二十七 おトキへ





 十兵衛はいつもより早く目を覚ました。


 空気はまだ夜の水気を含んで、表に出れば耳の先からしんと冷えた。


「ふぅ…」


 井戸の水を汲み、竹杖を手に妻の墓へと向かう。足の裏に感じる地面から、秋の落ち葉や冬の雪の感触が消えて、岩と土、苔の弾力が感じられた。


「ちと早えか。おはよう、おトキ」


 語りかけ、墓と向かい合う。膝を折りしゃがんで、石の表面を撫でると村を出た一週間ほど前と全く変わらずよく磨かれていた。


「……そうか、ゆきが――お前の世話をしてくれたんだなぁ」


 切り藁に水を含ませ、シャッ、シャッ、シャッと一定の調子で墓を磨く。やがて夜明けが近付くと、目覚めの早い鳥が何処かでチーチチ…チーチチ…と声を上げ始めた。


「幸せ者じゃのう、おトキ。四の宮様手ずから背中を流してもらえる女など、この世に二人と居るまい」


 立ち上がり墓の裏側もしっかりと磨く。


 妻は明るい小麦色の毛並みをした、同じ爪牙の女で隣の村から嫁いできた。耳が反っているのが恥ずかしいとよく頭には手拭いを巻いていて、よく働き、抱き締めると温かかった。


「おトキ、なあ――…」


 今は物言わぬ墓石の下に眠っている。


 十兵衛は切り藁を落とし、それを探すために両手を地面に突いたが、そのまま項垂れた。墓を洗った水で濡れた土が、更に十兵衛の手から温度を奪っていく。


「儂が…都に行かんでも、若君には頼れる者が他に…おるんじゃろうなぁ」


 兄も、叔父も、ちゃんと篤実の身を案じて探しに来たのだ。総大将と副大将という職務を負う、この国で最も多くの民を守る二人が。


「若君があのお二人と共に帰られると言うことは――まつりごとや戦にまた出るんじゃろう。そうなったら…儂は」


 この田舎と、戦場と、せいぜい宿場町ぐらいが十兵衛にとって馴染みのある世界だ。都には比べものにならぬ数の人と物がある。道や建物の、そもそも町の勝手が違う。

 手を伸ばせば、何百回と触れた墓石がある。

 十兵衛は冷たく、清らかで、固い妻を抱き締めた。


「それでも儂は、あの方と共に往きたい」


 ――木々の間から、朝日が射し始めた。

 朝露に濡れた小石や、緑色の葉、そして十兵衛の灰銀の毛並みがきらきらと輝く。


 目を覚ました篤実が、隣に十兵衛が居ないことに気が付き庵の表に出て見たのは、妻の墓を抱き締め、朝日を浴びる十兵衛の姿であった。

 立ち止まり、十兵衛の様子を伺う篤実の頬を風が撫でる。小道の入り口から庵の方へと吹く風に、土のにおいと十兵衛のにおいがした。


「お前を墓の下に残してまで、都に行って儂に何が出来るのかと言う者もおるじゃろ。何よりも儂が、儂にそう思う」

「っ…」


 それは違うと声に出しかけて、篤実は踏み止まった。


「だが…なぁ、おトキ。儂は…若君を、ゆきを幸せにすると決めたんじゃ。そうじゃ。儂の大事なものを大切にして下さるあのお方を…儂は、お守りしたい」


 唇を薄く開き、着物の裾を握り締め、篤実は十兵衛の声に耳を澄ませた。

 村の反対から、鶏が甲高い声で鳴いた。

 水車が、ぎぃと音を立てた。

 里にとって、いつもと変わらない朝の音がする。


「儂が…都で下手を打って、逃げ帰ってきたら蹴り飛ばしてくれ、おトキ。儂は……」


 十兵衛が顔を上げた。目隠しのない顔の目元には、深い傷痕が今も痛々しく残っている。


「儂がどんな惨めな目に遭おうとも構わん。若君をお守りできれば、この国を、儂等の里を守ることにも繋がるじゃろう。……本望じゃ」


 亡き妻へ、主君への忠誠を語る男の姿。それを焼き付けた篤実は何も言わずに庵の中へ、そおっと戻っていった。

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