【KAC20246】昨日の敵は今日の友

大和成生

昨日の敵は今日の友

 インフルエンザになったと静岡に単身赴任中の夫から連絡があったのは火曜日の夜だった。

 会社でインフルエンザが蔓延していたので、念のためにと受けた検査で夫自身も感染していたことが判明したそうだ。症状が出だしたのは月曜日からで、初めはたいしたことはないだろうと高をくくっていた夫も、40℃近い高熱と身体のあちこちの痛みに耐えかね明子にSOSを出してきた。

 夫の良夫は生まれてから一度もインフルエンザに罹ったことがないという。「重めの風邪」程度の認識だったのだろうがインフルエンザを舐めてはいけない。高熱、咳、嘔吐、関節の痛み、筋肉の痛み、だるさなどの全身症状が出るだけでなく、合併症を引き起こすこともあるのだ。

 明子は夫との物理的な距離への不安を改めて実感した。


 翌日、水曜日。

 明子は大学生の娘と高校生の息子に事情を話し、旅行鞄を抱えて勤務先の病院に寄った。看護部の了承を得るとそのまま新幹線で良夫の元へと向かう。


 新幹線の車内で明子は頭を悩ませていた。


(一番の問題は、あの部屋が私を受け入れてくれるかどうかやな……)


 そう。夫の良夫が単身赴任先の静岡で現在暮らしているマンション。会社が用意してくれた中々素敵なマンションの一室なのだが、そこには見えない何かが居た。その何かは良夫には好意的なようだが、明子には露骨な敵意を向けている……ように感じた。

 明子は霊感があるわけではない。ただ何かの折ごく稀に、そうした言葉では説明できない「何か」を感じることがあった。

 良夫が静岡に引越した際、明子は一度だけ夫の新しい住処を訪れたのだが、その時明子はそこから激しく拒まれた。強烈な悪意と共に「早くここから出て行け」と言われているように感じたのだ。

 感じただけ。そう理屈も何もない、ただそんな気がしただけ。

 勿論良夫には何も言えなかった。説明出来る気がしなかったからだ。


(泊まっても大丈夫なんやろか……ブリザさん、赦してくれるかな)


 夫の住処にいる見えない同居人のことを、明子はこっそりブリザさんと呼んでいる。なぜならRPGのファイナルファンタジーに出てくる「ブリザド」という技、ブリザさんはその「ブリザド」のような技をその時明子に仕掛けてきたからだ。

 初めて夫の新居に入った瞬間、明子の肩甲骨はぎゅっと引っ付いた。突き刺さる冷気のような悪意、あれはブリザドだ。


 夫が単身赴任してから半年。その間良夫は何度も明子達の住む元の家へ帰ってきていたが、明子はあれ以来一度として良夫の元を訪れていない。ブリザさんの怒りに触れるのが怖かったからだ。

 しかし此度は看病のため夫の元を離れるわけにはいかない。ブリザさんがどれほど明子を拒もうともあそこに泊まるしかない。


 良夫のマンションの玄関扉の前で明子は深呼吸した。


(明子、覚悟は良いか!)


 貰ってから初めて使う合鍵で、明子は良夫とブリザさんの住処へと足を踏み入れた。


(!!!…ってアレ……?!)


 ブリザドどころかブリザラぐらいの衝撃を覚悟していたのだが、己の身体には何の反応もない。

 恐る恐る明子は靴を脱いで室内へ潜入した。やはりなんともない。

 あの時の自分の感覚はただの勘違いだったのだろうか。だとすれば今までこの部屋に来ることを頑なに避けてきたことが良夫に対して申し訳ない。

 明子は拍子抜けしたような心持ちで夫が寝室にしている部屋をそっとノックした。返事はなし。

 ゆっくりドアを開けるとベットに横たわる良夫の姿があった。荒い息づかいが聞こえる。近づいて覗き込むと熱で上気した赤い顔。首筋に手を当てるとかなり熱い。

 

 その時ふいに何かの気配を感じた。


(ブリザさん……?)


