二十八 二人の決意



 篤実は、竃に向かい火を熾した。三方を囲われた竈の中で細い煙が立ち上ると共に揺らめいた火が、薪を喰い育ってゆく様を見て、手を止める。


 それは、風になびく旗をそのまま横に倒したように踊っていた。


「十兵衛……じゅう、べえ」


 炎の姿に、篤実は戦場を思い出した。戦場で浴びた、砂埃と血、火薬の臭い混じりの風、そして兵の指揮を執る勇敢な兄達の姿を思い出し、息を震わせた。


「起きとったか」


 十兵衛の声に顔を上げて、篤実が振り返った。その傍へとやってくるとおトキの墓の掃除に使った桶と切り藁を片手に、十兵衛は篤実の肩を抱き寄せる。すん、と耳の裏の辺りで十兵衛が息を吸うと、篤実も十兵衛の首の付け根に鼻先を埋めてにおいを吸い込んだ。


「十兵衛…己は」

「ああ」


 十兵衛は篤実を抱き寄せたまま、ゆっくりと腰を下ろす。膝の上に主君を乗せて、十兵衛は流れるような髪を撫でた。


「兄上たちと帰って――また戦にでるの…が…怖い」


 十兵衛が纏う着物の襟をぎゅうっと掴んで、篤実が声を絞り出した。


「なんだ、急に」

「こわい。…誰かを死なせるのが」

「…わか…ぎみ」


 このような、北の爪牙の里や都に、戦の不穏な空気は伝わってこない。


「悪帝西朝との戦は終わらぬ。あの兄上と叔父上が大将だというのに」


 肩を震わせながら、はぁ…と篤実が大きく息を吐いた。


「兵のいのちは、民のいのちだ。もうずっと、東朝われら西朝やつらもただ民の命を捨てるだけの戦を続けている」

「若君」

「己が行ったところで、変わらなかった!」


 顔を上げた篤実が、叫ぶように吐き捨てた。


「落ち着け、あの戦は儂等の勝ちじゃ。あれから暫く西朝の奴らは攻めて来んかった」

「だが今も悪帝は健在で…」

「お前の所為じゃねえだろう!」

「己は…! ……おれ、は……」


 十兵衛は、じっと耳を澄ませ、篤実が息を整えるのを待った。大した時間ではない筈なのに、日が暮れるまで待っているような、そんな気持ちにさせられる。

 揺れそうになる尾を意思の力でぐっと堪えた。


「……大将が……戦場を恐れているなんて」


 十兵衛は耳を震わせ、篤実の背を抱き締め直した。


「そうじゃな。ありゃあ……一度帰ってきたら、二度と行きたいとは思わねえ場所だ。ましてや……他の誰かを行かせたいとも思わねえ」


 低く、ゔる…と唸りながら十兵衛は耳を伏せ、尾で床を掃いた。


「正直今でもわからんのじゃ。なにゆえ…儂のような田舎の、棒振りしか脳のない男が、あの時あんな風に動けたのか」


 十兵衛の口角は無自覚の内に微笑むかのように上がっていた。密着した二人の胸の内側で、同じく二つの心臓が絶えず鼓動を刻んでいる。


「ゆき、逃げるか。何処か遠くへ」


 十兵衛の言葉に、篤実はビクリと肩を震わせた。そして――。


「嫌だ」


 思いの外早く、はっきりと否定した。


「ハハッ、振られてしまったわい」

「ち、違うのだ! 其方とは一緒に居たい! でも…あっ…――う、己は…何を言って」

「なあ……ゆき、お前はずっと、帰りたかったんじゃねえか」

「…十兵衛……」


 十兵衛は、その熱い掌で篤実の頬を包み込み唇を寄せ、そっと重ねた。


「篤実殿、我が主君よ。貴方様の望みは儂の望み」


 唇が離れても、十兵衛は篤実を離さなかった。その頬に伝う涙が、十兵衛の手を濡らす。


「十兵衛…己は――戦場に出るのが怖いのだ。己の命令で、人が死ぬ。己は…兄上や叔父上のように、兵に死ねと命じるのが……怖い。でも…でも…――逃げるのも、嫌だ。怖いだの、嫌だの、己は…俯いてばかりで、だから…ばちが当たったのだ」

「罰?」

「この……男に媚びて、快楽を得る…己の…淫ら、な…誰の役にも立たぬ――…」

「それは…貴方様が高潔で、優しいから…そう、思っちまうんじゃねえか。いや、儂も知ったようなことを言えた身じゃねえ。だが儂は、――貴方様を『美しい』と思う。…ゆき」

「十…兵衛…」


 十兵衛が、篤実の頬を舐め上げた。涙は熱く薄く柔らかい舌に掬い取られ、新しく滲むそれも吸い上げられてしまう。


「ゆきは…一人で都から儂の元まで来た。…この村でも、自分から働くと言って、儂の留守の間もおトキの墓を守ってくれたな」

「それは…己が、そう…したくて。それに…里の皆が、己に良くしてくれて」


 篤実の途切れ途切れの言葉に、十兵衛はゆっくりと頷いた。


「あの戦で、ゆきと儂らが守ったもんじゃ」

「それ、は…」

「それに…ゆきが、ただの臆病者なら村の奴らもこんな風にゆきを受け入れたかわからん。いつ何時なんどきでもお前は…人と同じ場所に立って、一緒に生きようとしとる」


 篤実の涙は徐々に止まって、十兵衛は手を頬から背と腰へ回して緩やかに主君の身を抱いた。


「そんな、篤実雪政殿に、この大神十兵衛が共に参ります事を…お許し頂けますか。若君」

「……じゅう……べえ……」


 縋るように十兵衛の襟を掴んで、すっかり固まってしまった手をゆっくりと開き、篤実は十兵衛の背を抱き締め返した。


「は……」


 腕が回りきらないほどに大きな背を、目一杯力強く抱き締めて、広い胸に顔を埋めながら頷いた後に、顔を上げる。


「己が…守った、もの」

「そうじゃ。皆で守った。若君が勇気を奮わせ立ち上がり守ったものがある。それは変わらねえ。たとえ、怖くて震えても、夜、儂に壊れるほど抱かれておっても」

「じゅう、べぇ」

「…お傍に居ること、お許し頂けますか」


 無言でいる間、二人の息遣いと鼓動が鼓膜を震わせた。


「許す。……余の……傍から、片時も……離れるな。我が一番槍。己の……十兵衛」

「はい」

「其方がいなくては……駄目だ」

「……儂もだ。ゆきが居らん生活は…寂しい、むなしい。ムズムズしちまう」

「好色な狼め」

「ゆきにだけじゃ」


 ふ、と息を吐き、篤実が十兵衛の顔を覗き込む。十兵衛もその視線を肌で感じ取ったのか、まるで見つめ合うかのように顔を見合わせた後に、顔を綻ばせ笑い合った。


 竈の中では、温かな橙色の火がゆららと揺れていた。

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