三十五 雨空の下、民を思う

 朝、篤実が目を覚まし隣の十兵衛へ声を掛けると唸り声のようなおはようという声が返ってきた。


「…随分疲れているな。眠れなかったのか」

「いや……いや、少し早く目が覚めただけで」

「それは真か?」


 十兵衛の頬へ手を伸ばし、むに、と摘まんでみる。黒い唇が伸びて、白い牙が見えた。


「ぐる…」

「今からでも眠れそうか? いや……寝ろ。思えば其方は遠出から戻ってからも、兄上達と会ったりなんだりと気が休まらなかったのではないか」


 篤実は半分身体を起こし、十兵衛の額から頭を撫でた。先日櫛を通した白い髪にも指を通す。背中や尻尾の被毛ほどではないが、十兵衛の髪は篤実の髪よりもやや固い。

 すると、十兵衛が口を開いた。


「今日はどうするんじゃ、若君」

「もう一度、村長殿の所に行ってくる。帰ってきても其方が起きて居たら……そうだな、何か罰を与えよう」

「ば……罰?」

「そうだ」


 十兵衛の髪をくしゃくしゃと掻き回しながら笑って、篤実は立ち上がった。


「だからしっかり寝てくれ、余の一番槍よ」

「……うぅるる」


 唸る声もどこか可愛らしい忠臣の耳を軽く摘まみ、ふっと笑ってから身支度を調える。

 戸を開ける前に耳を澄ませば、周囲の木々が柔らかく雨に打たれる音がする。庵の壁に吊るされた蓑は大きく、篤実が着ると文字通り蓑虫のようだった。

 がさがさと藁の擦れる音を立てて菅笠と蓑を着て戸を開き、一歩外へ出る。


「出掛けてくる……しっかり寝てくれ、十兵衛」


 篤実が念を押すと、横になっている十兵衛の耳がピルルッと震えた。やはり起きて居たか、と笑いながら呟き静かに戸を閉める。そうして雨の中、篤実は先日に続いて村長の家へと歩き出した。


 細かな雨が村中に降り注ぎ、土も森も独特のにおいを放っていた。砂利道を草鞋で進み、新たな芽が吹き始めた畑を横目に村を横切る。時折見張りらしき者の視線を感じるが、篤実は彼らに棘は感じなかった。何せ、彼らは皆ただの農夫が殆どだ。篤実が時折顔を彼らの方に向けるとビクリとするのが可愛らしいとすら思ってしまう。


