第13話 キミはガラスのサンドリヨン
落窪に着いた頃には、もうすっかり雪景色になっていた。
誠と馨が待っている菅井さんに別れと感謝を告げて、俺とヒメは帰路に着いたその背中を見送った。
「もう二十時過ぎか……クリスマスの渋滞を甘く見てたなぁ……」
「いいんじゃない……? どうせ誰かを待たせるわけじゃないし……雪山で一緒に心中でも……私はいいよ?」
「せっかくガラスの駅を見つけたんだから……それじゃあここまで来た意味がないよ」
冬休みを迎えた落窪に光りはほとんどなく、俺は積もり始めた足下を無視して駆け出した。必要なのは、自転車置き場にある共有の自転車だ。その一つを引っぱり出し、朝から突っ込んでいた鍵をポケットから取り出し、その車輪を解放した。
「この自転車で波邇夜山まで行くよ」
「えっ……二ケツ?」
「俺が50cc超えるバイクを持っていて、免許取得から一年以上だったら良かったけど……そのどっちもないならこれしかないんだよ」
「……道路交通法違反だし、そもそもカー君が転倒したら私、終わるんだけど……」
「はい、ヘルメット。一気に山へ行こう」
「カー君を信じてないわけじゃないけど、それ以前の問題としてお巡りさんにピッピーってされたら終わりな気がするけどなぁ……」
「それを振り切る覚悟だよ。自殺したいヒメの背中を押して……お父さんからも病院からも連れ出している時点で今更さ」
「うん……その覚悟を信じるよ」
俺は自転車に跨がり、ヒメに二人乗りの形をレクチャーしてから落窪を後にした。
「ねぇ……自転車は……?」
「落窪には悪いけど……ここに置いていく。もし……何かあったら俺が責任持って返すから」
目印にしていた切り株の横に自転車を置き、胸ポケットに入れていた懐中電灯で波邇夜山を照らした。相変わらず誰かが入山した気配はない。
「行くよ? さすがに抱っこしながらは無理だから……ゆっくりね」
「……うん」
伸ばされた華奢な左手を握り締める。件の水晶クラスターは、いつの間にか手甲から肘にまで広がっていて、左腕の寿命も長くないだろう。
「もし……握り締めている時に水晶化したら……ごめんね?」
さっきの桐谷との出来事を言ってるんだろう。
「それで右手が使えなくなってもいいさ。その時はその時だし……サンドリヨンは王子様と一緒に水晶化して幸せそうだった……今がそうだよ」
そう言って俺はヒメの手を握り締めたまま波邇夜山へ足を踏み入れた。
案の定、道標となる線路は雪に埋もれて見えなくなっており、目印として虹色に塗りたくった鉄パイプの墓標を頼りに波邇夜山を踏み締めて行く。
葉を振り捨てた裸体を晒す木々、雪で着飾る針葉樹、最初から見えない線路の轍、振り返った俺たちの足跡すらも曖昧になりつつある中で、線路脇で隊長のように聳える裸の巨木の手前で立ち止まった。まずは第一チェックポイントだ。
「ここで休憩しよう。とりあえずこれを」
俺は自分の口元を覆っていたマフラーをヒメの頭に巻いた。既にヒメは肩で息をしており、今にも倒れそうだ。
「私……これから死ぬんだよ? カー君が風邪引いちゃうよ……?」
「だからだよ。これから死ぬ人が鼻水垂らしてたんじゃ格好がつかないし、死に化粧だってしてないんだからさ。足の方は大丈夫? 無理して砕けたら一大事だから」
「うん……ありがとう。足も……大丈夫だよ」
その後も、ヒメの体力に合わせた雪中行軍が行われた。
道中で倒れられたらここに来た意味がない。別の大きな木の下で休憩、寄り添う雪を払い、力尽きて倒れている木を跨ぎ、雪の下に隠れていた大岩を回避し、野生動物っぽい鳴き声をBGMにしながら、ようやく二つ目のチェックポイントである雷の木に辿り着いた。
