最終話 さらばガラスの駅よ

 灰原姫子はガラスの駅で永劫の無へ旅立って行った。


 橘製薬の干渉によって階瞬病院は詮索をすることなく、ヒメがいた病室を片付けた。


 灰原新一さんとは会っていない。だけど、葛城さん曰く、生きているらしい。俺に対して何かアクションはなかったのかと訊くと、『大切な娘の死を後押ししたことは永遠に苦しんでもらいたい。だけど、その大切な娘のために、自分の人生を壊しかけてでも望みを叶えようとしてくれた一途の愛には心から感謝してる……娘を愛してくれてありがとう。君も自分の人生を好きに生きるといい』という言伝をくれた。


 現世に戻って来た俺は、淳二と桐谷と葛城さんに全てを告げて、日常を再開した。


「鐘早高校の皆さん、四時間の学業お疲れ様です。今日は金曜日、草結放送部の放送が始まりますので、御用とお急ぎでない方はぜひとも耳を傾けてみてくださいね。アシスタントの一年生池田世良いけだせらちゃんと一緒に盛り上がっていきましょう」


 草結放送部のボランティアは続けた。アシスタントの世良嬢のおかげで廃部は免れたから、淳二も嬉しそうだった。


 その後、三年生になった俺たちはそれぞれの未来に向けて本気で動き出した。


 そういえば、いつの間にか淳二と桐谷がずいぶん親しくなっていた。仲良く同じ大学を目指しているらしく、桐谷の喜怒哀楽もずいぶん戻ったそうだ。今じゃ一緒に日帰りキャンプへ行く中だ。


 誠と馨は、垂仁の文化祭で出した例のプラモデルが芸能人に紹介されたため、男の秘密基地心を刺激するプラモデル店スガイと一緒に忙しくなっているようだ。それと、モナカのことも教えたんだけど、モナカにそっくりなコーギーが家に転がり込んで来たらしい。


 忍君はヒメの影絵のファンになってくれたようで、俺が形見分けとしてもらった影絵を数枚譲っておいた。今では通っている高校で影絵の布教と同好会の仲間を集めているそうだ。


 それと、俺個人では影絵で大きな変化があった。ヒメと共同制作の末に完成させたガラスのサンドリヨンが、とある芸術家に見出されて一際有名になった。その効果で、宙ぶらりんになっていた俺の進路が決まった。


『ユー自身の才能のため、水晶症候群への関心と理解を深めるためにも、ミーのアトリエに来ない? 歓迎するわよぉ?』


 ユニークかつ面白い人として親しまれている芸術家が学校にまで来て、俺のことをスカウトしてくれた。アルバイトしながら芸術活動、手遅れな美術大学受験、進路未定の大学受験と就職……これらの選択肢を飛び越えて、俺の就職先は決まった。


 それからは怒濤の毎日が始まった。ガラスのサンドリヨンが世間から評価されたことで、影絵制作の依頼が届くようになり、そのプレッシャーや締め切りとかに追われて毎日はあっという間に過ぎていった。


 特に、水晶症候群をモチーフとして新たに作った影絵は評判が良くて、橘製薬からステンドグラスとして制作の依頼が来たほどだった。飾る先はもちろん橘記念病院だったから、俺は即座に依頼を受けて、アトリエの援助を受けながら作り上げた。今は立ち並ぶステンドグラスの一つに使われている。


 そのステンドグラスの評判も重なり、影絵制作者として名乗れるようにもなり、仕事も生活も安定し、後は……どうするべきかと考えていた時、人生で初めて自分の身体にメスを入れることになった。


 ガラスの駅になど行かなくても、俺たち人間には約束された終わりがある。遅いか早いか、苦痛の末か静謐の先か、それぞれの違いはあっても死というものに変わりはない。


 そんな死が近付いていることを、俺は老いていく自分の身体で実感した。影絵ばかりに熱中して、自分の身体を顧みることを忘れたまま迎えた手術は医者からの有り難いお説教と共に痛みを伴った。この身体はもう若くないのだから、そう諭されたまま退院を間近に控えた時、命の行方を決めさせる決定的なことが起きた。


