらにかけるといい」

 唐突な来客も笑顔で出迎え、織風は店の端にある席へと案内する。女が着席すると、覆いの屏風を閉じてつつましやかな空間を遮蔽した。

 織風が見つけた地上でのお役目。頻羽のようにこの国の歴史をまとめて、現詔帝の羅針盤となるべき示唆を与えるのではなく。珠翡のように、詔帝の治世を脅かす魔の者たちを振り払うでもなく。それはただ、市井の人たちに寄り添うという道だった。

 人の世を正しく導くためになにができるか。また、なにをしたいか。

 頻羽のように大局的な視点から詔帝を導くのは立派だ。珠翡のように、妖魔退治をして多くの人の安寧を守るというのも、得がたい才能だ。自分に当てはめて考えたときに織風は、世のなかを大きく動かしたり、多くの人に影響をもたらしたりするお役目に就く自分がどうしても想像できなかったし、なんとなくしっくりこなかった。もっと身近な人たちの役に立つことのほうが自分に向いていて、自分の希望するお役目の果たし方にもかなうのではないかと考えたのだった。

 織風が大勢ではなく、個に寄り添うことを希望するようになったのは、愛鸞帝や極北王との出会いによるところが大きい。

 織風の話を丁寧に聞き取り、迷いを晴らして鷲星と仲直りをするように導いてくれた愛鸞帝には本当に感謝している。また自分も、彼女のようにだれかの心配事を解決してやれる存在になりたいと憧れを抱いた。前世からの因縁が深くつながる悩みの深淵にいた極北王に言葉をかけて、人生をやりなおすように勇気づけられた。その経験を通じて、人が生きる意義を見出す手伝いをしてやれるのは、なににも代えがたい奉仕なのだと知った。だからこれから、市井の人たちに寄り添うことを地上でのお役目にしようと、織風は決意した。

 頻羽や珠翡は大勢を救い、導く。それができない代わりに自分は、間近で顔の見える人たちのよりどころになる。

 たった一人に寄り添うことは、大勢を救うのと同じくらい価値がある。どちらもこの世から一人でも多くの人の苦しみを取り除こうとする、目指す境地は同じだからだ。

 そういうわけで織風は大鷲団の、店舗の一角を借りて相談所を開いている。悩みを抱えた人たちが天人の博識にすがり、助言を仰ぐ駆け込みさきだ。とはいえ偉そうに上から目線でありがたい説教をするのとはほど遠く、どちらかといえば、茶飲み友達の愚痴吐き出し大会につきあっているほうが近い。

 こんなゆるさでいいのか。もっと天人の威光を利かせた相談所にしたほうがいいのでは、と余計なおせっかいを働かせたくもなる。でも悩み相談を持ちかける人は、ただ天人に話を聞いてもらったということで満足感が得られるようで、細かいことは気にしない。半刻もすると、晴れやかな顔をして帰っていく。

「天人さま、あの人はぜったいに浮気をしているのです!」

「なぜ、そう思うのだろう?」

「だって、あたし見ちゃったんです。あの人が女性の肩を抱いて歩いているのを! それも白昼堂々、大通りを歩いていたんですよっ!」

 いまにも泣き出しそうな顔の相談者に向かい、織風はやわらかな動作で首をかしげる。

「それは、本人に真偽をたしかめたのだろうか?」

「……いえ、あたしからはなにも訊いていません」

 確証が持てないままにもやもやを募らせていることで、疑いをかけている恋人にも、相談を持ちかけた織風にも、気が引けるところがあったのだろう。相談客は、うっと声を詰まらせる。