「まだ生きてるんだから……お前さんは見上げた根性の持ち主だよ」
雷を受けた木を物珍しげに凝視しているヒメの休憩の後、また歩き出す。代わり映えしない光景を侍らせて、足下にクレバスを刻む雪中行軍は続き、視界が文句を言い始めた頃になって――ガラスの駅を告げる三つ又外灯の明かりが見えた。
「見えた……あれがガラスの駅だよ。外灯が点いてるから……電車が来るはず」
三つ又の外灯が煌々と輝き、まるで歓迎してくれているみたいだ。
「あそこの駅員さんは粗暴な感じだけど、ヒメを見たら……きっと乗せてくれるはずだからさ」
「今は行きっぱなしなんだよね……? まぁ……自殺するのに帰りたがるなんておかしいとは……思うけど……」
俺はカチコチに凍りついたガラスの駅に帰って来た。
滑りやすいスロープを避けて、凍りついた線路からホームに上がった。
「本当に……凍りついてるんだ」
「あの時は……気付いたら氷の世界にいた。ここはずっと氷の世界みたいだ……」
大昔の死体置き場、行方不明事件、調査していた人たちの奇病、もしかするとここが水晶症候群の発祥なんだろうか。
駅名表を横目にして、雪と氷柱と氷に覆われた木造駅舎に入った。
「恋ケ窪さーん!」
呼んでみたけど返事はない。あの人は人間じゃないんだろうから、そのうち出て来るだろう。それとも、あの時みたいに汽笛がなったら姿を見せるんだろうか。
「図々しいとは思うけど、お邪魔しよう」
俺はヒメをエスコートして炬燵に招いた。
「ここはもう……現実じゃないのかな……?」
「だと思う。前回の経験がその証拠だよ」
「そっか……ようやく……逝けるんだ」
もう苦しむ必要はない。そのことにヒメは「うれしいよ」と静かな笑みを浮かべた。その笑みは清々しくて、全ての苦痛を振り切ったような感じがして羨ましかった。本当は、みんな死ぬ時はこんな表情をしたいんじゃないだろうか。みんなから別れを惜しんでもらい、自分の好きな時に幸せな表情のまま逝ける……どうして今の世の中はそれを許可してくれないんだろう。
そんなことを考えつつ、俺はヒメとの最期のほっこりとした時間を過ごす。炬燵もだるまストーブも気持ち良くて、疲労と達成感の末にもたらされた眠気を促してくる。うつらうつらを迎えて現実と夢が曖昧になりかけた時、
「そういえば……遠藤君とは喧嘩した?」
「急にどうしたよ」
「私との関係を高瀬舟に例えて色々言われていたんでしょう?」
「まぁ……その話は桐谷さんからも言われたよ」
「そうなんだね……あのさ……死のうとしている私の背中を押すカー君は……罪人なんかじゃないから……ね?」
「…………」
「遠藤君が……ってわけじゃないけど、騒ぎ立てるのは口ばかりで何もしない……無責任な人たちだからね……? カー君は違うよ? 私の最期を見送っても……気に病まないでね? 私の幸せと、自分から死に行く人を蔑む世間の幸せ……違うんだから」
「うん……わかってるよ」
「よかった……。ねぇ、最期……だからさ……我侭で振り回していい?」
「どんな我侭?」
ジュースを買って来い、とか宙返りしろ、とかは無理だと告げると、ヒメはゆっくりと立ち上がり、俺の手前に座った。
「最期に……二人の思い出……作ろ?」
「思い出……最期は俺でいいんだ」
「ここまで来たのに……女子に言わせる……? 嫌だったら……あれ以上頼まない」
「そっか。初めてだから……どうなるかなぁ」
「ふふ……こっちもお互いルーキーだねぇ……?」
俺はそっと……ヒメと唇を重ねた。
その行為が愛なのか、恋なのか、それとも死に際の熱に浮かされただけなのかはわからないけど、俺はヒメをギュッと抱きしめた。男だからそれ以上を望む気持ちもあった。だけど、それ以上は俺たちの間に必要ない。
「んっ……」
互いの嬌声と先を望むかのような唇の慰め合いは、甘い蜜を垂らして互いの温もりを交わらせようとする。だけど、俺とヒメは互いに唇を離すと、何も言わず、ただ、お互いの吐息とだるまストーブの呼吸で駅舎内を埋めていた。
「その時が来るまで……こうしていてね?」
「うん」
「もし……もう少し早く、一年生の時に出会っていたら……どうしていたかな」
「こうはならなかった……と、思うよ」
「……そうかな?」
「きっと……そうだと思う。全部が違っていて……ガラスの駅も見つけられなかったと思うし、こうしてヒメを抱きしめることも出来なかっただろうから、たらればはいらない」
「そっか……うん、そうだよね……今が……一番幸せだから」
そうして二人きり、時間が止まっているかのような感覚が永遠に続くように思えた頃、ホームの方から車輪のような音が聞こえて来た。
「乳母車の老婆……」
まだ何も判明していない都市伝説が残っている。俺はヒメをその場に待機させて、静かにホームを覗き込んだ。すると、汚いぼろぼろの乳母車を押しながらスロープを軽々と突破する老婆の姿が見えた。
「こっちに来る? どうしようか……」
隠れるべきなのか、咄嗟の判断に迷いが滲んだ時、
「今更だし……会ってみようよ」
そう言うけれど、あれが死神なら恐怖に末に魂を奪われる。ここまで来てヒメの結末がそれじゃ最悪だ。どうしたら……優柔不断のまま老婆の接近を許してしまったその時、
「おぉい! ババァ! いい加減な予定を残してくんじゃねぇよ!!」
来たぜ、ガラスの駅の救世主!
どこにいたのか、恋ケ窪さんがホームに出て来て老婆の足を止めた。
「あの人が恋ケ窪さん?」
いつの間にか横に来ていたヒメは、止める間もないままホームへ通じるガラス戸を開けてしまった。その直後、恋ケ窪さんと俯いていた汚い着物姿の老婆はこっちを見た。
「あっ! おめぇら……いつの間に!」
「んん〜? おやまぁ、生きた人間どすか〜?」
恋ケ窪さんはともかく、老婆の方は「ダハハハハハハ」とおばちゃんを貫いた笑い声っぽいものを披露した。
「やぁやぁ、生きた人間が、しかもこんな若い男女がこんな場所に来はるなんて……久しぶりやなぁ? 何してはるん?」
大阪弁なのか、京都弁なのかはたまた中国地方の方言なのか、よくわからない言葉遣いでヒョコヒョコと近付いて来た老婆。俯いていた所為でよく見えなかったけど、今浮かべている表情はとにかく人懐っこそうなおばあちゃんだ。
「えっと……電車に乗せてもらおうと……思いまして」
「アラ〜その若さでもう人生に幕引きでっか〜? まぁ〜水晶症候群じゃどうしようもないんよね〜」
「……おばあちゃん、水晶症候群……知っているの?」
「そりゃあ〜ワテかてあの世の端くれなんよ〜?」
水晶症候群の正体を教えてほしいと俺も駆け寄ったが、それと同時に、
「おい! こっちの女はともかく、この坊主はまだ死に片足を突っ込んでねぇんだ! 余計なことを教えるんじゃねぇよ、ババァ!」
「ババァ!? ケンちゃん不良や〜ますます不良になってくなぁ〜」
「不良じゃねぇよ! こちとら生前時代から喧嘩を売りに行ったことはねぇんだよ!」
言い争う仲良しさんに俺は肩をすくめた。すると、乳母車をちらりと見たヒメが言った。
「おばあちゃん、あの乳母車……何を乗せてるの……?」
「ん? ああ〜あれはな〜見せてあげよか〜」
またヒョコヒョコと愛嬌のある感じで動き出した老婆は、乳母車を持ってこっちに来た。今にも惨たらしく集められた人間の魂が溢れ出す――そう思ったのだが、出て来たのは……。
ワン!