 水晶症候群の兆しが出た。


 その進行はヒメよりも遥かに早くて、以前殴られた片目が真っ先に水晶と化した。視界の片方と体力を奪われる生活は三十過ぎには辛く、俺は全てを片付けてから橘記念病院に入院した。


 この発症は好機……とは大声にしないが、こうなったら目指す道は一つだけだ。


「今日の新聞をください」


 高校生の頃は新聞なんて読もうとしなかったが、こうして二十と三十を過ぎれば人は自然と新聞とかにも目をやるようになるもんだなと実感する。


 無料でもらえる新聞を片手に、かつて文化祭で賑わっていた広大なエントランスを通って自室の667号室へ戻る。あの時は恵君のことがあって、病院内のほとんどに目を通してはいなかったから流していたが、こうして入院してみるとわかる。ここで繰り広げられている光景は、病院とは思えないものばかりだ。


「そうだ。看護師さんや、売店で売ってるおせんべいを部屋に届けてくれないかね?」


「いつものおせんべいでよろしいですか?」


「あれが美味しいんだよねぇ」


 乗り込んだエレベーターの中で、看護師さんと楽しげに話すおじいさん。


「そういえば、この間借りた漫画面白かったなぁ。続きは?」


「まだ発売されてねぇし。気になるなら橋本に訊いてみろよ。続きを考察してっから」


 六から始まる個室が並ぶ六階の廊下に出ると、漫画を片手に楽しそうな学生や、


「桐谷さん、今日は何をなさるんですか?」


「今日は屋上で絵を描こうかと思ってます」


「二日も休んだからレベル差があるんだよ。すぐ追い付いてやるさ」


「今日の夕飯は何を食べようかな」


「探していた書籍が届きましたよ」


「やったぁ! 千絵さん、ありがとう!」


 看護師さんや患者同士で楽しげな会話が繰り広げられ、通り抜けた大部屋の647号室に至っては、天井にまで届く巨大なテレビを使ってゲーム大会を開催している患者の姿もあった。


 他にも珈琲片手に立ち話をしている穏やかそうな年寄り、看護師さんと一緒に遊んでいる小さな子、病室で楽しげにボードゲームを繰り広げている若者たち……橘製薬は検査と引き換えに、患者が望む全てを提供してくれる。


 初めて見た人は、ここを病院だと信じないだろうし、誰も死を恐れていないんだと実感するだろう。身体中に管を入れられて、薬漬けにされて、知恵の実すら捨てて、百歳を超えてもただ生きているだけの人たちに、御穏やかな死の喜びはわからないだろう。むりやり生かす薬は作るのに、安らかに死ねる薬は作らないんだから、生きる地獄は続くばかりだ。


 己の死すらも楽しみに変わる楽園の中を進み、もうすっかり自分の部屋になった667号室の引き戸を開けた。すると、


「こんにちは、榊原君、元気にしてるかい?」


 そう言いながらソファーから立ち上がった白衣の男がいた。温厚そうな顔立ちに加えて優しげな声に俺は、


「もしかして……葛城先生ですか?」


「良かった、覚えていてくれたみたいだ。あの時以来だから……二十年ぶりかな」


「二十年……言葉にするとあっさりですけど、実際は相当な時間ですよね」


「そうだねぇ……それにしても、君も水晶症候群になるとは思わなんだ……」


「いえ、自分としては願ったり叶ったりというやつです。こうして死ぬまでの余生を快適にさせてもらってますから、死ぬ恐怖もありませんよ」


「そうか。姫ちゃんも……ここに来てくれれば苦労しなかったんだけど……」


「? それはどういう意味ですか?」


「ガラスの駅だよ……橘製薬はその存在を把握してる」


「えっ?」


「あの時……ずいぶんと駆け回って調査していたようだけど、僕らはその存在を知っていたんだよ。あそこで過去に何が起きていたのか、今は誰がいるのか、水晶症候群の始まりの場所だということも」


