二十七 十兵衛、惑う
篤実の手料理に泣きながら天目屋が帰った後、庵にはいつものように十兵衛と篤実の二人が残された。
近くで梟がほう、ほーうと鳴く声がする。風が吹くと、新しい葉を付けた低木樹が優しい鈴のような音を立てた。灰の上では燠火がじっと微睡んでいる。
嵐のような半日が過ぎて、穏やかな時間が訪れた。
「じゅう、べえ」
食事を終えても、一人で胡座を掻いたまま動かない十兵衛の背へ声を掛ける。が、いつもならすぐに返事をするだろう十兵衛は、気が付くまで随分と間があいた。
じっと十兵衛を見つめる篤実の視線に漸く気が付いて、顔を上げる。
「あ…ああ、すまん。…若君」
潰れた座布団の上でずりずりと篤実の方へ向き直り、十兵衛は手を宙に上げる。が、迷ってひっこめた。
その手を、篤実が捕らえ、己の胸元へと引き寄せる。十兵衛の背中の毛がぶぅわと膨らみ、耳がぴるっと震えた。
「ゔるっ…」
「十兵衛」
己の手を掴む篤実の手に、十兵衛がもう片手を重ねる。
「若君…儂は……」
「うん」
胸の中に渦巻く重たい靄を上手く言葉に出来ずに、十兵衛は篤実の肩を己の胸の中へと抱き寄せた。
「――お前を幸せにすると…決めたんじゃ」
「ああ」
ぱふん、と尾で筵を叩く。
篤実の身体をなぞり、口吸いをして、また腹の奥まで子種を注ぎ。疲れ切り眠りに落ちた若君を横にして十兵衛は思い悩んだ。
「儂に…何が出来る」
指の背で篤実の目元を撫でながら、答えの出ない問を一人繰り返す。正確には答えが出ないのではなく、考えるほど悪い方へと行き詰まってしまっていた。
冬の寒い日に尋ねた、篤実が都へ帰るときは十兵衛も一緒にと言う言葉が
「儂ァ…お前を幸せにすると、それだけは成し遂げると…」
都に着いていって、本当に篤実のために出来ることが、十兵衛にあるのだろうか。
村長に部屋を用意された
「くさい…」
彰は大酒飲みだ。今日もたらふく酒を飲み、先に休んでいた保紹を起こして、その上で今は胡座を掻いたまま寝ている。
そんな彰が、数年ぶりに保紹と都に戻ったというのに、戦帰りの宴も開かずに此度は篤実を探しに行くと言ってきかず、保紹もついてきたのだ。
「……余の居らぬ間に…何が有ったのか」
彰の背はゆっくりと膨らみ、また戻る。その度に虎が唸るような鼾がぐお、ぐお、と保紹の鼓膜を楽しませた。
「息抜きになったと言えば…そうか」
母、皇后
これから何故篤実が飛び出したのかを聞かねばならぬ。連れ戻し、弟には兵を率いる者として再び立ち上がってもらわねばならない。この様な北の山奥で腐らせて良いほど、保紹は弟を低く評価していないのだ。
「ふぅ……しかし、夜が明けたらまた逃げたりしていないだろうか……雪政」
「それはないだろう」
「ん……起きて居たのですか? 叔父上」
気が付けば彰の鼾は少し前から止んでおり、彼は保紹の独り言に応えた。身を起こし、横になったらどうかと勧めると彰は立ち上がった。
「厠に行って参る」
「ああ、どうぞ」
のしのしと部屋を出て行く彰の背を見送り、保紹はすっかり冷えてしまった布団の中へ潜り込んだ。程なくしてまた板張りの廊下を進む彰の足音がして、襖が開かれる。
「ああ、スッキリした」
「態々言わなくて良いのです、叔父上」
「ハハ、雪千代も無事に見つけられたしな。お前も久々に叔父上に甘えても良いのだぞ、
戻ってきた彰は普段よりも声を抑えながら、眠ろうとする保紹の邪魔をする。
ならば、と保紹は考えの整理に、彰と言葉を続けることを選んだ。布団をめくり、起き上がろうとするが彰の手がそれをやんわりと制す。
「――何故叔父上は、雪政が我々の前から逃げないと思うのですか」
同じく隣で布団を被る叔父へ顔を向けた後、上を向き目を瞑る。彰はふうむ、と返事だか吐息だかよくわからない声を出した後、大きな欠伸をした。
「あれは懸想をしている顔をしていたからな」
「――爪牙の里で?」
「ああ」
「雪政が……そうですか。……嗚呼、だからあの時」
本当にそれだけかと尋ねたら弟は赤面したのだと理解した。可愛い話だが、悩ましい話でもある。
「駆け落ちではないですか」
「おお? いや、気付いてなかったのか」
「雪政に出奔する程想う爪牙の
しみじみと呟く保紹に、彰は喉奥でクツクツと笑い肘をついて身を起こした。
「違うぞ保紹。存外御前もまだまだだな」
彰の太い指が黒い髪を掬い上げ、酒臭さの残る唇でそっと触れる。保紹が胡乱な顔をして視線を向けると、彰は目を細めて優しく微笑んだ。
「十兵衛だ。雪千代と十兵衛は、俺達と同じだ」
「……つまり」
「生死を共にした者同士にしか芽生えぬ愛で結ばれて居る」
保紹は大真面目な顔で語る彰の言葉を、肯定も否定もしなかった。
二人の借りた部屋を月明かりが照らす。しかし閉ざされた雨戸に阻まれ、二人が肌を重ねる様は何人も見ること叶わなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます