十二 十兵衛、止まる

「ッ……!」

「正気に戻ったか十兵衛」


 荒い天目屋の呼吸が聞こえる。篤実が痛みを堪え、小さく呻いた。


「天目屋とやら、余は……問題ない。だからそれ以上は」

「お主に問題がなくとも儂らには大ありじゃ、雪政。いや雪女男」


 十兵衛と篤実の前へと回り込み、散らばった何やらを拾い上げながら天目屋はどっかりと座り込んだ。十兵衛は口の中に渥美の血と自分自身の血を感じながらのそりと筵に膝を突き、溜め息を零した。


「竜比古兄、この方は……」

「――……」


 言い淀んだところで十兵衛は腕の中の若君の気配を探る。何処まで言うか悩んだところで、『さる高貴なお方の子息』であることだけ伝えた。


「……さる高貴なお方のう」

「じゃから、儂らのような田舎者が手を出して良いお方じゃあない」

「おいおい、その高貴な御子息の首を食い千切ろうとした馬鹿犬は何処の何奴じゃ」


 ぐぅ……、と十兵衛は黙らせられた。すると篤実が十兵衛に縋りながら身を起こし、顔を天目屋へ向ける。


「……よい、十兵衛。……聞いておったのだな、余が天目屋に……子種を、せがむのを」


 篤実に言われ、十兵衛は頷くような、ただ俯くような仕草でゔ……と喉を鳴らした。


「先に言うとくが、儂らがしとったんは二つ巴ぞ。十兵衛。昼寝して何ぞ、妙な心地がして目を覚ましたら、この雪女男に逸物を口でしゃぶられておった」


 二つ巴というのは、互い違いの向きになり、口で逸物を慰め合う交尾いだ。天目屋の言葉に十兵衛は肩を強張らせる一方で、篤実も息を詰まらせた。


「ッ! …………そう、だ。……余が…先に」

「……自分の口で言わんか、雪女男」

「…それは…尤も、だ…な」


 しかし篤実は中々続く言葉を口に出来なかった。何度も言いかけて吐息を震わせるのだがそればかりである。しかも先刻小便を漏らしたにおいもまだ篤実の身体に残っている。


「……先に、若君はお召し物を変えた方が良い。その…血で汚れちまっただろう」

「むう……」


 天目屋はやや納得がいかないようだったが、結局十兵衛の言葉に頷き、篤実が立ち上がるのを手伝った。


 態々、庵の裏へと篤実が出て行くのを見送った後、十兵衛は迷いながら天目屋に問い掛ける。


「さっきから竜比古兄は若君を雪女男と言うが、それは何じゃ」

「はぁ、結局儂に説明させるか。貧乏くじを引いたのう」

「……すまねえ」


 天目屋は昼寝前に散らかした薬の材料を片付けながら、篤実が戻ってくるまでの間に宿場町に出た雪女男という陰間の噂について掻い摘まんで十兵衛へ説明した。








「都の近くでは聞かんかったが、大体富恵湖から北で噂になっとった。十兵衛、お前があの雪女男を何故なにゆえ庇っているかは知らんが……」

「そのふしだらな陰間が、若君と決まったわけじゃねえ」

「ほぉん」


 天目屋は面白くなさそうな声を上げる。


「おうおういい男はつらいのう。なら儂は、十兵衛のことを思って股ぐらを濡らすほど燻った若君に、初対面で逸物をしゃぶられたか。ッか〰〰参った参った。儂の魅力も此処まで来たか。危うく抱くところじゃったが、すんでの所で二つ巴で焦らしたのが却って功を奏したわ、まったく――」

「十兵衛、天目屋」


 止まらない天目屋の台詞を、着替えから戻った若君の声が遮った。彼は二人の間へと進んで、筵に膝を突く。


「……天目屋は…悪くない」

「――……」


 十兵衛は鼻先を向け、僅かな音で唸った。


「余は……若と呼ばれるに相応しくない」


 俯いているのだろう、篤実の声は普段の凜々しさが無かった。


おれは…他の男に…抱かれないと耐えられぬ、恥知らずの…気狂いだ」


 弱々しいだけで無く、その声が、吐息が、震えていた。


「…泣くほど嫌か、雪政」

「泣いてなどおらぬ! 嫌だ。情けない。皆を失望させ、母上を死に追いやってしまった。なのに…なのに……――どうにも…ならないほど う、あっ」

「若君?」


 十兵衛は、また篤実が妙なにおいをさせていることに気が付いた。着替えてきて、一度は消えたはずなのに、また篤実からにおいがし始めた。しかもそれが、ただのにおいではない。発情期、獣の雌が己の存在を雄に示すように縄張りに尿で示すようなたちのに似ている。