「えっ……それはつまり……」


「あの場所は……姫ちゃんのように自分の意思で死を選んだ患者さんたちを送る場所として……橘製薬が使っている場所なんだよ」


 その言葉に目の前が灰色になった。


「水晶症候群になり、この橘記念病院に入院している患者さんたちだけに教えていることなんだよ。迫り来る死が怖いなら、自分の意思で、タイミングで選べる死を、あの駅で提供しているわけだ」


「じゃあ……ヒメがここに入院したら、俺とかが調査なんかしなくても……」


「そう。姫ちゃんは階瞬の病院から出なかったから、教えられなかったんだよ。もちろん……患者さんの精神状態とか境遇とかが色々とあるから、今みたいにすぐ教えるわけにはいかないんだけどね」


「恋ケ窪さんが稀人を追い払っていたのは……」


「水晶症候群の患者だけ……というルールがあるからだよ。それと、死ぬことを橘製薬から特別に許可された人だけかな。その人にはガラスの切符が渡される。とはいえ、これらはこっちの交渉で得た勝手なルールなんだけどね」


「ガラスの切符……橘製薬からもらえるんですか?」


「条件次第ではもらえるよ。死んだ水晶症候群患者の欠片で作り上げた死の切符……」


 葛城さんはそう言って、白衣の胸ポケットからガラスの切符を取り出した。その透き通った切符を見、俺は思わず飛びつきそうになるのを必死に堪えた。


「葛城さん……その切符……」


「欲しいかな?」


「……欲しいです」


「君は水晶症候群だから無くても乗せてはもらえるけど……形としてほしいかな」


 差し出されたガラスの切符。俺はそれを奪うような勢いで掴むと、あの時のヒメみたいに全方向からそれを眺めた。そして、このガラスの切符の材料か原料かの正体を知って、


「やっぱり……綺麗ですね」


 水晶症候群患者たちの命の輝き……そんな気がして、俺はそれをしばらくずっと眺めていた。もしかしたら、恵君もこの中にいるのかもしれない。初めて灰原姫子に会いに行った時に自殺した某も……この中にいるんだろうか。


「決めるのは君だ。もし行くのなら……色々と手続きが必要になるからね。それじゃあ……またいつか会えるなら、また会おう」


 葛城さんは病室から出て行った。


 俺はその背中を見送ることなく、ただただ、水晶症候群患者たちの命を眺めていた。



    



 全ての手続きが終わり、俺は全てに別れを告げてここに来た。


 全ての始まりで終わりの場所、命の決断に優しい答えをくれる唯一の場所に。


 そこはガラスの駅。


 もう誰も立たない有人改札、自動じゃない切符売り場、木の柱が立ち並ぶ待ち合いスペース、冬に大活躍するだるまストーブ、封鎖された食堂、それらを横目にし、俺はあの頃と何も変わらない事務室兼住居スペースにズケズケと入り込んだ。


 一段高い位置にある畳、人を駄目にする炬燵、小さなだるまストーブ、エアコン、本棚やタンス、ここは今も生活感が溢れているけど、相変わらず人影は無い。


 口では歓迎されないだろうけど、待ち合いスペースで佇んでいるのも嫌だったから、躊躇うことなく炬燵に入り込んだ。机上の籠に積まれたミカンが今回も嬉しい。そんな炬燵の周りには駄目にされた人間の証がまた散らばっている。灰皿に潰された煙草の臭いが気になるけど、居心地は良いから、ゴロリ、と炬燵に身を委ねてミカンを食べる。すると、