元気な鳴き声を発した犬だ。しかも次から次へと乳母車の中から顔を出している。その中には兎とか蛇とか鹿とかまでいた。どういうことだろう。
「ワテはな〜成仏出来ずに彷徨う動物たちの魂を集めて電車に乗せとるんよ〜?」
「動物の魂……を?」
「あんさん動物を飼うたことある〜? 事故か寿命か病気とかで亡くなってしもうて……飼い主はんが悲しみの鎖で引き止めるから、死んだ場所から動かれへんのや〜。それだのに飼い主はんの方は動けるからあっちこっち行って最終的には引っ越したり家を壊したりするやろ〜? それされると動物たちは永遠にそこに留まらされて怨霊みたいになってまうんよ? ワテはそれが可哀相やから善意で回収しとるんよ〜」
「それが……まさか現世の人に見られて?」
「そうだろうね……噂……全然違うんじゃん……」
「噂を鵜呑みにしたらアカンで〜? 歌でもあるやろ〜って……せや、急がな」
老婆はそう言うと踵を返して乳母車と一緒にホームへ戻った。
「うるせぇババァだ……。それで、水晶症候群のお前は電車に乗りたいのか?」
そう問われ、ヒメは大きく頷いた。すると、恋ケ窪さんはめんどくさそうに頭を掻くと、駅舎内に向けて顎を振った。付いて来い、という意味なんだろう。俺はヒメを支えながら背中に従った。
「あの……恋ケ窪さんは何者なんですか……?」
「何者って……元人間の何かだよ。上には行けねぇけど……下に落ちることもないだろうよ。お前らみたいな死にたがりが稀に来るから追い返さねぇといけねぇし……この駅だって放っておくわけにはいかねぇだろうが」
ぶっきらぼうで粗暴な感じは間違いないけど、心根は優しい人なんだろう。そのことに対してヒメは、
「……優しいんですね」
そう言った。すると、
「バカヤロー、何を……くだらねぇこと言ってんだ。さっさとこっち来いよ」
優しい言葉をかけられ慣れていないのか、恋ケ窪さんはあからさまな動揺を見せた。不良少年が善行をして感謝された時に近いか? そんなことを考えた次には、恋ケ窪さんは駅舎内に消えた。
それを慌てて追いかけると、自動じゃない切符売り場の窓を開けた恋ケ窪さんは、ヒメに手招きした。
「ほらよ。これが切符だ……これがないと乗れねぇからよ」
ヒメに差し出されたのは、一枚の切符――ガラスで出来た薄い切符だ。
「これが……切符? 綺麗……」
ガラスの切符を受け取ったヒメは、それをスマートフォンで撮影するかのようにあちこちの角度から眺める。どこから見ても透き通っているから、ヒメの豊かな百面相が白日だ。
「恋ケ窪さん、このガラスの駅は一体何なんですか?」
「……死体置き場の上に駅なんて建てるからこうなるんだ。だから全部がおかしくなる。水晶のおかげで村が潤う……その目先の利益に分別なく飛びついたからこうなったんだ。今じゃ現実の波邇夜は衰退してるんだってな?」
「もう採掘されていませんからね」
「お前も覚えときな。目先の利益だけに飛びつくと一生の後悔が待つ。よく考えて動くんだな」
「それじゃあ……水晶症候群は……」
その時、汽笛が聞こえて来た。
「……俺が知るか。お前ら現代人が死を拒むから……向こうから出向いてくれてるんじゃねぇか? ここの門が開いて、よ」
そう言った恋ケ窪さんは、また旗を持ってホームへ出て行った。
「水晶症候群はここが発症なのかな……変な事件も起きてたし……棄てられた死体の怨みは積み重なって……」
「それ以上はいいよ……カー君」
「えっ?」
「細かいことは……どうでもいいよ。ここは電車に乗せてくれる人を選んでいるみたいだけど、きっと日本中にこんな感じの場所は……知られていないだけでたくさんあるんだと思う。ある意味で……自殺の名所もここと同じだよ。痛いか痛くないかの違いだし……私みたいに人生に価値を見出せない人、人生という苦から退場したい人、もう二度と生まれたくない人……そういう人たちにとってこの駅は救いの場所だもん。解明されても困るし……さ」
