十六 想い注げど

「……十兵衞」


 十兵衞が湯気の立つ桶を片手に提げ、篤実の声と気配を頼りに近付いてくる。


「湯は足りたか、若君。戻らねえンで、もう一杯持ってきたんだが」

「……ありがとう」


 篤実が手を伸ばすと、指先が触れたところで十兵衞は足を止めた。湯の入った桶を握らされ、十兵衞の顔を見上げる。彼は一歩後ろに退いた。


「いや、礼には及ばねえ」

「そういう訳にもいかぬ」


 篤実はもう一度、湯に水を足してから手拭いで体を清めた。両手で絞ると、冷めた湯が足元にぽたぽたと落ちる。


 濡れた髪を背中へと払い、新しい浴衣を羽織り振り返る。十兵衞はまだ篤実の前に立っており、行水に使った桶やたらいを手探りで拾い上げた。


おれの体が……どうなっているのか、そなたは触れてわかるのか」

「……その…それは」


 十兵衞が言い淀んだ姿を見て、胸が締め付けられるような苦しさが込み上げる。


「……――」


 十兵衞は盥を脇に抱えて、頭を掻いていた。


「己に、失望したであろう、十兵衞」


 口を半開きにして、十兵衛が顔を上げた。


「何を言うか、若君」

「己の尻孔は妻君より良かったか。男の尻とは思えぬほどにそなたは耽ったな十兵衞」


 十兵衞は何も悪くない。一番理解しているのに、篤実の口からは十兵衞を詰る言葉が飛び出す。


「若君とのまぐわいは、そりゃ天上の…」

「今更白々しく若君等と呼ぶな‼」


 木々の間から小鳥が一斉に飛び立った。まるで篤実の声が爆竹のように聞こえたのだろうか。

 方々から責められている様な苦しさに、篤実は己の胸をギュッと掴んだ。


「う…く……ふっ……」

「……わ……か……」


 立ち尽くす十兵衞から顔を逸らし、ぶるぶると握った拳を震わせる。


 自分が情けない。


 許しがたい。


「ふ……ふふっ。おなごとて斯様に癇癪を起こすことはなかろうな。まったくおれは……何処まで行っても半端よ」


 顎を上げ、空を見た。周囲の木々が淡い青空を背景に黒い影となり、かごのようである。


「己は……こんな事を言うためにそなたの元に……来たのでは無いのに」


 浴衣の肩が、髪から滲み出した水気を吸い冷たく肌に張り付いた。急に体が冷えていることを自覚すると、肩が震え、指先が痛んだ。


「……ッ…ぐる…」


 庵の前では十兵衞が仁王立ちになり、低く唸っていた。


 篤実は十兵衞に背を向けた。


 周囲を見回したが、庵の裏からどこかへ続くわかりやすい道は見当たらない。それでも歩き続ければ、いずれこの庵から離れられるだろう。其処から、何処か道や集落へ出られる保証は無いが。


「生きているだけで恥だ」


 そう呟いて、凍えたまま歩き出そうとした篤実の身体は、突き飛ばされ地面に伏せた。


「ッ――⁉」

「行くな」


 身を起こそうとすると、肩を大きな口に噛み付かれた。


「じゅうべっ…」


 伸ばした手首を掴まれ、無理矢理引かれて熱い毛皮の下に閉じ込められる。土のにおいと、何かがチクチクと刺さる痛みが四肢や頬を包み、濡れた背中は篤実よりも高い体温に温められた。


「お前の体に恥じる所なんて…何処にもねえ。そうじゃろう、ゆき」


 すぐ後ろで、十兵衞がゆっくりと、深く呼吸を繰り返す。吐息に首筋を擽られながら、篤実は奥歯を噛みしめた。


「最初に儂に世話を命じておいて、逃げる気か。そんな…儂は許さねえ」


 十兵衛の言葉に甘えたいのに、口は違う言葉を吐く。


「……気持ちも…体も…己の手に余る」

「嗚呼」

「また、粗相をして、癇癪を起こす」


 大きな体が、背を丸めて篤実を包み込んだ。


「それがどうした」

「恥じゃ」

「生きてくれ」

「殺せ」

「いつか、時が来たら」

「今殺せッ」

「今じゃねえ」


 ぎゅう…と強く包み込まれる。そして、十兵衞ごとごろりと地面の上で転がって、篤実は横向きに抱き締められた。


「儂にゆきの全てを見せてくれ。どんなに喚いても泣いても、構わねえ。儂は、お前を幸せにすると心に決めたんじゃ」


 十兵衞の灰銀の毛並みに覆われた腕が、衣の上から腹を撫でる。思わずビクリと体を強張らせた。


「ッ…く…あ、う」


 篤実の体が昨夜の熱を反芻して、きゅうと疼く。十兵衞の魔羅がどれ程太く、固く、だくだくと子種を吐いたか、腹を撫でられただけで切なくなる。


「お前一人を狂わせはせん、ゆき。儂も道連れよ」


 十兵衛の言葉に唇が震え、胸の苦しさと腹奥のいやしい切なさに涙が溢れそうになった。


「盲が…何を言うか」

「若君より見えている物もある、かもしれぬ」


 十兵衞もきっと強がっているのだろうと気が付いて、篤実の頬が、とうとう熱いもので濡れた。


「助平狼め」


 太い腕がまた篤実の体を、温めるように抱き締めた。


「それは…お前にだけじゃ、ゆき」


 昨晩体にすり込まれた十兵衞のにおいがする。篤実は十兵衞の白くごわついた腕の毛皮を撫でて、徐々に体の力を抜いて身を委ねた。指先から空気に奪われた体温を、彼の熱で補う。


「じゅうべえ…」

「お主ら、一体何時まで土まみれで転がっとるか」


 突然天目屋が上から篤実の顔を覗き込んだ。


「ッ!」

「竜比古兄」


 篤実が体を強張らせたのを感じ取ったのか、十兵衞は抱き締める腕の力を緩めていた。


雪政ゆきなりの薬を置いておく。金は貰っていくぞ」

「ああ、いつもすまねえ」

「一日に三度、湯に溶いて飲め、雪政」


 篤実は枯れ葉の上に手を突き、身を起こす。


「待て、おれの薬なのだろう! 薬代は己が…」


 今手持ちの金は無いが、と言い掛けたが天目屋は追い払うように篤実へ手の甲を向け、ぺっぺっと振った。


「いや、十兵衞から貰う」

「ああ」


 十兵衞も遅れて身を起こし、天目屋の言葉に枯れ葉を払いながら頷く。天目屋も十兵衞も、自分に金を用意する力が無いと見ているのだと思うと、体が燃えるように熱く、恥ずかしかった。


 唇を噛んで、濡れた手拭いを握りしめる。


「金は…戻れ……ば」


 家に、都に戻れば、薬代など幾らでも工面できよう。


 蚊の鳴くような声で呟く篤実の心の裡を察したのか、十兵衞が頭を掻いて、天を仰いだ。


「……竜比古兄」

「おう、なんじゃ?」


 庵へ戻ろうとした天目屋が、唇から青い舌をチロリと覗かせながら首を傾げる。


「……その、なんだ」

「嫌じゃ。何故なにゆえ儂が其処までこの雪女男を特別扱いするんじゃ。はよ衣を着ろ二人とも。風邪薬はまけてやらんぞ」

「…ぐるぅ」


 十兵衞の三角の耳がぺたりと寝た。その様を見た天目屋は、愉快と言いたげに『ケケ』と笑って今度こそ庵の中へと戻っていき、そのまま外へと出たようだった。

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