「おい、おっさん、人の家で何してやがる」


 ドアの開閉音と一緒に粗暴さを惜しげもなく主張する声音が飛んで来た。普通なら驚くんだろうけど、何も言わずに身体の向きを変えた。


「どうも。お久しぶりですね、恋ケ窪さん」


「あぁ? 誰だよお前……って、名字で呼ぶんじゃねぇよ! ケッ……あれだけの関わりでよくもまぁそこまで寛げるな」


 恋ケ窪さんは相変わらず黒い詰襟と中のシャツを全開にした出立ちだ。今じゃ外見的には俺の方が年上だ。


「まぁまぁ、俺と健一さんの仲じゃないですか。見ず知らずというわけじゃないんですし」


「ふん。それで、何の用だ」


 恋ケ窪さんは不承不承な感じで炬燵に入ると、同じようにミカンを手に取った。何だか親戚の家に来たみたいな感じだけど、遊びに来たわけじゃないのが本当だ。


「俺もここから旅立つことにしました。今回はちゃんと切符があります」


「そうかよ。まぁ……好きにしろや」


「そうさせてもらいます。それにしても……俺のことを覚えていてくれて嬉しいですよ」


「お前らとは時間の流れが違うんだ。テメェの乳繰り合いまで覚えてるわ。再現してやろうか?」


「はは、それは勘弁してくださいよ。ヒメも赤面しますって」


 この人とのやり取りも砕けた親戚とのやり取りみたいな感じで、兄はいないから楽しく感じる。悪い人じゃないのはわかっているし、安心出来る。


 それから少しの時間は互いに沈黙の時間が続いた。どっちも自分からベラベラとしゃべるタイプじゃないからこの沈黙も苦じゃない。黙ったままミカンとだるまストーブの上にあるやかんの沸騰を聞きながら時間は進み、


「今も電車は走っていますよね?」


 先に口を開いたのは俺だ。


「昔は……帰りもあったんだよ。もう誰も帰りたがらねぇから、いつの間にか廃止になったけどな」


 そう吐き捨てた恋ケ窪さんは畳の上で横たわっていたマッチと煙草を拾い上げると、男らしい仕草で火を点けた。煙草の臭いとか健康被害とかはともかく、煙草の仕草が映える男女は素直に格好良いと思う。


「吸うか? もう堂々と吸えんだろ」


 差し出されたのはパッケージに譽と書かれた煙草だ。確かに吸えるが、体臭も含めて口が臭くなるのは嫌だから、最期なのに断った。


「へっ……煙草の一つも嗜まないなんざ……野暮ってもんだ」


「今じゃ違いますよ」


 タバコを燻らす恋ケ窪さんを一瞥し、今も止まらない壁掛け時計を見上げた。


「あの電車が来る時間って決まってるんですか?」


「気まぐれだな。毎日来るわけでもないし、まったく来ないわけじゃない」


「何だ、暇な仕事ですね」


「うるせぇ」


「はは、一服はしませんけど、電車が来るまで寛いでいてもいいですよね? 外は寒いですし」


「断ってもここにいるつもりだろうが」


 やれやれ、な感じで炬燵から出た恋ケ窪さんは、引き戸で仕切られた簡素な台所から持って来た湯呑みに緑茶を注いでくれた。


「まぁ……その辺で死なれても困るしな」


「ええ、もう帰るつもりもありませんし」


 そう言いながら身体を起こした俺は、湯気立つ緑茶をご馳走になった。山に降り積もる雪たちに歓迎された身体は冷たくて、遠慮せずに暖まってゆきなよ、と言ってくれる状況は涙が出そうになるほど嬉しい。


「腹が減ったな。鍋にでもするか」


「えっ? 恋ケ窪さん……料理出来るんですか?」


「曲がりなりにもここに住んでたんだぞ。出来るに決まってんだろ」


 恋ケ窪さんはまた台所へ向かった。だるまストーブの熱量から食材を守るためなのか、ここの台所は引き戸と一段低い三和土が用意されている。前に来た時にちらりと覗き込んだけど、冷蔵庫とか電子レンジとかは一つも無く、こうして雪に囲まれているからとにかく寒い。食材なんて棚に直置きでも保存出来るほどだ。恋ケ窪さんはそんな棚の中に押し込まれた食器と大鍋を取り出すと、


