二十二 天目屋は黙さない
斯様に濃厚な
「なんじゃ、ゆきの奴はまぁたお
「……」
十兵衛の庵へやってきた天目屋が篤実を見れば、その顔は涙を溢した後と思われる腫れぼったさがある。天目屋は、正座のまま無言でじっと彼を見る篤実の前に荷を下ろした。
「お姫さんよ、この天目屋の兄貴に話してみんか? 何をそんなに拗ねておるのか、お前は」
「やめてくれんか、竜比古兄」
「減るもんでも無し。ほれ、ゆき。仕事じゃ」
荷を解くと、いつものように修繕を頼まれた着物が現れる。篤実はそれを手に取り、
「何時までに」
「いつも通りじゃ。急かすもんは居らん」
あまり気負うな、と言いながら天目屋は篤実の頭をくしゃくしゃと掻き回した。
「そうじゃ十兵衛。おぬし、
「双子山? ああ、知っとる」
「あそこの按摩が怪我をしたらしくて、代わりにお前行ってこんか」
「…双子山?」
「ああ、ゆきは知らんか。
「その向こうと言うことは…十兵衛は何日か留守になると言うことか」
「そう、なるな」
十兵衛が頷くのを見て、篤実は表情を僅かに強張らせた。きゅ…と膝の上に乗せた着物を握り締める。
「なんつう顔じゃ」
「――ぐあっ⁉」
天目屋が十兵衛の背中をバシンと一発叩いてケラリと笑う。篤実が驚いて目を瞬かせた。
「な…何故十兵衛が叩かれたのだ」
「そりゃあ、儂がお姫さまを叩いたら、十兵衛に首をへし折られるからのォ」
「――……」
天目屋の言葉に篤実が十兵衛を見ると、尖った耳がピピッと一度だけ震えた。ふふっと笑みがこぼれてしまう篤実に、十兵衛も気が付いたらしくもぞりと胡座をかきなおす。
「それで、按摩に薬を届けに儂もお前と一緒に行くつもりじゃが、構わんな? 十兵衛」
「ああ、その方が儂も心強い、が……」
お前はどうする、等という聞き方は口が裂けてもできないので十兵衛は黙り込んだ。ぱふ、ぱふ、と太い尻尾が筵を叩く。
篤実は天目屋から預かった着物を畳み直しながら顔を上げた。
「ならば、己は留守を守ろう」
「…ほう。意外じゃのう」
天目屋が顎を撫でながら首を傾げる。何が意外なのかと篤実も鏡合わせに首を傾げた。
「ゆきは十兵衛にべったりじゃからのう。引っ付いてくるかと思うとったグアアッ‼」
十兵衛が大きな手で天目屋の頭を鷲掴みにしてギチギチと締め上げる。頭が割れる、と天目屋が泣きそうになったところで漸く十兵衛は手を緩めた。
「はぁ……手間が省けたと思ったら首を潰されるかと……」
青い舌をぴろぴろと覗かせて、天目屋は独り言ちた。
「手間?」
「あ、いやこっちの話じゃ」
その日、三人は十兵衛の庵で夕餉を共にし、篤実が天目屋を見送る事になった。
半分の月が、若葉が萌える木々の間から顔を覗かせていた。庵を出てすぐ、普段と変わらないよく磨かれた墓の前で天目屋が立ち止まる。
「おトキ」
篤実も数歩先に進んだところで気が付き、振り返った。
「てん……」
「お前の旦那は、いつまで経っても目の離せん犬っころじゃ」
「…………天目屋殿」
「おう」
天目屋は墓石の頭を一撫でし、夜に湿り気を帯びた道を歩き始めた。篤実の傍を通り過ぎると、からりと笑う。
「そんな怖い顔をするな、ゆき。まぁ、無理も無いかのう」
天目屋の言葉に、篤実は無意識の内に顔を強張らせていたと気付いた。歩き続ける天目屋の背を見詰め、遅れて歩み出す。
「先に言っておくがのう。儂ゃお前さんが好きになれんようじゃ」
足元を見下ろし、篤実に背を向けたまま天目屋は聞かせるようにはっきりと言った。
「だがのう、それよりも……十兵衛に嫌われるのは何よりも御免じゃ」
「……そうか」
「儂の方が十兵衛との付き合いは長い。おぬしより、な」
ざく、ざくと二人の草履が土を踏む。結った天目屋の青い髪が跳ねるように項で揺れた。ちらちらと射し込む月明かりに毛先が水面のように輝く。
篤実はやや迷い、そして、切り出した。
「手間が省けたというのは、己が留守を預かること……だろうか」
「ほう、十兵衛は分かっとらんかったようじゃがのう」
「……己は…」
「おトキちゃんに似てるわけでも無い。何ぞよく分からんが湿っぽい。オマケにお前のこととなると十兵衛はどうにも気が立つ」
「…十兵衛が?」
庵から続く小道を抜けて、天目屋が立ち止まり振り返った。
「お前が十兵衛の客じゃ無かったら、とっくに追い出してるわ。カカカ」
「それは、己としては笑えないな」
篤実は少し肩を落とした。
「天目屋殿」
「何じゃ。雪女男」
「己は此の村の邪魔に…なっていないだろうか」
俯いた篤実が視線を上げると、天目屋は片眉を上げた後に呆れたように溜め息を吐いた。
そして彼は頭を掻いて月を背にして立ち、篤実の目の前へとやってきて、顔に影を落とした。
「はー! 邪魔になっとるわけが無かろうが、この黴の生えた雪女男が!」
そして右手を挙げると、ピンッと人差し指で篤実の額を弾き、阿呆、ともう一度篤実を罵りクルリと背を向けた。
「痛っ」
「留守番中にそんなことを考えて、着物に黴を生やされたら敵わんから、明日もう一抱え持っていくぞ。覚悟せい」
「な……て…天目屋殿!」
振り返らずに自分の家へと帰っていく天目屋が背中越しにヒラリと手を振った。篤実はそんな彼の言動に呆気に取られるも、不思議と少しばかり喉に刺さった小骨が取れたような心地になっていた。
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