第12話 3

『十二月二十五日、作戦を決行するね』


 そのメールが届いてから、しばらくは落ち着かなかった。


 クリスマスに病院を抜け出して、ガラスの駅に行く。何だか本当にサンドリヨンみたいな展開になったなぁ、と思う。役割的ならカー君は魔法使いさんなんだけど、王子様の役割もあるから一人だけ二役だ。


 どんな風に私をここから連れ出して、終わらせてくれるんだろう。そう思うと自然と笑顔が零れるようになったから、厄介な新一さんに企みを知られないようにするのが大変だった。


 カー君とのメールはいつもベッドの中、外をただ眺めているを装って片手はキーボードに夢中で心は返信に夢中だった。その所為で新一さんからの呼びかけに気付かなかったことが何回かあった。そういう時は水晶症候群をダシにしてごまかしていた。


 そんなことを繰り返しながら、私は病室から見える灰色の空、透き通った紺碧、冷たい雨と降りしきる雪の光景を、アドベントカレンダーに見立ててクリスマスを待った。そう思えば、代わり映えしない鳥籠の中でも少しだけ明るくなれた。だけど、


「姫子、もうすぐクリスマスだけど……ケーキとか食べるか?」


 その明るい気持ちを何度も潰されたし、

「チキンとかはどうだ? 何か食べたいものがあるなら言ってくれよ。買って来るから」


 何度もイライラさせられた。


「お母さんが生きていた時のクリスマスは……」


 どうしてこの人は私に執着するんだろう。血の繋がった子供じゃない、愛したのは私のお母さん、そのお母さんが死んだ時点で他人の子供、水晶症候群になった時点で養育費の心配なんていらないのに、それでもまだ私に関わろうとする。


『新一さんにとって……あんたは忘れ形見なんだよ。生きる意味で希望なんだよ……』


 茜にそう推測された時も、無性に腹が立った。忘れ形見という神輿みたいな状態でもいいから生きていてよ、と言われたような感じだったから、生きていたくない私からすれば呪言みたいなもんだ。


 そういえば、お母さんが離婚した十二歳の時も似たようなことを感じた気がする。シングルマザーになって、朝も夜も働いて私の養育費と自分が生きていくためのお金を集めていた。病弱で病院代も薬代もかかる一人娘はお荷物で、どうして私なんかを産んだんだろう、という目と口を突き付けられたこともあった。この命も人生も望んでいないのに、どうして……私は生きなくちゃいけないんだろう。


 そうだ……だから私は親という存在が嫌いなんだ。親なんて子供の存在が面倒になれば産んだことを後悔する欲望の猿だと知ったから、私は新一さんの干渉に腹が立つんだ。


 もし水晶症候群にならなかったとしても、私はきっとガラスの駅を探しただろう。自分の命の自由を得るために。


 そんなことを思っていた時、


『今日の十六時に決行する。お父さんには一度帰ってもらおう。ヒメは非常階段の側に隠れていてね』


 そのメールを確認した私は、貸してもらったスマートフォンをベッドの隙間に隠す。後で遠藤君が回収してくれることになってるから心配ない。後は新一さんがさっさと誘導に従ってくれれば解決する。


「今日はクリスマス……都会に比べれば静かだけど、浮かれている感じはするんだな」


「…………」


 いつもの一方通行のまま、新一さんはベラベラと莫迦なことを話している。この時間も、やり取りも新一さんにとって何の進展もなければメリットもない。それをあたかも気にしてません、みたいな態度が見えるから余計に腹が立つ。


「姫子、どうだ……? 最期に……一緒にお母さんの墓参りに行かないか?」


「……何で?」


「何でって……」


「お母さん、私ももうすぐそっちに行きますから、花見の席を取っておいてくださいって言いに行くの?」


「いや……そういうわけじゃ……」


「結構です。お母さんも病ダレの娘が来たところで嫌がるだけでしょ。もういいから……死なせてよ」


「……姫子、それだけは――」


 ズイ、とパイプイスから立ち上がった時、新一さんのスマートフォンが鳴った。時間だ。


「知らない携帯番号……はい」


 その電話は鐘早高校二年A組の担任からだ。


「ああ、先生ですか。はい、はい……えっ? 姫子の忘れ物ですか?」


 新一さんは想定通りに私を見た。だから、


「忘れ物か……じゃあ、散歩ついでに取りに行こうかな」


「はい、桐谷さんたちと一緒の写真もあるんですか? はい、わかりました。そうですね……大事な思い出ですし、今から私が取りに行きます。はい、よろしくお願いします」


 新一さんはスマートフォンを押し込みつつ鞄を持った。


「姫子、桐谷さんたちとの写真は欲しいだろう?」


「……うん」


「取りに行ってくるから待っていなさい」


 脱いでいたコートを連れて、新一さんは病室から出て行った。


 その背中を見送った私は、しめしめのまま作戦の総司令官であるカー君に状況をメールした。


『よし……非常階段まで行ける?』


 行けるよ、そう返信した後に、茜にも最期のメールを送っておいた。そうして本当に最後の役割を終えたスマートフォンをまたベッドの下に隠し、最後の役割を持つ車椅子を見た。


「ほら、行くよ……私」


 入院着から私服(水晶クラスターの所為で、その部分は切るか工夫しないと着れない)に着替え、サボタージュに熱心な心臓と体力と左足に舌打ちしつつ、奮い立たせた身体を車椅子に預けた。たったそれだけなのに、数十キロでも走ったのかと思うほどの疲労感がのしかかる。今日は動ける日で良かった……確かにこれは……自分だけじゃ死ぬことも叶わないかもしれない。ありがとう、カー君……。


 辛うじて動かせる左手で車椅子を押し、肺の悲鳴を無視して引き戸を開けた時――その目の前を新一さんが駆け抜けて行った。私は反射的に身を引いたけど、すぐに顔だけを廊下に出した。新一さんは何故か駆け足で非常階段の方へ向かった。


 どうしたんだろう……医者に変装した遠藤君が一緒に行動して見張るはずなのに……。


 戻って指示を乞うことも出来るだろうけど、あれが戻って来ることはないはずだ。私は指示を求めずに廊下へ出ると、スタッフステーションの周りで動いている看護師さんや他の患者さんから逃げるように非常階段へ向かった。計画通りなら、ここで遠藤君が私の病室からスマートフォンを回収してくれるはずだ。


 振り返ることなく、誰とも擦れ違わないまま非常階段に着いた。自力で動けないというのは本当に苛々する……。次の計画はここでカー君が一階から駆け上がって来るのを待つんだけど、柱の陰に隠れているというのは口で言うほど簡単じゃない。


 カー君……早く来てね……見つかっちゃうよ……。


 そう願っているのに、カー君はなかなか来てくれなくて、後ろから遠藤君が来ることもなかった。その事態に苛々が募り始めて、喚かないようにすることに疲れ始めた時、


「ヒメ……」


 足音を静かに響かせながら、カー君が来てくれた。


「もう……遅いよぉ……」


「ごめん……お父さんが階段で下りて来るなんて思わなかったんだ」


「遠藤君は?」


「医者に紛れて動いてたんだけど……年寄りばっかりに絡まれて振り払うのに時間がね……」


 よし行こう、とカー君は私を抱きしめると、お姫様抱っこしたまま階段を駆け下りた。私とカー君の吐息と足音だけが響く非常階段。舞踏会と零時の鐘から逃げるのは一緒だけど、私の場合は王子様が一緒だ。


 そんな王子様は一度も立ち止まることなく、八階から一階の螺旋を神曲のように下って行く。その間、私はずっとカー君の綺麗な顔を見てた。あの頃よりもずっと立派な顔付きになったけど、やっぱりまだ高校生なんだなって思う幼い感じがある。それがプロポーズしてくれた時の面影と重なったから、私はまだ生きている左手を伸ばし――。


「そこで何をしてる……姫子」


 一階の踊り場へ下りたと同時に響いた新一さんの声にカー君は立ち止まり、私の身体はグイ、と放り投げられそうになった。もし放り投げられたら私は粉々になっていた。その憎しみを連れて、私はお姫様抱っこされたまま新一さんを見た。


「榊原君……私が言っていたことを忘れたのか。もう一度……姫子の前に来たら……その時はどうなるか……!」


 新一さんは無駄に鍛えてる筋肉を押し出しながらカー君に近付いたから、


「カー君、ごめん……少し時間をもらうね?」


 抱っこから下ろしてもらい、私はカー君を守るように新一さんと対峙した。


「新一さん……もう忘れ物を取って来てくれたの?」


「……どうしてこんな嘘をついた?」


「……こうでもしないと私の自由がないからに決まってるでしょ?」


「自由? お前はいつだって自由だったじゃないか……」


「自由? 私は小さい頃から病気ばかりで、繰り返すのは入退院と何の足しにもならない検査と治療ばかりだった。それがとりあえず落ち着いても……最後に残ったのは水晶症候群……これが新一さんからしたら自由なんだ?」


 私の苦労を、苦しみを、憎しみを何も知らないからそんなことが言える。


「私はこれから……自由のために死ぬの。この命は私のもの……病気にも水晶症候群にも渡さない。ガラスの駅で……私は永劫になる」


「ガラスの駅……? 永劫……? どういうことだ、姫子!」


「新一さんにはわからなくていい。どのみち、私は水晶化した後に……粉々になって死ぬ。新一さんがどんなに望んでもそれは変わらない。死は避けられないけど、そこへ至るまでの道は私が決めるの。だから……そこを退いて」


「自殺するつもりか……? 子が親よりも先に死ぬつもりか……?」


「だから……私の死は遅いか早いか、自分で死ぬか殺されるかの二択なんだってば……だから私は自分の意思で死にたい……ガラスの駅はその願いを叶えてくれる場所だから」


「そんなの……わかりました、で通すわけないだろ? 子供の死を後押しする親がどこにいる……!」


「ここにいてよ。親より先に死ぬのは親不孝らしいけど、私の死で新一さんは救われるんだから……親不孝じゃないよね」


「……血の繋がっていない父娘でも、先に死ねば親不孝に決まってるだろう……」


 絞り出すような声を連れて、新一さんは私たちに近付いた。


「自分の子が生きているだけで……真っ当な親は幸せなのに……子供の死が親の救いになるなんてありえないだろ……!」


 怒っているのか、悲しんでいるのか、私にはわからない。


「ううん……新一さんの場合は……救いだと思うよ? もう……私のことはいいから……〝お父さん〟は自分のための人生を生きて……。私の存在をお父さんの人生の枷にしないでよ……」


 それは本当の気持ち。やっぱり、この人を解放してあげないといけない。そうしないと、新一さんは永遠に後悔し続けて先に進めない。私はきちんと新一さんを見据え、深々と頭を下げた。


「お父さん……今まで、ありがとうございました。血が繋がってなくても、色々と不器用でも、私のために働いてくれて、私のために泣いてくれて……ありがとう……」


 私はそう言いながら階段を下り、新一さんの胸に左手を置いた。


「灰原姫子は……これから旅立ちます。どうか……その背中を押してください……」


 そう告げると、新一さんはその場に頽れた。その横を抜けた私は両開きの扉に近付いた。すると、新一さんは本当に小さな声でこう言った。


「どうして……みんな……先に逝っちまうんだ……」


「大丈夫……お父さんにはまだ未来があるんだから……」


「お前のいない未来か……」


「そうだね……でも……お父さんの未来に私は必要ないの……」


 私は最後にそう告げて、階段で止まっているカー君を手招きした。それに頷いたカー君は、新一さんの横を抜けて私をもう一度お姫様だっこしてくれた。


「カー君……行こう」


 それに頷いたカー君は両開きの扉を押し開け、裏口とかエントランスとかにも通じる空間を露にした。


 そこは相変わらず存在を忘れられているような場所だけど、今日はここに人が二人いた。


「姫子……」


 白衣とスクラブで変装したままの遠藤君と茜がそこにいた。


「何だ……最期だと思ったからメールしたのに……来てくれてたんだね……」


「姫子……あたし……あたしは……」


 喧嘩しても見たことがなかったほどに、泣きじゃくっている茜。その涙に私はそっと彼女を抱きしめた。


「明日からの人生に……姫子がいないよ……この喪失感はどうしたらいいの……? 悲しいし……寂しい……寂しいよ……」


「……もういいんだよ。私はもう過去の人になる……未来を生きる茜には必要ないの。忘れないで……とは言わないけど、思い出してくれるならうれしいよ。茜の人生に……灰原姫子っていう友達がいたってことを……」