「おい、御膳立てくらいしろ」


 取り出された食器を受け取ると、その中に鍋より小さい丸い石が出て来た。石も食べるんですか、なんてつまらない冗談を口にすると、


「その金石かないしはストーブの上に置いておけ。後で必要になるからよ」


 その指示に従ってだるまストーブの上に置いておいた。その後はカチャカチャと御膳立てしておいたんだけど、その間の恋ケ窪さんは意外や意外、手慣れた感じで鍋の準備を始めた。


 水と調味料がドバドバと鍋に押し込まれ、そこへ味噌を加えたスープを張り、豪快に両断した野菜に鶏肉、イカや貝類などをガバーっと投入した。まさに荒々しい男の手料理というのはわかるんだけど、これが何鍋なのかはわからない。


「白飯は食うか?」


「ああ、じゃあ……いただきます」


 食事前だったのか、日本食のアイドルである白飯はお櫃に入れられていた。それをポンポンとお茶碗に放り込み、鍋敷きと空の茶碗と一緒に炬燵の机上に並べられた。


「さて、メインディッシュの登場ですよ、お客さん」


 その号令と同時に、鍋敷きの上に味噌の匂いを侍らせた鍋が着地した。


「冷たい鍋ですか……」


「黙って見てろ」と恋ケ窪さんはこっちの困惑をまともに取り合わず、だるまストーブに寄り添っていた丸石をタオルで摘まみ上げると――。


「熱いから覗き込むなよ?!」


 タオルが解かれ――石を受け入れた鍋の水面がジュワッジュワァ〜! と波紋を広げたことで貝類や野菜たちは身を引き締め、匂いと共に白煙が噴火した。


「うわっ……鍋に石を入れるなんて……?!」


「秋田の郷土料理、石焼桶鍋の真似事だ。四百度の石が一気に鍋を彩る俺からの餞別だ。たらふく食いな」


「はい。いただきます」


 割り箸を受け取り、ピカピカの白飯と熱々の石焼桶鍋をいただく。


「……美味しい」


「当たり前だ。時間が経てば経つほど旨味も全体に浸透すんだからな」


 美味しくて……やめられない、止まらない箸に促されるまま白飯も無くなっていく。


「おら、肉ばっかり食うな。野菜もバランスよく食え」


 いつの間にかお母さんみたいになっていた恋ケ窪さん。だけど、次第にその呂律が怪しくなってきた。一瞥すると、アルコールの所為で赤くなっていた。こっちは今でもアルコールを嗜んでいないというのに。


「おい、これも選別だ。煙草はともかく酒の味も知らねぇままじゃ、あっちで恥かくぞ」


 紅萌べにもえという名を持つ一升瓶が机上に乗せられ、お猪口が手前に来た。


「こちらもいただきます」


「ほれぇ!」と、お猪口に紅萌が注がれ、人生で初めて酒を体内に招いた。その結果は……。


「う〜ん……もう一杯!」


「そうこなくちゃなぁ!」


 二杯目を注げたことに気分を良くしたのか、恋ケ窪さんは京都大学のとある寮歌をご機嫌で披露した。何の偶然か、とある探偵が出て来る映画を介してその寮歌を知っていたから、一緒になって歌い上げた。


「うぉい、どうせ電車が来るまで暇なんだろ? 今日までのことを語れぇ」


「うわっ……今度は絡み上戸ですか?」


「夕飯をご馳走してやってんだぁ……接待しろやぁ」


「これだから酔っぱらいは……」


 でも酔っぱらいは次の日には全部忘れてる。


 三十年ぐらいの人生を語られて恋ケ窪さんは楽しいかどうかわからないが、思い出に浸るのもいいかもしれない。


 この人に、この駅に、そして……彼女以上に愛せる人などいないほど……大切な人に再会出来た数奇な運命を振り返った。



    



「ほら、恋ケ窪さん、汽笛が鳴りましたよ?」


「んぁ〜? 馬鹿野郎がぁ〜汽笛なんざで俺様がぁ……」


 これだから酔っぱらいは……。でもまぁ……その方がいいかな?


