三十 若君の身支度

「……十兵衛、櫛はあるか」

「くし?」

「ああ。髪をいたいのだ」

「そうか……おトキの葛籠つづらの中に、道具箱があったと思う」

「ああ、底の方に入っていたあの箱か」


 十兵衛に言われて、篤実はおトキの形見を納めた葛籠の蓋に手をかけた。編まれた竹同士が少し引っ掛かりながら、ずるりと蓋が持ち上がる。中に収められている畳んだ着物を一枚ずつ捲っていくと、鶴の絵が彫り込まれた道具箱が現れた。以前篤実が着物を検めたときも見つけていたが、中身については触れなかった物だった。

 するりと蓋を横に滑らせると、中には目の粗さの違う櫛がいくつかと、手鏡、そして鋏が入っていた。解き櫛を手に、篤実は両手を合わせた。


「お借りいたします、おトキ殿」


 十兵衛は、墓掃除に使った道具を片付けて、炎の揺れる竈の上に鍋を乗せた。鍋の中の水がふつふつと煮え始めると十兵衛は茶を淹れ、残った湯で乾かした米をふやかし粥を拵えた。


 篤実は、髪を高い位置で一つに結うと、続いて桔梗の花が刻まれた紅板を取り出し、手鏡に己の顔を映した。


「さすがに白粉はねえぞ、若君」


 十兵衛が背中を向けたまま発した言葉に、篤実は笑って頷いた。


「おトキ殿は、白粉も使ったのか」

「いや…祝言の席で目元に隈取りをするぐらいだ、多分…儂が疎いだけかもしれんが」


 十兵衛が粥を椀によそう後ろで、篤実は薬指に紅を取り、唇に乗せる。紅筆が無いので縁まで綺麗に形を取る事が出来ないが、薄く少しずつ塗り重ね、染めるように塗った。


「目元、か。其方ら爪牙の目元はそのままでも力強いが、さぞかし華やかになるのであろうな」


 よし、と呟いて篤実は支度を調えた。といっても、篤実が袖を通す事が出来る着物は皆おトキが遺した物ばかり。それに十兵衛の帯を借りて、襟を正す。


「食うじゃろう、若君」


 粥とすこしの漬物と茶を並べて、二人で向かい合い朝食を取る。匙でさらさらと粥を流し込み、十兵衛は大きく溜め息を吐いた。


保紹やすつぐ殿と話すんじゃろう、若君」

「……うむ」

「儂も同席しても、良いか」


 空になった椀を左手に持ったまま、十兵衛は顔を真っ直ぐに篤実へ向けた。まだ粥を食べ終えていない篤実も、手を止め顔を上げる。視線を合わせるように顔を向け合い、篤実は曖昧に頷いた。


「余は…是非ともそうして欲しいのだが、少し待ってくれるか。外で控えていて欲しい。そうしてくれれば…心強い」

「御意」

「終わったら、昼飯を作ろう。うどんを打つのはどうだろうか」

「いやっそれは……あ、あー…」


 ――流石にうどんを打つだけならば、不味いものは出来上がらないだろう。いや、しかし。


 何やら黙り込んでしまった十兵衛を見て、篤実はクスリと笑みをこぼした。


「そうだ。そなたの髪もくしけずろう、十兵衛」

「儂の?」

「うむ。一張羅を着ろとは言わぬが、な? それに、余が触れたい」


 朝食を終え、座った十兵衛のうしろに櫛を手にした篤実が立つ。明灰色の十兵衛の耳が普段よりも落ち着きの無い様子で揺れて、動く尾のごわついた毛が背後にいる若君の足を擽った。


「んん……」

「擽ったそうだな」

「他人に後ろに立たれるのが、どうもな」


 十兵衛の髪は、後頭部の辺りから緩い癖があり、毛束がくるんとあちこち向いている。大きな肩から背中の上に流れている。篤実が一束ずつ十兵衛の髪を手に取り、目の粗いき櫛で毛先から梳きだした。