「そっか……わかった」
「それじゃあ……最期のエスコート……お願いしてもいい?」
頷いた俺はヒメの右手を握ってホームに出た。その時にはもうデハ100型が到着していて、
「ほらほら! 慌てたらアカンよ〜? 自分の飼い主はんのこと覚えとるか〜?」
乳母車に入れられていた犬や猫たちが我先にとホームに飛び出し、千切れそうなほどしっぽを振り、甘えているような鳴き声や身体を弾ませながら車両に近付いた。
「あっ……カー君、見て?」
指差すヒメを辿って車両を見た。すると、その中にはたくさんの乗客の姿があった。しかもありがちな人影というわけじゃなく、どんな人なのか顔立ちも服装も鮮明に見える。誰もがホームの動物たちのように、押すな押すなの状態だ。
そして、車両のドアが開くと同時に――。
「ハナちゃん……!」
「寅吉……! ごめん……ごめんよ……地震が起きるなんて思わなかったんだよ……」
「先に逝ってごめんね……ごめんね……」
「ありがとう……ありがとうございます……!」
「津波に呑み込まれて……もう会えないと思ったけど……ありがとう……ありがとう……」
ホームは瞬く間に人と動物で溢れ、あちこちで人と動物の再会が繰り広げられた。その光景に困惑する俺に対し、ヒョコヒョコと隣へ来た老婆は言う。
「災害や事故で亡くなる動物たちもおるやろ〜? 成仏も出来んし、現世に引き止められるなんて悲し過ぎるやろ? ワテはこの瞬間が好きでな〜何回見ても泣かされるどす〜」
そう言う老婆ももらい泣きだ。確かに、飼い主と再会出来て幸せそうな動物たちの姿は俺の心と涙腺を壊す――いや、これは壊されていいと思う。だけど、その再会の中には飼い主を探すような素振りをせずに車両の中へ消えていく動物もいた。
「ああいうのは飼い主はんがまだ生きているか……可哀相やけど虐待で殺されてしまった動物たちが多いんよ。そういう動物の魂もワテが回収しとるんやけど……増え続けとるなぁ……」
「嫌な話ですね……」
「せやなぁ〜……でも、報いはあるんよ。自分のしたことから逃げられると思うとるんやったら……大間違いやからな〜」
老婆はそう言うと乳母車の中を覗き込み、動物たちがいないことを確認した。
「あの……犬の名前ってわかりますか?」
「ん〜? ああ、犬本人が覚えているならわかるで〜?」
「えっと……コーギーのモナカって回収しましたか?」
「モナカ……モナカ〜……いや、その名前のコーギーは回収したことないなぁ〜」
「じゃあ……そのコーギーは上がれたということですか?」
「そういうことやなぁ〜もしくは〜ワテがまだ回収出来ていないかやな〜」
何で〜? と訊かれたので、誠と馨のことを話しておいた。すると、
「なるほどなぁ〜モナカもお二人さんのことを愛してるやろうし〜ワテに任せとき〜」
何を? とは言わず、
「そうですか……わかりました。それともう一つ、この動物たちや飼い主さんたちは……」
「ああ、水晶症候群とは何も関係あらへんのよ。そちらのお嬢さんが乗る車両とも違うから安心してな〜。それにしても〜」
老婆は俺とヒメに向き直って丁寧なお辞儀をした。
「生きてる人間はんと話すなんて久しぶりやから、短い間やけど楽しかったですわ〜。ワテはまた動物たちを回収してきます。おたっしゃで〜」
もう一度お辞儀を披露した老婆は、もう振り返ることなくホームのスロープを下りて行った。それと同時にホームには誰もいなくなり、立っているのは俺とヒメと恋ケ窪さんだけになった。
「お前ら、電車に乗るなら早くしろ。少しくらいなら待ってやるよ」
恋ケ窪さんからそう言われ、俺はヒメを連れて車両のドアへ近付いた。