 俺はちらりと時計を見上げ、粋な零時の秒針に立ち上がった。手提げのビニール袋から一冊の文庫本とこのガラスの駅を表した影絵を炬燵の上に置いた。


 恋ケ窪さんにとっては余計なプレゼントかもしれないけど、また誰かがここへ来た時に読んでもらえたら、見てもらえたら光栄だ。本のタイトルは、

 

『キミはガラスのサンドリヨン』


 それは友が在学中に応募し、賞を勝ち取った小説だ。中にはヒメの影絵の写真もあり、その美しさは今更だけど注目されている。自分たちのやり取りが小説の題材になるのは少し恥ずかしいけど、あっちに持って行って二人で読むのも楽しいだろう。ビニールを裂いていないもう一冊の本を胸越しに叩いた俺は、


「恋ケ窪健一さん……ありがとうございました」


 心の底から彼に感謝を告げて、起こさないように毛布を掛けてから駅舎を後にした。


 ホームには既にデハ100型が到着していて、彼がいなくても問題なく運行していることを告げている――というより、恋ケ窪さんの仕事は迷い込んだ稀人を追い返すことなんだろう。必要な人だよ。生きたい人が死ぬことなんてないんだからさ。


 俺はドアに近付き、ガラスの切符を運転席に向けた。すると、ドアはガタガタとひとりでに開き、俺を招き入れてくれた。そして……俺を待っていてくれた人がそこにいた。


「すっかりおじさんになっちゃったね。後追いみたいなのは駄目だって言ったと思うけどなぁ?」


 灰原姫子は座席に座っていた。その華奢な身体に水晶の姿は無く、あの時のまま、それ以外の何一つ変わっていない。サプライズは嫌いだけど、このサプライズは嬉しい。


「これは後追いみたいなのじゃないよ。あれから……生きていたけど、考えは変わらなかったし、こうして王子様も水晶症候群になったことだしさ。それに……」


 俺は胸ポケットに入れていたガラスの靴――ヒメの水引の髪飾りを取り出した。


「この水引の髪飾りが似合う人を捜しているんです」


「っ……それは……」


 俺は彼女の髪に優しく触れて、水引の髪飾りで灰原姫子を取り戻した。


「この髪飾りが似合うのは……君だけだよ……姫子……」


「持っていてくれたんだ……」


「ヒメからもらったものは……全部が宝物だよ。生きていてくれた証……これもあるんだ」


 俺は『キミはガラスのサンドリヨン』をポケットから取り出した。


「私とカー君のストーリー? 恥ずかしいなぁ……」


「はは、この恥ずかしい軌跡を今から一緒に読もうよ」


 俺たちにはもう時間の概念も縛るものも存在しない。


「そうだけど……カー君、本当に悔いはないんだ、ね?」


「ないよ。今度こそ一緒に行こう」


 そう言った直後、汽笛が鳴ってドアは閉まった。


「これでもう……現世には帰れないよ」


「わかってる。あの影絵みたいに、一緒に水晶化しよう」


 本を横に置いた俺は、動き出したデハ100型の揺れに身を任せ、あの時と同じようにヒメの手を握り締めた。それに応えてくれたヒメの手は俺を抱きとめて、絡み合い、見つめ合った。


 永遠に眠るその時が来るまで……。




                                       

                      了

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キミはガラスのサンドリヨン かごめ @reizensan

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