 織風の接客中は茶出し係に徹している鷲星が、店の奥から白茶の乗った盆を片手に、給仕にあらわれた。机に置かれた茶碗から、柑橘系に似た爽やかな香りが立ち上る。

「ひょっとしたら、道端で気分を悪くした人の世話をしていたのかもしれない」

 客に白茶を勧めつつ、織風は自分でもひと口、口に含んで満足そうにほうーと息を吐く。

「あるいは、だれに目撃されても後ろめたくない間柄の人なのかも知れない。友人や姉妹ということはないだろうか?」

「そういえば……。彼、たしか他県に留学中の妹がいるって……」

明鈴メイリン!」

 新たな来客に、扉の鐘がからころと鳴る。

「明鈴! いないのか-?」

 店先にやってきた客が、店内を見まわしながら大声で呼びかける。

「ず、瑞杏ズイキョウ……!」

 声を聞きつけた女性客の顔が、真っ赤に染まる。その反応でわかった。いま飛び込んできた客こそが、彼女の恋人だ。

「彼は、もしかしてあなたの恋人だろうか?」

「え、ええ。天人さま」

 織風はためらうことなく屏風の覆いを開いて、「きみの恋人はここだ」と男に向かい呼びかける。瑞杏という男はかたわらに、小柄な娘を伴っていた。

「いたいた。天人さまの店に行ったって、仕立屋のおばさんから聞いたもんだから。天人さまへのご相談はいつ終わるんだい? いま、妹の瑠杏ルキョウが実家に帰ってきているんだ。せっかくだから一緒に食事でも、と思って」

 瑞杏のかたわらにいた少女が、ぺこりと頭を下げる。

「あ……い、妹さん……だったの……」

 明鈴がうろたえている。どうやら織風の予感的中で、彼女が目撃した恋人の浮気相手は、帰省中の実の妹だったようだ。

「なにごともよく、話し合ってみることだ。お互いを深く思い合っている二人にさえ、すれ違いは生まれるものだから」

 勘違いだったことを恥じて、「お、お騒がせしました……」と明鈴はひたすら恐縮し、ぺこぺこと織風に向かい頭を下げる。迷惑料も込みのつもりでいるのか、じゃらじゃらと大量の小銭を、相談料の回収箱に投入した。悩み相談のお代は、天帝や仙聖へのお布施感覚で、相談者が金額を好きに決めていいことになっている。

 合流した三人は仲良く、大鷲団を出て行った。

「まったく、早とちりにも困ったもんだ。彼氏に向かって『浮気しているのか?』って、ずばっと聞けばいいものを」

「なかなか、直接はたしかめがたいところがあるのだろう」

 自分にとって相手が大切であればあるほど、真意を図るのはこわいものだから。織風は苦笑しつつ、箱の中身をあらためた。さきほどの客は、李食堂での昼食二回ぶんがまかなえる金額を入れてくれていた。相談料は家賃と相談所の場所貸し代として、丸ごと鷲星に上納する流通経済が成立している。

 その後はさほど時間を置かず、連続して二人ほど、飛び込みの相談客がやってきた。片思いの相手がいるが、実る恋なのか確信できず、告白を躊躇している。もう長らく口約束だけの婚約相手を、結婚に踏み切らせるにはどうしたらいいだろう。尽きない恋の悩み相談を、織風は丁寧に聞き、感想と示唆の中間くらいの助言を述べる。このさき、きっと状況は好転するという希望を抱いた相談者は、笑顔とともに店をあとにする。

 最後の客を見送ったとき、時刻はちょうど午の三刻をまわるところだった。

 織風はぐーっと背伸びをする。

「鷲星。今日は早めに店じまいをするよ。そろそろ極宝キョクホウが帰ってくるころだ」

 極宝の名を口にすると、鷲星はわざとらしく顔をしかめてみせる。

「そういう顔をするな。なにせ一年ぶりに穂楽に帰ってくるのだ。初仕事の達成を祝ってやらなければな」

 極北王は王籍から除名されて民間に下り、名を極宝とあらためた。教本の製本係に任じられて派遣された那張から、試し刷りをした本をはじめて、都に献上しに上がる。

 すでに原典のあるものをひとつにまとめ、今後の正本となるべき本を印刷するのに一年がかりだったのは、子ども向けに内容を簡素化すべきか否かの議論が、永盛城の官吏の間で持ち上がったためだ。改変すると原文の意図が正しく汲み取られないのではないか。いやいや教本なのだから、子どもでも理解できる内容ではないと本末転倒だろうと、議論は揉めに揉めつつ、最後は対立する意見の中間を取る形で、原文の重要な箇所に平易な言葉で解説を加える形で決着した。