「あの……恋ケ窪さん、俺は乗せてもらえないんですか?」
「……無銭乗車を許すわけねぇだろ」
「その切符は……水晶症候群にならないともらえないんですか?」
「まぁ……そういうわけだな。ハッキリ言ってやる。お前は乗れねぇよ」
恋ケ窪さんは本当に渡すつもりはないみたいだ。駅舎に戻ろうともしてくれない。
「……駄目、ですか」
「…………」
もう何も口にしてくれない。
「……カー君」
ヒメに呼ばれて、俺は彼女に向き直った。
「ごめん……一緒に逝けないみたいだ」
「仕方ないよ……カー君はどこも悪くないから」
一緒に抵抗してくれるかも、そう思ったけど、ヒメは恋ケ窪さんに抗議してくれることなく、俺の手を握り締めた。
「これで……お別れだね……」
「うん。一緒に……逝きたかったよ」
「でも……私がカー君を連れて行きたいと言ったら……私が悪霊みたいだし、まだ未来がある人を摘んじゃ……いけないよね」
「未来……俺にとっての未来はヒメなのに……」
「私が新一さんに言ったことと……同じだよ。私を忘れて……楽しく生きていけるなら、そっちの方がいいんだよ」
「寂しさは……」
「私は平気だよ……こうして別れる時はつらいけど、みんなとの思い出があるからそれでいいの……」
「……わかった。思えば……草結放送部に頼んだ内容はガラスの駅に連れていって、だもんな」
「うん……カー君がボランティアしてなければ……ここに来れなかっただろうし、私は自由を得られなかったよ」
「最期まで苦しむヒメを見たくなかったし……好きな人の願いなら叶えてあげたかったから、さ。それが死への背中を押すことになっても……」
「ありがとう、背中を押してくれて」
「どういたしまして。この表現が正しいのかわからないけど、あっちに逝っても……元気で……」
「うん。榊原和也君も――私の王子様も……そっちで元気でね。私が言うのもなんだけど……後追いとか勢いで、とかは……駄目だよ?」
「わかってるよ。死にたくても、痛かったり苦しかったりするのは嫌だし……乗せてくれなさそうだしさ」
「あっ……そうだ。王子様に……ガラスの靴を渡さないとね」
ヒメはそう言うと、大切にしていた水引の髪飾りを取って、俺に差し出した。俺はそれに応え、水晶の手を握り締めた。
「じゃあ……逝くね」
「…………」
ちらりと恋ケ窪さんを見、俺は握り返していた水晶の手を――僅かな躊躇いの後に、解きほぐすようにその手を放した。
「元気で」
「カー君も……元気で、ね」
俺とヒメを隔てるドアが閉まり、彼女は紅涙を連れて、フレームのようになった車窓に水晶の手を置いた。やがて動き出したデハ100型は、誰の干渉も受けない時間と共にその光景を瞬く間に過去にしてしまった。
映画みたいに俺はホームを走って追いかけることはせず、水晶を背負って行くデハ100型を見つめていた。そんな俺に対して、
「何だよ、泣いたっていいんだぜ?」
「いえ……ヒメは自分が望んだ結末と未来を得たんですよ? 泣く必要なんて……ないじゃないですか」
「ばぁか、人間は他者の死に唯一涙を流せる生き物なんだろ? 自分のために流す涙はともかく、他者を想って泣いたっていいだろうが」
「……っ」
その直後、俺はホームに頽れた。十七年の人生がストロボみたいに弾けて、心臓からなのか、頭からなのかわからない涙と言葉にならない気持ちが溢れて止まらなかった。でも……その涙は後悔なんかじゃない。
「大丈夫だ……ちゃんと……逝けるからよ」
泣きじゃくる俺にそう告げた恋ケ窪さんは、もう何も言わず隣にいてくれた。
今はさようなら……ガラスのサンドリヨン……。
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