y=ax

ふぃふてぃ

y=ax

 夏の香りが差し込む長期休みを目前と迫る教室。浮き足立つ生徒が『とりあえず』と気晴らしに下敷きを団扇し、ぴょこんぺにょんと気の抜けた音がしている。


 『とりあえず』なコロナ対策の名残で開け離れている窓は、カーテンをおおいに揺らし、眩い光がチラチラと目に入ってくる。


 今日は快晴。夏日です。


 しかし、私の心は晴れやかとはいかなかった。


「うーん」


 心の中に留めておくハズの気持ちを洩らした。さすがの私も自分の声にハッとした。見渡せば皆の視線を一身に受けている。


「どうした、阿部。おーい、阿部あやこ。聞いてるのか?トイレならさっさと行ってこい」


 クラスは大爆笑の渦。恥ずかしい。

 私は大きく首を振った。


「違います!先生」

「な、なんだ。どうした?」


「先生、xって何ですか?」

「はぁ?授業きいて無かったのか。さっき言ったろ。xは5だ」

「でも、さっきは7でした」

「それは前の問題だからだ」


——何にでもなってしまうxとは何者か?


 xもyも、はたまた新登場のaも、5にも30にも6にもなる。時には7にも35にも5にもなる。

 違う数字の時もあればxもaも同じになり、名前が違うのに同一人物のような時もある。


 それは、まるでタモリであり森田でもあり、それは同一人物のようで、実は違う存在で……グラサンに全ての謎が!?これは事件の予感がプンプン。


「『とりあえず』座りなさい」


 先生に促された。「放課後、職員室に来なさい」とも言われた。


「阿部はアレコレ考える癖がある。『とりあえず』指定された数を代入すれば宜しい」


 ピシャリと説教を食らった挙げ句。なんの解決も頂けないままに家路に着く。もちろん、最近のテストの点数は芳しくない。


 兄に聞いたら『とりあえず』先生の言う事を聞け。

 母に聞いたら『とりあえず』パパに相談します。

 父に聞いたら『とりあえず』塾に行かせます。


 という具合で今年の夏から私は『とりあえず』の塾に通っている。人の輪を乱しがちな私はマンツーマン個別指導が良いらしい。


 薄いパーテーションの外からは明日からの長期休みなど皆無かのように、勉強に勤しむ若人達(まぁ、私も若人な訳だが)。


『とりあえず』単語は覚えないとね

『とりあえず』今回の文章問題は捨てるか

『とりあえず』志望校は高めに設定して


 などなど。『とりあえず』が囁く。


 不思議と『とりあえず』が挟むと他人事のように聞こえるので面白い。


 そんな勉学の集中の境地(言わばアキラメ)的なゾーンに私が耽っていても、塾講師はアレやコレやと付き合ってくれるので、ありがたや。


「方程式は嫌いかい?」

「嫌いではありませんが、数字は苦手です」


「そっか~」と一息ついて、先生は「では最初は数字を少なめでいきましょう」と提案してくれた。数字の少ない数学とはなんぞや?


「そう最初は数字じゃなくていいんだ。例えばa=2、x=タイヤ」

「y=自転車」

「そうだね。バイクでもいい。そんな感じ」


「じゃあ。y=自動車、x=タイヤなら」

「a=4になる」


「OK、OK。じゃあ今度はa=自動車で」

「x=鳥なら、なんだと思う?」


 どうやら私は褒めて伸びるタイプの様で、気づいたら問題を出す側になっていたわけで、気恥ずかしさもありつつも、講師は意外と真剣に考えている様で、なんだかんだ数学も悪くないなと思いつつある。


「うーん。飛行機かな。言葉×言葉も悪くないな」

「これ、面白いね」

「僕も最初は数学が苦手でね。幼馴染の友達に教えてもらったんだ」


 鳥井先生の数学は、今まで感じていた何となくモヤモヤっとしたものを取り払ってくれる。そんな授業だった。

 それは普段の『とりあえず』代入、『とりあえず』板書なんかの授業より、ずっと楽しい。


「トリ。終わったら私にも数学おしえて」

「トリ〜。次は私もね!」


 トリ〜、とは鳥井先生、先程から私に数学を熱心に教えてくれている塾講師の渾名のようだ。

 お世辞抜きで、学校の先生より教えるのが上手。そんで持って、背がスラリで色白で……


 イケメンの基準は人それぞれであるとは思うけれど、人気が高いことは確かみたい。

 そういえば、この前よんでいた本屋大賞を受賞した作品に書いてあった。男性のイケメンの判断は鼻が高いことだそうだ。鼻が高いと横顔が締まる。


「はいはい。明日はフリーですから、朝の時間を空けておきますよ」

「じゃ明日ね。バイバイ」


「さよなら」と帰りを促すも、なかなか女子生徒は帰らない。それほどに、トリの鼻は高い。薄いパーテーションでは遮れない何がある。


 別井さんと千葉さん。いつも鳥井先生に声をかける女生徒の名前。もちろん面識はない、話したこともないのに覚えてしまった。

 もうすでのマンツーマンの壁が壊されつつあった。


夏休みも中頃まで迫る。塾のおかげか毎年ギリギリになる宿題がすこぶる順調でなによりだが、今日はトリには会えずでガッカリ。


『トリあえず』で見繕われた女性講師に習う。


「あ、今日axじゃない!先生、トリ知らない?」

「今日は風邪でお休み。それに鳥井先生ね。一応、教員免許も持ってるのよ」


 別井さんが来た。そのあと千葉さんも来た。

 女性講師は、そのたびにクスクスと笑い、丁重に追い返してくれた。


「あなたも目を付けられて災難ね」

「い、いや。そんなことは。それよりaxって」


 何のことかはわからずも、最近よく鳥井先生の居場所を聞かれることが多々あることを思い出していた。


「あぁ、大したことじゃないわよ。彼女たちも方程式が苦手だっただけ。aをbに変えたり、aをcに変えたりして教えたの」

「それって、逆に難しくないですか?それこそ数学が嫌いになりそうですけど」


 y=ax、この形だけでも意味不明なところに、aがbになったり、cになったりしたら。私的にはタマラン。


「そんなことないわよ。女は誰しも誰かの隣に居たいと思うもの。あなたもそうでしょ」

「そういうものでしょうか?」


 ここにきて私の頭は完全にショートした。訳が分からん。いつもの鳥井先生の方がいい。

 私は隣の女講師の人生訓じみた数字を聞き流しながら、『とりあえず』明日はトリに会えることを切望した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

y=ax ふぃふてぃ @about50percent

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