 複数の執筆者により急いで編集が加えられ、なんとかまとまり印刷にかけられる型版を作り終えたのがひと月まえのこと。何度か試し刷りを繰り返し、ようやく量産のめどが立った。極宝は愛鸞帝への初お披露目のために、那張からおよそ半月かけて穂楽にやってくる。あらかじめ文で知らされた予定では、本日の午後、穂楽に到着するめどとなっていた。

 折しも、今宵は乞縁節だ。たくさんの天燈が空に舞い上がるうつくしい光景を、極宝も楽しみに戻ってくることだろう。

「仕方がない。天燈の材料を調達ついでに、あいつのことも出迎えてやるか。泰明、そういうわけだから今日は早じまいにしちまおう」

「あいよ」

 今年もまた、乞縁節の日は早じまいだ。泰明はさっそく、その日の売り上げをすばやく勘定して記帳すると、店舗の陳列商品を片付けに入った。

 店の後始末は泰明に任せ、織風と鷲星が大鷲団の外に出ると、通りが人々でごった返していた。

「やはり乞縁節の日は混み合うのだな」

「それだけでもないみたいだぜ。みんな、教本が届くのを待ってるんじゃないか」

 那張から永盛城に書を献上に上がる噂を聞きつけた人たちは、荷車がやってくるのを心待ちに、通りに留まっている様子だ。

「それは結構なことだ。鷲星、私たちは関所のほうに行こう」

「おお、そうだな。俺たちの熱々ぶりを、戻ってきたあいつに最速で見せつけてやらないと」

「そう意地悪を言うな」

 半分冗談、半分本気の発言を苦笑いでたしなめつつ、織風は鷲星の手を取り歩き出す。織風が歩むと、薄衣が微風に乗ってゆれた。

 町中と変わらず、関所まえにも人が詰めかけていた。教本は、これから本格的に整備される教育制度の足がかりとなるものだ。教育制度の普及は、愛鸞帝の治世のなかでも特筆すべき功績のひとつに数えられることだろう。その記念すべき足跡の一歩となる日を、穂楽じゅうが歓迎している。

「来たぞ! あれじゃないか!?」

 群衆の一人が開かれた関所の門を指さす。遠くのほうからゆっくりと、馬車が歩いてくるのが見えた。

 わあっと歓声が上がる。馬車が関所を通過して市中に入ると、人々の間から自然と拍手が沸き起こった。

「極宝!」

 周囲の歓声に負けないよう、織風は声を張り上げて、馬車のなかにいるであろう極宝を呼ぶ。何度か呼びかけると戸が開き、御者の背後から極宝が顔を出した。

「織風! 出迎えにきてくれたのか!」

 群衆のなかに織風を見つけて、極宝は嬉しそうに顔を輝かせる。頭に冠はなく、苔緑色をした木綿地の服は、王子だったころとは比べようもないくらい質素になった。頬が艶々と健康そうに輝いているところはあいかわらずで、那張での充実ぶりを物語っている。