 夫の寝室は少しひんやりしていた。熱に浮かされている人間がいるにしては室温が低い。もしかするとブリザさんがそばで良夫を見守っているのかも知れない。


「えっと……不本意やとは思いますが、この人こんな有様なんで、私しばらくここでご厄介になります。これでも看護師なんですよ私、今は人間ドックで働いてます。なのでこの人の看病する間だけちょっと目ぇつぶって貰えますかー」


 聞こえているかはわからないが、明子は一応ブリザさんに自己紹介兼、お願いをしてみた。

 ブリザド?!……良かった、発動されなかった。


(わかってくれたんかな……まあ勝手にそう思っとこ)


 明子の声で起きたのか良夫が目を開けた。


「待たせたな!大丈夫や、知らんかも知れんけどこう見えて看護は得意やねん。大船に乗ったつもりでゆっくり寝ときー」


 明子の軽口に良夫はホッとしたように微笑んでからまた目を閉じた。

 その後もブリザさんは明子に「出て行けブリザド」を仕掛けてくることはなかった。良かった、と胸をなでおろした明子が台所でおかゆを作っていると良夫の寝室から「パシッ!パシッ!」と何かがはじけるような音が聞こえてきた。慌てて見に行くと良夫の額に乗せていた氷嚢がずり落ちている。

 

「教えてくれたん?ありがとう」


 明子はブリザさんにお礼を言った。

 

(何か良い感じやん)


 ブリザさんと手に手を取って良夫の回復を願っている、そんな気がしてきた。もしかしたらこのまま仲良くなれるかも……


(昨日の敵は今日の友、いうしな)


 明子は何だかうれしくなった。

 

 木曜日には良夫の熱は少し下がってきた。おかゆも食べてくれたし経口補水液もこまめに飲んでくれている。幸い嘔吐はないようだ。夜になると、


「おかゆ以外のモンが食べたい」


などと言うようになってきた。この分なら明日には平熱に戻るのではないだろうか。良夫が寝たのを見届けた明子は冷蔵庫からビールを取り出した。


(やれやれ、ひと息つこか)


 缶のまま飲もうとした明子だったが、ふと思い立ち小さなグラスを持ってきた。テーブルに座りグラスにビールを注ぐと向かいの席に置く。残りのビールが入った缶をグラスに当てて乾杯した。


「お疲れ様。もう大丈夫やと思います」


 ブリザさんがこの場にいるのかはわからなかったが、グラスの泡が消えていくのがブリザさんが飲んでいるかのように見えて明子は楽しくなった。


 金曜日。思った通り良夫の熱はすっかり下がり食欲も通常運転になった。土日は会社がお休みなので月曜日からは出社出来そうである。念のため二人で近くの病院へ向かい、明子もインフルエンザの検査をして貰った。看護師の明子の場合、土日を挟んで月曜日の仕事前にもう一度病院でインフルエンザの検査をしなければ職場復帰出来ない。

 良夫はもう大丈夫とお医者さんのお墨付きも貰ったので問題なく仕事に行けそうだ。


 スーパーで買い物した食材を料理して冷凍庫に詰め終わった明子に良夫が声を掛けた。


「お前土日はドック休みやろ、もう一泊するか?静岡案内したんで」


 病み上がりのくせにそんなことを言い出す良夫に呆れながらも、もう一泊してもいいかな、と明子が思ったその瞬間。


 強烈なブリザド、いやブリザガが明子を襲った。

 この何日か我慢していたものが一気に吐き出されたかのような強烈な攻撃。


(アカン……やっぱり手は取り合えず……か)


 お前の役目は終わったとばかりのブリザさんの攻撃に明子はため息を付いた。


(昨日の友も今日は敵、それもまたアリやな……)


 まあ、ブリザさんが意外と話のわかる存在だとわかっただけでもめっけもんである。


(ここは一先ず退散や……)


「取り敢えず帰るわ。子供らも心配やし」


 悪寒だけではなく鳥肌まで立ち始めた腕をさすりながら良夫にそう告げると、明子は大急ぎで帰り支度を始めた。

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