「また……や…うあぁ」

「どうした、篤実殿」

「十兵衛、座っとれ」


 何故か天目屋が十兵衛を制す。


「すまぬ……十兵衛、また……汚して、しまった。すまない……すまない」


 声を震わせ、身体を丸めている篤実から、雌のにおいが強くなる。


「…お主に、抱かれたいと……思う度に、粗相……して、しまう……」


 篤実の告白に、天目屋は溜め息をつき十兵衛は息をすることを忘れた。


「り、理解が追いつかぬ」


 頭を抱えて十兵衛は唸り、呟いた。それは天目屋も同じだったようで、間髪入れずに何か言ってくるだろう彼が、沈黙したままだった。


「ッ……く……」

「なんじゃ……儂の子種汁を口から飲んだだけじゃ、足らぬと、雪政」


 天目屋が頭を掻きながら若君に尋ねると、小さな声でああと肯定する声がした。


「ッ……止めろ竜比古兄。これ以上若君に恥を掻かせるような真似はいかん」


 十兵衛は身を乗り出し、手を伸ばして篤実と天目屋の間に割って入った。今すぐ腹を切って死にたいが、己の恥よりも若君に恥を掻かせるわけにはいかない。


「薬はないのか。そういう、粗相に効くような」

「その若さで、怪我をしたわけでもないのに普通は粗相せん」


 天目屋の言葉に振り返り、十兵衛は篤実の肩へ手を伸ばした。


「そうじゃ。血のにおいがせんから気付かんかったが、ここまでの道中でどこか怪我をしたんじゃねえのか」


 十兵衛の毛皮に覆われた手を、火照った篤実の手がそっと握って、まるで十兵衛の言葉を遮るかのように引き寄せた。


「……違う……怪我は……して、おらぬ」


 十兵衛の手が引かれ、篤実の帯よりも下のなだらかな腹に触れてしまう。


「は……くっ」


 熱い吐息を漏らした直後に、若君は何かを堪えるように呻き、深く息を吸った。


「余は…元服の儀式に失敗して、男子おのことしての役目を、果たせなくなった」

「………」


 する……と衣擦れの音がした。すると十兵衛の指先は衣ではなく篤実の下腹に直に触れる。


「十兵衛、そなたには見えぬだろうから……天目屋よ。余の腹に何が有るか、説明を、たのむ」


 触れた腹に、無意識に十兵衛は掌全体を当てていた。柔らかい。女のような分厚い肉ではないが、元服から少なくとも五年も経っている、甲冑を纏った男とは思えぬほどに、腹に柔らかな皮が乗って絶妙なまろみを帯びており、その下から雄を昂ぶらせるにおいをさせていた。


「……見たことのねえ図じゃ。何かのまじないか。墨を入れたんか」

「いや、墨ではない。墨ではないのだが、消えぬ。そして……これが、余の、本当の姿を暴く」


 篤実の身体が震えていた。震えて、褌を濡らして、膝まで潮を垂らしていた。


「元服の前に、試練として施された。余が真に男ならば、この紋は消えて、立派な世継ぎを作れると。だが、そうでなかったら……真の男でなければ、紋は消えずに女の、雌の欲に――呑まれると」

「雪政…」


 十兵衛はそっと篤実の身体を探り、乱れた着物を整えさせる。そうして、彼の前に改めて膝を突き項垂れた。


「若君が、真の男でないなど、ある筈が…」

おれだって! 己だって、信じとうなかった!」


 は、は、と短く息をする篤実が再び膝から崩れ落ちた。十兵衛が肩に触れると、篤実はその手をパンッと弾いた。


「戦で南朝の悪鬼を討つにも、そなたらに庇われて震えながら虚勢を張るのが精一杯じゃ! 都からここに来るまで、他にやり方もあったとわかっているのに、己は自分から男に媚びを売った! こんな奴の何処が…どこが、――父上の、息子か…十兵衛の……目を潰してまで…生きる価値があるものか…」


 声を震わせ、息を荒げ、吐き捨てるように叫んだ篤実はふー…ふー…と手負いの獣のような息を吐いた。まるで最後の虚勢に涙を零すまいとするかのように。


「阿呆らしい」


 真っ先に異を唱えたのは天目屋だった。物音からして、自分の薬箱を担ぎ上げたのだろう。


「儂ゃ今日は他所で寝る。これ以上お主らの痴話喧嘩に付き合ってられん」


 そう言いながら、項垂れた十兵衛の肩を優しく叩いた。


「しっかりせえ十兵衛。一番槍が泣くぞ、ここが踏ん張りどころじゃ」

「…竜比古兄…」


 天目屋は小さな声で囁いて、離れていく。


 庵の外はまだ雪が残っている。


「おお、偶には早めに帰ってくるもんじゃの。残雪に月は粋なもんじゃ。なぁ?」


 誰に向かっていうでもなく、しかしやたら目立つ声で天目屋は独り言ちて歩き出した。ざくざくと濡れた落ち葉を踏む足音が遠ざかる。


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