二十六 十兵衛、惑う





 篤実の手料理に泣きながら天目屋が帰った後、庵にはいつものように十兵衛と篤実の二人が残された。


 近くで梟がほう、ほーうと鳴く声がする。風が吹くと、新しい葉を付けた低木樹が優しい鈴のような音を立てた。灰の上では燠火がじっと微睡んでいる。

 嵐のような半日が過ぎて、穏やかな時間が訪れた。


「じゅう、べえ」


 食事を終えても、一人で胡座を掻いたまま動かない十兵衛の背へ声を掛ける。が、いつもならすぐに返事をするだろう十兵衛は、気が付くまで随分と間があいた。

 じっと十兵衛を見つめる篤実の視線に漸く気が付いて、顔を上げる。


「あ…ああ、すまん。…若君」


 潰れた座布団の上でずりずりと篤実の方へ向き直り、十兵衛は手を宙に上げる。が、迷ってひっこめた。

 その手を、篤実が捕らえ、己の胸元へと引き寄せる。十兵衛の背中の毛がぶぅわと膨らみ、耳がぴるっと震えた。


「ゔるっ…」


「十兵衛」


 己の手を掴む篤実の手に、十兵衛がもう片手を重ねる。


「若君…儂は……」

「うん」


 胸の中に渦巻く重たい靄を上手く言葉に出来ずに、十兵衛は篤実の肩を己の胸の中へと抱き寄せた。


「――お前を幸せにすると…決めたんじゃ」

「ああ」


 ぱふん、と尾で筵を叩く。

 篤実の身体をなぞり、口吸いをして、また腹の奥まで子種を注ぎ。疲れ切り眠りに落ちた若君を横にして十兵衛は思い悩んだ。


「儂に…何が出来る」


 指の背で篤実の目元を撫でながら、答えの出ない問を一人繰り返す。正確には答えが出ないのではなく、考えるほど悪い方へと行き詰まってしまっていた。

 冬の寒い日に尋ねた、篤実が都へ帰るときは十兵衛も一緒にと言う言葉がにわかに現実味を帯びてきた。


「儂ァ…お前を幸せにすると、それだけは成し遂げると…」


 都に着いていって、本当に篤実のために出来ることが、十兵衛にあるのだろうか。




 村長に部屋を用意された保紹やすつぐは、胡座を掻いたあきらの背中に寄り掛かりぼんやりとしていた。


「くさい…」


 彰は大酒飲みだ。今日もたらふく酒を飲み、先に休んでいた保紹を起こして、その上で今は胡座を掻いたまま寝ている。

 そんな彰が、数年ぶりに保紹と都に戻ったというのに、戦帰りの宴も開かずに此度は篤実を探しに行くと言ってきかず、保紹もついてきたのだ。


「……余の居らぬ間に…何が有ったのか」


 彰の背はゆっくりと膨らみ、また戻る。その度に虎が唸るような鼾がぐお、ぐお、と保紹の鼓膜を楽しませた。


「息抜きになったと言えば…そうか」


 母、皇后智子さとこが亡くなる少し前から、再び国境くにざかいは剣呑な空気が漂い、慶次も彰も気が張り詰めていた。この旅の間は総大将、副大将の立場を忘れて保紹は久々に最も信頼を寄せる叔父として彰と楽な時間を過ごしている。


 これから何故篤実が飛び出したのかを聞かねばならぬ。連れ戻し、弟には兵を率いる者として再び立ち上がってもらわねばならない。この様な北の山奥で腐らせて良いほど、保紹は弟を低く評価していないのだ。


「ふぅ……しかし、夜が明けたらまた逃げたりしていないだろうか……雪政」

「それはないだろう」

「ん……起きて居たのですか? 叔父上」


 気が付けば彰の鼾は少し前から止んでおり、彼は保紹の独り言に応えた。身を起こし、横になったらどうかと勧めると彰は立ち上がった。


「厠に行って参る」

「ああ、どうぞ」


 のしのしと部屋を出て行く彰の背を見送り、保紹はすっかり冷えてしまった布団の中へ潜り込んだ。程なくしてまた板張りの廊下を進む彰の足音がして、襖が開かれる。


「ああ、スッキリした」

「態々言わなくて良いのです、叔父上」

「ハハ、雪千代も無事に見つけられたしな。お前も久々に叔父上に甘えても良いのだぞ、晴千代はるちよ


 戻ってきた彰は普段よりも声を抑えながら、眠ろうとする保紹の邪魔をする。

 ならば、と保紹は考えの整理に、彰と言葉を続けることを選んだ。布団をめくり、起き上がろうとするが彰の手がそれをやんわりと制す。


「――何故叔父上は、雪政が我々の前から逃げないと思うのですか」


 同じく隣で布団を被る叔父へ顔を向けた後、上を向き目を瞑る。彰はふうむ、と返事だか吐息だかよくわからない声を出した後、大きな欠伸をした。


「あれは懸想をしている顔をしていたからな」

「――爪牙の里で?」

「ああ」

「雪政が……そうですか。……嗚呼、だからあの時」


 本当にそれだけかと尋ねたら弟は赤面したのだと理解した。可愛い話だが、悩ましい話でもある。


「駆け落ちではないですか」

「おお? いや、気付いてなかったのか」

「雪政に出奔する程想う爪牙の女子おなごが……」


 しみじみと呟く保紹に、彰は喉奥でクツクツと笑い肘をついて身を起こした。


「違うぞ保紹。存外御前もまだまだだな」


 彰の太い指が黒い髪を掬い上げ、酒臭さの残る唇でそっと触れる。保紹が胡乱な顔をして視線を向けると、彰は目を細めて優しく微笑んだ。


「十兵衛だ。雪千代と十兵衛は、俺達と同じだ」

「……つまり」

「生死を共にした者同士にしか芽生えぬ愛で結ばれて居る」


 保紹は大真面目な顔で語る彰の言葉を、肯定も否定もしなかった。


 二人の借りた部屋を月明かりが照らす。しかし閉ざされた雨戸に阻まれ、二人が肌を重ねる様は何人も見ること叶わなかった。

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