 泣きじゃくる茜の身体を慰めながら、私は遠藤君を見た。


「カー……本当に……どうするつもりなんだ……?」


「ガラスの駅次第……かな。俺でも乗れるなら……そのまま逝くよ」


「……そうか」


 そう言って頷いた遠藤君の目は赤くて、カー君の手を握り締めると、


「戻って……来てもいいんだからな……? 草結放送部は……いつだって新入部員は歓迎だ……」


 そう言って何度も頷いていた。


 もう少し最期の余韻に浸っていてもいいんだろうけど、これ以上は誰かが来るかもしれないし、茜たちにも申し訳ない。だから、


「茜……もう……行くね?」


 そう告げると、茜は私の左手を握り締めた。私の存在を確かめるように、刻み付けるように、何度も何度も握り締めてくれた。だけど、それを拒むかのように、左手甲の一部に水晶クラスターが突き出した。その形状はレーザー型で、極端に突出した一つが危うく茜の手を貫くところだった。だけど、茜はその突出を睨むと――乱暴に掴んで二つに割った。


「えっ……茜?」


「忘れないから……大好き……これからもずっと……」


 私を見据えて小さく微笑んだ茜は、レーザー型水晶の先端で自分自身の左手甲を切った。


「ちょっと……茜……!?」


 慌ててレーザー型水晶を取り上げた私は、血を浴びたそれを床に叩き付けた。


「この傷を見るたびに……思い出せるね……」


「もうっ……びっくりしたよ……嫁入り前なのに何をしてるの……」


「それだけ……姫子はあたしの人生を占めてたの……この痛みを連れて……あたしは生きるから……あたしのことも忘れないで……」


「こんなことしなくても忘れないよ……絶対に……」


 私はハンカチを取り出して、茜の血を拭いながらガーゼの代わりにした。


 医者に診せることを約束させてから、私はカー君の裾を掴んだ。


「カー君……そろそろ行こう? 零時の鐘が鳴るのは嫌だから……」


 左手甲がそれを物語っている。


「ああ、行こう」


 遠藤君の手を放したカー君は、また私をお姫様抱っこして裏口を出た。そこに待っていたのは、誰かが手配してくれた車だ。


「カー君……誰の車?」


「菅井って人の車だよ」


 カー君は躊躇うことなく後部座席のドアを開けて私を座席に下ろした。


「お嬢さんが灰原姫子さん?」


 手入れされた茶色の制帽をスルリと取りながら、運転席から振り返ったのは整えられた白髪と深い皺に覆われたおじいさんだ。綺麗なスーツの着こなしは上品で、見るからに優しそうだ。カー君とは知り合いみたい。


「菅井さん、波邇夜市の鐘早高校の学生寮落窪前までお願いします」


「了解しました、榊原さん」


 菅井さんはそう言うと、カーナビを起動させながら車を発進させた。裏口と路地を舐めたヘッドライトは、立ち尽くす茜と遠藤君を浮かび上がらせた。刹那であっても、私は幼なじみの泣き顔を目に焼き付けた。




 過去になってしまった幼なじみの姿を瞼と記憶の中に閉まった私は、ただ黙って運転を続ける菅井さんと、私を気遣うように寄り添ってくれるカー君と、あっという間に広がった聖夜の帳を見つめていた。