 だが、彼らは真剣だ。


「そうだ。西朝の敵軍が向こう岸に見えていた我等とは違う。この村の人々は見えぬ敵を見付けねばと……必死なのだ」


 雨垂れを受けた蕗の葉が揺れ、その下に身を隠しているのだろうか蛙のケロロロと鳴く声が篤実の呟きに応えた。


「…そうか…いつまでも十兵衛の背に隠れていたら…己は」


 ぴょこん、と緑色の小さな蛙が飛び出す。蛙は篤実の見ている前で舌を出し、自分の顔を舐めると再びピョンと飛び跳ねて草叢に消えていった。


 篤実が村長の家を尋ねると、子供が大人の蓑を借りたかのような姿に奥方が手を貸してくれた。


「すまぬ、とても助かる」

「十兵衛の蓑を被ってきたんかいね? 重かったでしょうに」

「いや、甲冑に比べれば」

「んまぁちりめん問屋の坊ちゃんでも鎧を着るんかぁ」


 奥方が目を丸める。余計なことを言ってしまったと内心焦るが、咄嗟に浮かんだ言い訳を口走った。


「ああ、その……鎧の絵を描くから着てくれと、絵師に頼まれっ、て……」


 誤魔化せただろうかと奥方の顔を見ると、「ゆきなり坊ちゃんならサマになるでしょうねぇ」と信じた様子だった。ほっと安堵しているとドス、ドス、と覚えの有る足音がする。


「おはよう、雪千代」

「おはよう」

「おはようございます、兄上、叔父上」


 彰と、彼の足音に隠れるかのように無音で歩いてきた保紹の二人であった。


「儂は皆さんにお茶でも淹れてきますねえ」


 奥方はそう言うと会釈して台所へと向かった。その口調や足取りから、敵意や疑いの念は少なくとも篤実には感じられない。


「村の中に何人か見張りを立てて居りましたので、この家がどんな様子か心配でしたが……奥方は穏やかですね。安心いたしました、兄上」

「見張りを立てたということは街道に賊が出るという話は村長殿も受け入れたのでしょう」

「その上、昨日の内に皆で話し合い動き始めたか。なかなか勇士が多い里だな」

「村の中にも見張りが立っているというのは、やはり……我々は破落戸の仲間と思われているのでしょうか」


 篤実の言葉に二人が肯く。


「確証は無くとも、警戒はするでしょう」

「目に見えて被害を被っているのならもっと慌てるだろうがなぁ。現状では役人にも訴え難いところだ」


 彰が顎の髭を撫でながら、しかしどこか楽しそうに呟いた。


「……兄上、叔父上…実は」

「如何しましたか、雪政」

「…余から村長殿に話したいことがあるのです」


 己の胸を押さえながら、篤実は二人にある決心を打ち明けた。


 保紹と彰が篤実の心中を聞き終えた時、丁度村長が顔を覗かせた。おはようございますと篤実が礼をすると村長も礼を返し、三人は客間へと通された。


 うぉほん、んんっと村長が咳払いする。垂れ耳が揺れて、隈のように黒ずんだ瞼に縁取られた垂れ目がチラチラと三人を見た。


 篤実が他の二人よりも前に出る形で座り村長と対面しているのだ。

 山賊退治の話をしに来たはずなのに、見るからに一番若い篤実が前に出ているのが解せぬのだろう。村長の視線はいよいよ三人を怪しんでいるようだった。


「村長殿、昨日今日と時間を作っていただき、感謝いたします」

「いやいや、こちらこそ申し出てもらったっちゅうのに、昨日はすまんかったのぉ」


 篤実が背筋を伸ばして話を切り出すと、村長はあからさまな態度は取らずに、にこにこと笑みを浮かべた。そこへ奥方が、盆に茶を載せてやってくる。


「失礼しますねえ、はいこれ、どうぞ」

「ああ、儂が出すからお前は休んどってくれ」

「あれま、珍しいこと。それじゃあ任せたわよ」


 コロコロと笑い、尻尾をふりふり奥方は下がる。やはり彼女は男衆の話は知らないのだろう。篤実は彼女の着物を繕ったこともあるからか、覚えが良いらしかった。


 自然と奥方の気配が通り過ぎるまで会話は途切れる。


 再度、篤実から口を開いた。


「村長殿は、五年前の…西朝との戦はご存じですか」

「ほ?」


 突然の話題に村長は垂れた瞼を上げ、同じ様に垂れた頬をぷるっと揺らした。篤実は翡翠色の双眸を細め、柔らかく微笑む。後ろでは彰が腕組みをし、保紹が目を閉じた。


「十兵衛殿が加わった戦です。――己も、あの戦場に居りました」

「……ほう、そうじゃったんか」


 村長は目を瞠り篤実を見た。湯飲みの前で、自分の手をすりすりとさすって何か考えているようだった。


「雪政殿は随分と細腕じゃが…」

「はい、兵の中でも己は小柄でした。十兵衛殿から見たら、きっと童が迷い込んだかと思ったでしょう」

「ははは…この村でも、時々腕に覚えのある者が戦に行って運が良ければ帰ってくる。そういうもんじゃが…そうかぁ……雪政殿も」

「……はい、一歩違えれば、己も帰れなかったでしょう。…その窮地を、いえ命を――十兵衛殿に救われました」


 正座し背筋を伸ばしたまま、篤実は両手を己の腹に当てて穏やかに言った。


「証拠を出せと言われたら、己は…何も、出せないのですが。いや、十兵衛殿に助けられたこの命が証拠です」


 篤実の言葉に、村長はぽかんとした。それからぷるぷるっと首を横に振り嬉しそうに口元を緩め、茶を啜った。


「はぁ、なんと十兵衛が。戦で初陣の大将をお助けしたとは聞いとったが、雪政殿も。はぁ…そうか、そうか…立派なことじゃあ…」

「あれから五年、己は…その事についてきちんとした礼を言えず、その上また…十兵衛殿を頼って押し掛けてしまいました。兄上と叔父上は、そんな己を案じて探しに来てくれたのです。あ、その…ち、血は繋がってないのですが」


 慌てて付け加えた一節が若干不自然になってしまったものの、こそこそと隠れるように爪牙の里へやってきた理由を出来るだけ包み隠さず伝えたいというのが、篤実の決心であった――ちりめん問屋と、隣の太物問屋の話はそのまま押し通さねばならなかったが。

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