十七 想い注げど
「……十兵衞」
十兵衞が湯気の立つ桶を片手に提げ、篤実の声と気配を頼りに近付いてくる。
「湯は足りたか、若君。戻らねえンで、もう一杯持ってきたんだが」
「……ありがとう」
篤実が手を伸ばすと、指先が触れたところで十兵衞は足を止めた。湯の入った桶を握らされ、十兵衞の顔を見上げる。彼は一歩後ろに退いた。
「いや、礼には及ばねえ」
「そういう訳にもいかぬ」
篤実はもう一度、湯に水を足してから手拭いで体を清めた。両手で絞ると、冷めた湯が足元にぽたぽたと落ちる。
濡れた髪を背中へと払い、新しい浴衣を羽織り振り返る。十兵衞はまだ篤実の前に立っており、行水に使った桶や
「
「……その…それは」
十兵衞が言い淀んだ姿を見て、胸が締め付けられるような苦しさが込み上げる。
「……――」
十兵衞は盥を脇に抱えて、頭を掻いていた。
「己に、失望したであろう、十兵衞」
口を半開きにして、十兵衛が顔を上げた。
「何を言うか、若君」
「己の尻孔は妻君より良かったか。男の尻とは思えぬほどにそなたは耽ったな十兵衞」
十兵衞は何も悪くない。一番理解しているのに、篤実の口からは十兵衞を詰る言葉が飛び出す。
「若君とのまぐわいは、そりゃ天上の…」
「今更白々しく若君等と呼ぶな‼」
木々の間から小鳥が一斉に飛び立った。まるで篤実の声が爆竹のように聞こえたのだろうか。
方々から責められている様な苦しさに、篤実は己の胸をギュッと掴んだ。
「う…く……ふっ……」
「……わ……か……」
立ち尽くす十兵衞から顔を逸らし、ぶるぶると握った拳を震わせる。
自分が情けない。
許し
「ふ……ふふっ。おなごとて斯様に癇癪を起こすことはなかろうな。まったく
顎を上げ、空を見た。周囲の木々が淡い青空を背景に黒い影となり、
「己は……こんな事を言うためにそなたの元に……来たのでは無いのに」
浴衣の肩が、髪から滲み出した水気を吸い冷たく肌に張り付いた。急に体が冷えていることを自覚すると、肩が震え、指先が痛んだ。
「……ッ…ぐる…」
庵の前では十兵衞が仁王立ちになり、低く唸っていた。
篤実は十兵衞に背を向けた。
周囲を見回したが、庵の裏からどこかへ続くわかりやすい道は見当たらない。それでも歩き続ければ、
「生きているだけで恥だ」
そう呟いて、凍えたまま歩き出そうとした篤実の身体は、突き飛ばされ地面に伏せた。
「ッ――⁉」
「行くな」
身を起こそうとすると、肩を大きな口に噛み付かれた。
「じゅうべっ…」
伸ばした手首を掴まれ、無理矢理引かれて熱い毛皮の下に閉じ込められる。土のにおいと、何かがチクチクと刺さる痛みが四肢や頬を包み、濡れた背中は篤実よりも高い体温に温められた。
「お前の体に恥じる所なんて…何処にもねえ。そうじゃろう、ゆき」
すぐ後ろで、十兵衞がゆっくりと、深く呼吸を繰り返す。吐息に首筋を擽られながら、篤実は奥歯を噛みしめた。
「最初に儂に世話を命じておいて、逃げる気か。そんな…儂は許さねえ」
十兵衛の言葉に甘えたいのに、口は違う言葉を吐く。
「……気持ちも…体も…己の手に余る」
「嗚呼」
「また、粗相をして、癇癪を起こす」
大きな体が、背を丸めて篤実を包み込んだ。
「それがどうした」
「恥じゃ」
「生きてくれ」
「殺せ」
「いつか、時が来たら」
「今殺せッ」
「今じゃねえ」
ぎゅう…と強く包み込まれる。そして、十兵衞ごとごろりと地面の上で転がって、篤実は横向きに抱き締められた。
「儂にゆきの全てを見せてくれ。どんなに喚いても泣いても、構わねえ。儂は、お前を幸せにすると心に決めたんじゃ」
十兵衞の灰銀の毛並みに覆われた腕が、衣の上から腹を撫でる。思わずビクリと体を強張らせた。
「ッ…く…あ、う」
篤実の体が昨夜の熱を反芻して、きゅうと疼く。十兵衞の魔羅がどれ程太く、固く、だくだくと子種を吐いたか、腹を撫でられただけで切なくなる。
「お前一人を狂わせはせん、ゆき。儂も道連れよ」
十兵衛の言葉に唇が震え、胸の苦しさと腹奥のいやしい切なさに涙が溢れそうになった。
「盲が…何を言うか」
「若君より見えている物もある、かもしれぬ」
十兵衞もきっと強がっているのだろうと気が付いて、篤実の頬が、とうとう熱いもので濡れた。
「助平狼め」
太い腕がまた篤実の体を、温めるように抱き締めた。
「それは…お前にだけじゃ、ゆき」
昨晩体にすり込まれた十兵衞のにおいがする。篤実は十兵衞の白くごわついた腕の毛皮を撫でて、徐々に体の力を抜いて身を委ねた。指先から空気に奪われた体温を、彼の熱で補う。
「じゅうべえ…」
「お主ら、一体何時まで土まみれで転がっとるか」
突然天目屋が上から篤実の顔を覗き込んだ。
「ッ!」
「竜比古兄」
篤実が体を強張らせたのを感じ取ったのか、十兵衞は抱き締める腕の力を緩めていた。
「
「ああ、いつもすまねえ」
「一日に三度、湯に溶いて飲め、雪政」
篤実は枯れ葉の上に手を突き、身を起こす。
「待て、
今手持ちの金は無いが、と言い掛けたが天目屋は追い払うように篤実へ手の甲を向け、ぺっぺっと振った。
「いや、十兵衞から貰う」
「ああ」
十兵衞も遅れて身を起こし、天目屋の言葉に枯れ葉を払いながら頷く。天目屋も十兵衞も、自分に金を用意する力が無いと見ているのだと思うと、体が燃えるように熱く、恥ずかしかった。
唇を噛んで、濡れた手拭いを握りしめる。
「金は…戻れ……ば」
家に、都に戻れば、薬代など幾らでも工面できよう。
蚊の鳴くような声で呟く篤実の心の裡を察したのか、十兵衞が頭を掻いて、天を仰いだ。
「……竜比古兄」
「おう、なんじゃ?」
庵へ戻ろうとした天目屋が、唇から青い舌をチロリと覗かせながら首を傾げる。
「……その、なんだ」
「嫌じゃ。
「…ぐるぅ」
十兵衞の三角の耳がぺたりと寝た。その様を見た天目屋は、愉快と言いたげに『ケケ』と笑って今度こそ庵の中へと戻っていき、そのまま外へと出たようだった。
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