「ああ。このあと、すぐに陛下に謁見するのだろう? いまを逃すとなかなかあいさつする時間がないかと思って、待っていたのだ」

 馬車のまわりを人が取り囲んでおり、とても落ち着いて話をするどころではない。

「そうか。私は明後日まで穂楽に留まる予定だ。暇を見つけて、そなたの店を訪ねよう」

「ああ。待っている」

 織風と極宝が短い約束を交わしたところで、

「うわー、すげえ! 本当に来たんだ!」

 人の密集したなかから、三人の子どもたちが飛び出してきて、馬車の行く手を阻んだ。練心、弯月、磐仲の悪童たちだった。

「なあなあ、本当に本が積まれてるのか?」

 と盤仲が荷台の極宝に問いかける。

「那張から来たんだろ? 那張って年中、春みたいな気候だって聞いたけど本当か?」

 極宝が盤仲の質問に答えないうちに、弯月が質問をかぶせる。練心は極宝の背にした戸の奥をのぞこうと、必死に首を長く伸ばす。

「ああ、那張はあたたかくて過ごしやすいぞ。本はちゃんと、ここに見本を積んである」

 極宝は馬車のなかを指し示すが、背が低い子どもたちには見えないようで、ぶうぶう文句を言っている。極宝は一度馬車を停止させた。

「そんなに興味があるのなら、上ってくるといい」

「いいのか!?」

 なんの気まぐれか、極宝は子どもたちに手を貸して、馬車の荷台へと上がらせた。戸の内部をのぞき込み、「本当にこれ全部が本なのか!? すげえ!」と三人とも声を上ずらせて感動している。

「このまま永盛城に向かってくれ」

 極宝は再び御者に指示をして、馬車を走らせた。

「ついでだ。おまえたちに特別に、永盛城のなかを見せてやろう」

 王子だったころには考えもしなかったであろう、市中の子どもたちとの交わりが楽しくなったのか、極宝が大奮発をする。薬事院以外は立ち入りを禁じられている城内に入れるとあって、荷台の子どもらは大騒ぎだった。

「いいのか、極宝? 陛下に叱られてしまわないだろうか?」

 織風が気遣うと、極宝はにんまりと人の悪い笑みを作る。

「荷台に隠してこっそりと見学させるさ。なに、私が顔を出せば、衛兵は積み荷の検査まではしないだろう。さすがの陛下も、子どもたちが隠れているとは気づくまい」

 ところが極宝の思惑ははずれ、愛鸞帝との謁見中は駕籠のなかでおとなしくしているようにと言い聞かせたはずの子どもたちが勝手に抜け出して自主的に城内見物をはじめたために、龍尾軍を動員して永盛城じゅうを大捜索する珍事に発展することになる。

 なかで子どもたちがばたばた暴れるため、荷台を不安定にがたつかせながら、馬車は永盛城の方面へと進んでいった。

「なんだか、あいつ変わったな。まえは自分からガキどもとかかわろうなんて、考えもしなかったはずだぜ」

「ああ。いい方向に変わっているのだと思うよ」

 馬車が走り去ってしまうと、関所まえに集っていた人たちも三々五々、ばらけていく。

「そんじゃあ俺たちも、そろそろ天燈の材料を買いにいくか」

 鷲星にうながされ、散り散りになる人の動きに乗って、織風も歩き出す。

「今宵の乞縁節。鷲星はなんと願いをかけるつもりなのだ?」

「そうだなあ、まあ、俺の願いはもう叶っちまってるからな」

 鷲星は頭の後ろで手を組んで織風を見つめる。

「今度は、おまえさんとずっと一緒にいられますようにって願いをかけるか」

 手を組んだまま鷲星はにっと笑った。

「それは……」

 織風は薄くはにかむ。

「わざわざ天帝にお願いしなくても大丈夫だ。きみの願いは、私が叶えよう」

 ずっと一緒にいられますように。鷲星の願いはまた、織風の願いでもある。

 前世で永遠に添い遂げることを望んだ嵐鷲王と絹雲の願いを抱えて織風は、鷲星の望みをきっと叶える。天人と式鬼として、永遠にともに在る。このさきもずっと鷲星の幸福を願い、鷲星を幸せにするのだ。

 

