九 巡る者来たりて
十兵衛は酷い罪悪感と共に目を覚ました。目が覚めるなり己の股ぐらを改め、朝勃ちも夢精もしていないことを確かめる。
「…………良かった」
「んぅ……十兵衛、どうした……」
隣の若君に眠たそうな声で尋ねられ、十兵衛は咳払いし立ち上がる。
「いや、何でもねえ。……儂は今日、村の大工の所へ按摩の仕事に行ってくる」
そう告げると十兵衛は先に布団から出て、井戸から汲み上げた水で顔を洗った。しんと冷えて、頭が冴えてくると徐々に夢の中身も朧気になる。
庵に戻ると、篤実も起き上がり布団を片付けているようだった。
「若君、儂の仕事の間だどうなさるつもりで」
「うむ。余はそなたが帰って来るのを待つ」
十兵衛は火を熾し、鍋の残りに米を加えて雑炊を作る。
「何か着物の他に必要な物は。刀とか……」
「……そなたが帰って来るのなら、それで良い。それに、此処は平和な村だ。刀は無用であろう」
鍋を火から下ろし、十兵衛は篤実の頭を撫でた後ハッとして手を引っ込めた。
「とんだ無礼をいたしました篤実様。一人前の男子に斯様な……」
「十兵衛」
「ハッ」
篤実は十兵衛の手を取ると、大きな彼の手を己の頬へと導いた。
「そなたには、余が一人前の……男子に見えるか」
「無論」
十兵衛は両手で篤実の顔を包み込み、その顔立ちを確かめるように耳元を撫で、両肩に手を置いた。衣越しに感じ取る肩はかつて甲冑を身に纏い馬に跨がっていたとは信じがたい薄さと繊細な骨格であった。五年の間に、肺病でも患ったかのような有様に十兵衛は眉をしかめた。
しかし、次の瞬間自ら十兵衛の胸の中へと滑り込んだ篤実の柔らかさに、ただ痩せただけでない事を思い逸らされる。
「そう、か。よかった」
何処か言い聞かせるように呟いて、篤実はそっと離れていった。
「あ……篤実様」
十兵衛は引き留めるかのように篤実の名を口にしていた。それだけでなく、一歩、彼のにおいの方へと進んで手を伸ばす。十兵衛の大きく厚く、毛皮を纏った手が宙を彷徨うのを、若君がそっと捕まえた。
「ふ……どうした? 十兵衛」
どうしたのだろうか。十兵衛にもわからない。しかし焦りと恐れが胸の裡で燻っていた。十兵衛はそのまま若君の手をゆっくりと引き、己の太い腕の中へと導くと始めはそっと、軈てしっかりと抱き締めた。
「貴方様は、立派な若武者に御座います」
「…………」
「御身は、儂が守ります。どうか……お母上のように儚くなられることの無いよう」
「じゅう…べ…え」
「若君のお姿は、この盲の瞼に今も鮮やかに焼き付いておる」
「そうか……そう…か」
ただ抱き締められていただけの篤実が微かに声を震わせながら、十兵衛の背中を抱き締め返した。
「篤実様」
「――十兵衛、
「……」
篤実の吐息が乱れ震えている。それ以上彼の言葉は続かなかったが、十兵衛は時折無言で頷きながらら若君の身体を抱き締め直し、背中を撫で、また抱き締め続けた。
およそ二年ほど前、皇后
四人の王子を設けた彼女の最期は、行き過ぎた断ち物、願掛けにより身を削ったものと言われている。
そうまでして何を願っていたのか様々な噂が流れたのだが、何れも噂はうわさ。確証は無いまま時間が過ぎ、民草の悲しみは和らいだが、真相は闇の中にある。
篤実が落ち着きを取り戻し、十兵衛は仕事へと送り出された。
はじめはそのまま家に残ろうとしたのだが、若君が『仕事は仕事であろう』と十兵衛へ大工の元へ行くように強く言ったのだ。
そうして一人家に残った篤実は、じっとしているのも嫌だと朝餉を済ませた碗を洗い、それを終えると庵の外で井戸の水を汲み始めた。
「おはようございます、おトキ殿。今日は天気も良い」
屈み込み、濡れた切り藁で墓石を磨く。毎日のように十兵衛が掃除をしているおトキの墓は、清潔なものだった。なんなら庵の方が手入れが行き届いていないのでは無いかと言うほどである。
「…十兵衛は、これほどまでにそなたを大事に思っておるのだな」
しゃっしゃっと音を立てて裏まで掃除し、水を掛ける。冬の水仕事に慣れない手は真っ赤になったが、その痛みが何処か心地良かった。