 胡座を掻いた十兵衛は、背を真っ直ぐに伸ばし、両手を膝の上に置いてじっと動かずに居る。


「余は……そなたが後ろに居ると、心強い。それに……温かい。心地良いのだな」


 篤実は櫛が引っかかる度に手を止めて、少しずつ十兵衛の灰銀の髪を解いていく。襟足、頭の後ろ、耳の側と場所を分けて、頭皮を櫛の先で掻いてやると十兵衛はうるる……と喉を鳴らした。


「……気持ち良い、のか。十兵衛」

「ぐっ……」


 狼と同じく頭の上からにゅっと生える耳の後ろの辺りを櫛で掻いてやると、十兵衛は胡座を掻いたまま喉を鳴らすのだ。


「なるほど。良いことを知った。これから毎日そなたの髪を梳かそう。髪に艶も出る」

「……ぅる」


 ピピッと十兵衛の耳が震えるのを見て、篤実は穏やかに笑った。櫛を手にしたまま、両手を前へと回し十兵衞の胸の前で緩やかに組み、頬を耳と耳の間に擦り寄せた。


「じゅうべえ」

「……なんじゃ」

「己の、一番槍よ」


 震える篤実の手を、十兵衛はそっと己の手を重ねる。すると篤実が手首を返して、指を絡め、握り締めた。


「もう少し……少しだけ、このままで」

「ゆきが飽きるまで、構わねえ」


 己よりも二回り以上大きな男を後ろから抱き締める。


「飽きるまでとなったら……この世が滅ぶまで、かの」


 十兵衛の尾がぱふんと筵を叩いた。足が痺れるまで二人は、そうして心地良い温もりと重さを無言で感じ合っていた。





「お早う御座います、あきら叔父上、保紹やすつぐ兄上」

「お早う、雪政。…態々待っていたのか」


 朝のざわめきが一段落し、昼を前にした頃。

 彰と保紹がやって来るよりも前に、十兵衛と篤実は庵から続く小径に出て、二人を待っていた。篤実が挨拶を述べると同時に、竹杖を持った十兵衛も深々と頭を下げる。先に篤実は顔を上げるが、平民である十兵衛は頭を下げたままであった。


「な? 保紹。俺の言ったとおりであろう」

「そのようですね、叔父上。…十兵衛とやら。面を上げよ」

「はっ」


 十兵衛にも篤実にも、彰の言葉の意味は分からなかったが、保紹の許しが出たので十兵衛は顔を上げ姿勢を正した。顎を引き、慶次の声が聞こえる方へと口吻を向ける。


「本日、我らが愚弟と話をするのに、其方の住まいを今一度借りても良いか。その間、其方には外に出ていて欲しい。勝手ばかり言って、すまないが」

「滅相もございません」

「兄上」


 篤実が顔を上げ、一歩前に出た。


「何か、雪政」

「こっ、この者は、出来るだけ俺の傍に控えさせたく。お許し頂けませぬか」


 十兵衛以外、皆この国の政と軍事に関わる立場の人間だ。それが今より膝を突き合わせて話し合いをする。だのに篤実は、元は一番槍とはいえ、只の平民である十兵衛を同席させたいと言いだした。

 弟からの申し出に、保紹は一歩後ろに立つ彰に視線を向けた。


「……」


 保紹はあまり良い顔をしていないようだったが、彰は自分の顎を撫でてニマリと笑みを浮かべ若い二人を順に眺めた。


「良いではないか。元より住まいを借りるのだし、この男を今更蚊帳の外に出すのも却って疑われるというものだぞ、保紹」

「――分かりました。なら、いっそ同席してはどうか。其方の耳、きっと人一倍良く聞こえるのであろう」

「……多少、は」

「外に出されて、じっと聞き耳を立てて居るというのも辛かろう、十兵衛」


 誂うような口調の彰に、十兵衛はぐ…と押されたわけでもないのにたじろいだ。


「十兵衛?」

「いや…ちと、最近の早とちりを…思い出しちまって」

「早とちり……あっ」


 篤実にも十兵衛の意味するところが分かり、途端に眉根を寄せて、頬紅を差したわけでもないのに顔が赤く火照る。ぱちぱちと瞬きを繰り返す様は長い睫毛が羽ばたくかのようだった。


「――其方等、何を二人でもじもじとしているのか。始めるぞ」

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