 酉の二刻を過ぎるころ、宵闇に天燈が舞い上がりはじめた。

「今年もまたきみに手伝ってもらってしまったな。いつか一人で、天燈を組み立てられる日が来るのだろうか?」

「何年も作ってりゃ、自然とコツがわかってくるさ」

 織風と鷲星も大鷲団の三階から、空に向かって天燈を飛ばした。

「ん、そういえば」

 鷲星が変な顔をする。

「俺たちが出会っちまったってことは、嵐鷲王と絹雲の伝説も終いじゃないのか。なんのための乞縁節なのか、わからなくなってくるな」

 伝承の題材となった当の本人たちですら天燈に願いをかけていること事態も、どういう構図なのかよくわからなくなってくる。

「それもそうだな……。でも、いいのではないか。大事なのは、なにを願うかだ。願いをかけるよりどころがあればいい」

「それもそうか」

 元来、細かいことを気にしない性分の鷲星はすぐに納得した。

 いくつもの天燈が空を浮遊し、黒々とした天空へと吸い込まれていく。我が願いを乗せて、どうか天帝の元へと届けておくれと、人々の願いを運んでいく。愛する人を見つけ、愛される人とめぐり合わせてほしいのだと――。人が人を思う気持ちは続々と天に吸い込まれていった。

「織風」

 座っていた背後から鷲星が両腕を絡めて、抱きついてくる。こうして甘えた声を出して、媚びるような仕草をするときになにを欲しているのか。一年まえにはじめて体をつなげてからのつきあいになるので、よくわかる。

「鷲星。ここではいけない」

 鷲星は織風が困り顔でたしなめるのにもかかわらず、こめかみから頬から、口づけを落として、主人に甘える犬のように体をすり寄せてくる。

「だめだと言っているのに。表には人が大勢いるのだぞ」

「たまには趣向を変えてさ」

 言うが早いか、鷲星の手が着物の間に差し入れられる。

「私には、恋人同士の睦み合いを人にさらす趣味などないのだが」

 鷲星の指が胸の尖りをつまみ、きゅっとひねり上げる。それだけで尖ったさきから蜜がにじみ、着物を濡らしてしまいそうだった。

 その場で最後までするつもりはなかったようで、鷲星は織風を抱きかかえると、寝台へと移動する。窓は開け放ったままなので、次々と宙に放たれる天燈がよく見える。

「なんだか海の底にいるような気分にならないか? 浮かんでいるのは、大量の海月だ」

 鷲星に帯を解かれながら、織風は表を指さす。

「空を舞う海月か。そう言われると、そんな気もしてくるな」

 外の光景を目に映しながら、鷲星も同意を示した。

 ここは海の底だ。織風はうっとりと目を閉じて、胸郭から胴を優しくなでる鷲星の手の動きを全身で感じ取った。

「……私は幸福だな」

「どうしてだ?」

 心から満足そうな織風のつぶやきに、鷲星がくすりと笑みを漏らす。

「きみに愛されて、愛がどういうものなのか知ったからだ。そして私に注いでもらった愛を、ようやくきみにもすこしずつ返せている。そのことがこのうえなく、幸せだと思うよ」

「愛……か。いまのおまえさんは、俺を愛しているのか?」

 織風の愛を希った鷲星は、ようやく求めていたものが得られた安堵から、静かに目を閉じて、額を織風の額にくっつける。

「ああ。きみを幸せにしたいと心から願っている。この願いが、私の愛だ」

 織風は両手で鷲星の頬を挟むと、その唇にゆっくりと口づけた。

 たくさんの天燈が空に舞う。人は願いの成就を天帝に希う。人の数だけ願いがある。

 ひとつでも多くの苦しみがなくなり、ひとつでも多くのよろこびが生まれる世のなかであるように。織風はそう、今宵の天燈に願いをかけた。

 願いの裏には、叶わぬことの苦しみがあるから。それでも希望にすがって、よりよい状態であろうとあがく、一人、一人の真摯な思いがあるから。

 一人でも多くの人の願いが叶ってほしい。一人でも多くの人が救われる世のなかであってほしい。それが織風の願いだ。

 このさきも鷲星とともに織風は、だれかの願いに寄り添い続ける。そうして幾年も、また幾年も。織風は鷲星と、人の願いを乗せた無数の海月が、天に向かって飛ぶさまを見守るのだ。

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粗忽な天人の通い婚 森野稀子 @kikomorino33

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