「カー君、この調子だと……真っ暗になっちゃうんじゃない?」


「それでも大丈夫だよ。何度も往復して目印もわかってるし、菅井さんが助けてくれたから深夜にはならないさ。菅井さん、ありがとうございます」


「な〜に、この老いぼれが若者の役に立てるなら生きていた意味もあるもんさ。特に……私の店と孫たちに脚光を浴びせるきっかけを呼んでくれた君にならね。それよりも……大丈夫なのかい? 二人とも……」


「大丈夫です。水晶症候群でも彼女は暴れるようなことはありませんから」


「ああ、いや……勘違いさせてしまったようだ。そうじゃなくて……二人とも悲痛な空気が強い……思い詰めていないかと思ってね」


「そう……見えますか?」


「これでも人生の大先輩だよ? 他者の心象にはそれなりに敏感になるし……水晶症候群のお嬢さんが一緒とくれば予想は出来るさ」


 その言葉にカー君は私を見たから、今度は私が菅井さんを見た。


「えっと……菅井さん、私のこと……何とも思わないんですか?」


「どうして? 君が水晶症候群だからって奇異な目で見るようなことはないよ。可愛らしいお嬢さんじゃないか」


「あっ……ありがとうございます」


「ふふ、それに……もう死んでしまったが、私の妻も水晶症候群だったんだよ」


 その宣言に対して、カー君は大きく反応した。


「えっ?! そうだったんですか?! もしかして……」


「そう。橘記念病院の文化祭に協力した理由はそれだ。もちろん、そうじゃなかったとしても協力はしたと思うけどね」


「じゃあ……今回のことは奥さんへの?」


「……追悼かな」


 そう言った菅井さんは、バックミラーで私を見た。


「水晶症候群の人を見ると……妻を思い出す。殺そうと思った……妻のことをね」


「殺そうと……したんですか?」


 そういう事件が時々起きていたことは知ってる。無差別殺人も一家心中も起きているんだから、菅井さんの未遂も異常なことじゃない。


「ああ……最初の頃はまだ穏やかだったけど、君よりも水晶に覆われ始めた頃には……もうお見舞いに行くたびに喧嘩になっていたよ。水晶化する私を見ていて楽しいのか……嘲笑いに来たのか……帰って……帰らないで……そばにいてよ……そんな調子だったから、私もどうしたらいいのかわからなかったよ」


 奥さんの気持ちは痛いほどわかる。病という鳥籠に囚われた人にとって……健全な身体を持つ家族やお見舞いに来る人の姿は時に心を酷く揺さぶる存在になる。自分勝手だということも八つ当たりだということも自覚はしているけど、頭では自分自身に嫌悪と憎悪を抱くけど、どうすることも出来ないほどに壊れてしまうことがある。


「それで……奥さんは?」


「死んだよ。死を悟ったみたいで……ある時、譫言みたいに何度も謝ってきた時があった。愛してる……ごめんなさい……それを何度も言っていた時に全身が水晶化して……幸せそうな笑顔で最期は粉々になったよ」


「良かった……菅井さんが殺したんじゃなくて……」


「不思議だったなぁ……酷いことを言われて何度も喧嘩して……殺意だって憎しみだって抱いたのに……最後はその笑みと……愛してる、の言葉で救われた気がしたんだなぁ」


 菅井さんはそう言うと、静かに深呼吸を始めた。目は赤いし、ハンドルを握る手も赤い。


「菅井さん……奥さんのことを本当に愛してらっしゃったんですね……」


「そう思ってくれるのはうれしいなぁ……」


「思いますよ……奥さんの……最期の言葉……全てを物語ってますから」


 私は心拍数を上げ始めた胸を押さえたまま、座席に全身を預けた。


「水晶症候群は人に死の現実をまざまざと見せつけるけど……逆にそれが死を意識させて……生きることの大切さと死の覚悟を促しているのかねぇ……? 砂みたいになった妻の遺体を見た時は悲しかったけど……何だかホッとしたし、追いかけるようなことをしようとも思わなかった。あれが優しい死だったから、なのかな……?」


 あっちで元気にしていればいいけどね、と菅井さんは最後に笑った。


 その横では、雪を頭に乗せたサンタクロースのネオン看板が煌煌と輝いていた。

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