ねこと塾とわたし
henopon
第1話
わたしは浪人生だ。
春からキラキラした大学生活が待っていると信じていたのに。
指定校推薦で落ち、国立大公募推薦で落ち、一般試験も私立、国立前中後期でも落ちた。どこからどう見ても「全落ち」だ。優しい言葉なんていらない。パーフェクト全落ちだ。高校に入学してからは、学校の言うこともこなし、予備校の課題もし、三年の夏前に肩までの髪をバッサリと落とし、コンタクトも我慢して、ずっと勉強してきた。これまでの努力は何だったのだ。後期試験の結果発表まで、ずっと寝ていた。こんなことをしていてもどうしようもないと思いつつ、起きることができなかった。燃え尽きたのだ。
「予備校辞める」
全落ちの後、わたしは呟いたらしい。らしいと言うのは、まったく覚えていないから。ただ、
「友子ががんばっていたのは、お父さんもお母さんも見ていた」
「ごめんなさい」
あれだけ部屋に入られるのは嫌だった父が、わたしの椅子に腰を掛けていた。そして話してくれた。枕の縁から父の背広の膝が見えた。
「違うところでやろうか。リセットするのも必要だ」
「うん」
「お父さんも高校のときに世話になった塾へ行くか」
「うん」
そもそもそれがわたしの奇妙な浪人生活のスタートだった。
新しく通う塾は古い。駅前の予備校銀座の裏にある。すすけた板塀が張られ、格子戸を抜けると、玉砂利の小路、そしてカラカラと開く玄関と上がりかまち、奥の闇へ続く廊下が待ち構えている。しかし勉強室は玄関のすぐ脇だ。闇に行かなくてよいかと思って安心した。靴を脱いで、フロアカーペットの敷き詰められた部屋に入ると、半個室が三つある。普通の自習室のようだが、壁際に行灯が置かれていた。正面にホワイトボード、反対の壁にスタンドミラー。勉強用のテーブルは参考書を積み重ねても、やり散らかしても余りある奥行きと広さだ。
まずわたしは真ん中の席に促された。両脇は誰もいない。後ろには先生用のパイプ椅子とスチル机。
「センセ、何をすれば…」
「好きなようにして」
と、言われた。
わたしの目がおかしいのか。父の気がおかしいのか。挨拶のときから同じだから、ひょっとしてわたしの頭と目がおかしいのかも。
落ちたショックかな。
「科目だけでも」
「じゃ、古文の助動詞と漢文の句型覚えて。二時間でね」
「あ、はい…」
「何かあれば起こして」
「はぁ…」
彼は丸くなった。まだ寒さの残る春だから、パイプ椅子に敷いた座布団の上が心地よいらしい。
ふと顔を上げて、
「友子さんは書いて覚える派?見て覚える派?読んで覚える派?」
「書いて覚えてます」
「じゃ、それで。そこのかごの中に空き紙様はあるから」
かご?
神様?
背もたれの後ろの小机の上、藤で編んだかごの中には、チラシやコピーした紙が入れられていた。
「神様や」
あくびをした。背は鮮やかな茶虎の模様、腹のところは薄っすらと白い。
猫やん?
どう見ても猫やん?
わたし、変?
「先生、この度は娘がお世話になります。親の私が言うのも何ですが、頑張り屋なので」
と、上がりかまちの前で頭を下げていた父を思い出した。
「親子二代かぁ」
猫やん?
お父さん、これ猫やん。
顔洗ってるやん?
後ろ足で耳の裏掻いてるし。
「甲本君、久しぶりやね。勤務医はしんどい聞いてるけど、ちゃんと働いてるか?」
「はい。がんばってます。いつも疲れたときはこの塾のこと、ここでがんばったこと思い出します」
「そりゃうれしいけど、はよ塾離れせなあかんで。医者の不養生て言うわな。娘さん、やつれてるやん。家族にはちゃんとしてやらんと」
「落ちてからというもの…」
「ええねん。昔の話はええ。これからやん?やるべきことやろうや」
「お願いします」
(お父さん、これ猫やん)
目で訴えたが、三時間後に迎えに来るということになった。一時間半ほどしてから、
「数学やる?」
と、先生(猫)は伸びをしながら訊いてきた。いや、まだ二時間経ってないし。数ⅠAのテストかなと、共通テストの赤本を取り出してきて、去年の過去問を爪で切り取った。
「六十分やで。三年生で勉強したからいけるやろうけど。目標何割?」
「八割?」
「六割でええかな」
訊いた意味ある?
ないよね。
わたし、八割て言ったよね。
とにかく一時間を数学を解くことに没頭した。現実から逃げたい一心だったのかもしれない。
答え合わせだけでいいとのことだったので、◯✕を付けた。
「八割超えてるやん」あまり興味なさそうに「すごいやん」
先生は背を向けて、
「ところで友子さんは数学は解いて理解する?読んで理解する?」
「解いて理解する方かも」
「そうなんや。数研の4ステップやり込んだん?」
「はい。授業でも家でも」
「ええ教材やもんな」
と、部屋の隅の段ボール箱からゴソゴソと何やら本を持ち出してきた。数学の参考書だった。
「タラッタラッタッタ〜♪ きさらぎひろしさんの『やさしい高校数学ⅠA』ぇ〜」
ドラえもんですよね、それ。
「これはええねん。これから読み込もうか。教科書ネクストでもええんやけど、どっちええやろうか」
いやいや。
解いて理解て言いましたよね?
あれ?
通じてる?
猫に対して何してるの?
「迷うところやなぁ」
聞いてる?
父が迎えに来た。
わたしの浪人生活は不安しかない。
七時過ぎ、帰ると、ぐったりしている自分に気づいた。キッチンに面したダイニングテーブルで夕飯を食べた。カレーライスだった。
「どうだった? 塾は」
「どうだったというか…」
猫やし。
「友子、久しぶりにごはん食べてくれたわね」
「えっ?」
母は少し涙ぐんでいた。ほんのちょっとやそっとでは気持ちが揺らがない母がだ。わたしは動揺した。
「いろいろ忘れてた。古文とか漢文とか」
「そうよね。人は忘れる動物なのよ」
「それでね(人はて)…塾のことだけどね…」
「合わない?」
「合わないというか…」
「そんな問題ではない」と言おうとしたとき、母は「お代わり食べる?」と聞いていたので、ルーだけでと空っぽの皿を渡した。
母はカレーを足しながら、
「お母さんもね、先生にはお世話になったのよ」
衝撃的な言葉を発した。
「えっ!?」
「お母さん、特に勉強熱心でもなくて、ほら、普通の公立高校だったでしょ?それなのにバカ田大学の隣の大学に入れたの。先生のおかげ」
「あ、そうなんだ…」大学受験前から母の学歴、そして両親が高学歴で重圧も感じていたが、今となってはそんなことはどうでもよかった。
「ど、どんな先生…?」
「お父さんから聞いたら、昔とちっとも変わらないって。久しぶりに挨拶に行かなきゃだわ」
「だからどんな先生?」
「う~んとね…」天井に視線を向けて「一言では言えないわね」
友子の前に皿を置いた。
言えるよね?
絶対に一言で言えるよね。
「猫?」
「そうね、犬じゃないわね。例えるなら猫かな」
例えなくても猫そのものやん。
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