篤実は雪の残る足元に注意をしながら辺りを見回し、白い花を付けた木を見つけた。その枝を一本手折り、おトキの墓へと戻って供え、両手を合わせる。
「おトキ殿の大切な衣を、お借り申す。それと……」
――それと。
その先を言うのが躊躇われ、若君はじっと佇んだまま動けなくなった。と、その時。
「墓に供えられた花でも盗むつもりか? 腹の足しにもならんじゃろうに」
突然の濡れ衣に振り返ると、そこには男が一人立っていた。青い髪を後ろでひっつめ、眼鏡をかけたつり目の男。
「無礼な。……己は大神十兵衛の客である。この墓が誰のものなのかも、心得ている」
「なら、手ぇ出す訳がねぇと」
「然様」
篤実の前に現れた男は、背中に薬箱を背負っていた。笑う唇から時折青い舌をチロチロと覗かせる。
「はは、一年ぶりに訪ねたが、見慣れぬ人間がおったのでのぉ。それで、肝心の十兵衛は居るか? 天目屋が戻ったと言えばわかる。
天目屋が前髪を掻き上げると、袖から覗く腕には鱗が、手には細い爪が見えた。他のこの村の住人に比べると、彼はひょろりと細身であった。
「そなたもこの里の
天目屋と名乗った男は顎に手を当てて首を捻った。背負った大きな薬箱を揺らしながら、掃除道具を手に庵へと戻ろうとする篤実にスルスルッと近付いて顔を寄せる。
「な……何だ。何をする、そなた」
「ふぅん……ふうん?」
ぴろ、ぴろぴろと口から覗く舌先が震えては口の中へ引っ込む。顔を覗き込まれた篤実は、数歩後ずさり天目屋から距離を取ろうとした。
「おお、悪ぃ悪い。なんじゃお主、変わったにおいがするのうそれに、よく見たらその衣はおトキちゃんの形見じゃな? 十兵衛、ようやく新しい嫁をもらったか」
「ち、違っ! 己は」
「おれ? うん?」
掃除道具を拾い上げ庵へ戻ろうとする篤実の姿を、まじましと見詰めて天目屋は首を傾げた。
「男か、おまえ」
「……男で悪いか、天目屋とやら」
「ふうん?」
天目屋はそのまま若君の着物の裾へ手を伸ばすと、裾からべろりと捲り上げて中を覗く。人に着替えを手伝わせるのも慣れているからか、篤実は平然としたまま只首を傾げた。
「ついとるか判らんくせに、随分火照らせて」
カコォンッ!
「ぎゃあっ!」
「さっきから黙って聞いていれば
空になった桶で天目屋の頭を引っ叩き、篤実もついに怒りだす。尻餅をついた天目屋は殴られた頭を押さえながら漸く篤実から距離を取った。
「何って、十兵衛は儂の弟の様なもんじゃ。可愛い弟の面を拝みに参ったと言うのに怪しい
「お……おとこおんな…」
天目屋が篤実の身上を知るわけも無い。立ち上がると尻についた土をパンパンと払って、天目屋は腕を組んだ。
「此れだけ騒いで出てこんのじゃ、確かに留守なんじゃろ。どれ、中で待つ」
「…………」
「何故黙る、あれは十兵衛の家じゃろう」
「己はその十兵衛の客だが、其方…」
「埒があかん」
天目屋はスルスルッと篤実の横を通り抜け、庵の中へと向かってしまった。
「儂は爪牙と人の半端物での。お主、爪牙の混血は生粋の爪牙とどう違うか知っておるか。ああっと…名前は?」
追いかける篤実に背を向けたまま天目屋は大きな薬箱を下ろし、中から薬壷や薬草を包んだ油紙を取り出し始める。
「…
「ほう。で、混血はのう」
黒い何か干涸らびたものや、離れていてもツンとしたにおいのする生薬も有るらしい。天目屋は庵の中で好き勝手に荷を解いている。
「子が遺せん。半端者の爪牙は、生粋の爪牙と夫婦になっても子が産まれん。人間となら無いことも無い、らしいが…まあ密通じゃろう」
子が遺せないと聞いて、ピクリと篤実の肩が跳ねた。平静を装い話を聞きながら、湯を沸かし茶を入れて天目屋へと差しだす。
「ふぅ…あたたまるわい…いやちっと戻ってくるのが早かった。雪が多い。まぁそういう訳で儂のような混血はのう、概ね所帯を持たん。しかし裏を返せば身軽という事じゃ。儂は長いこと国を回って薬を売る商いをしている」
「……お父上や母上は」
「もう死んだ。さて何年になるやら。親父は戦で討ち死にして、お袋はそれよりも前にのう」
天涯孤独だと打ち明けた天目屋に、篤実は自らの袖を握り締めながら眉尾を下げた。
「……寂しくは無いのか、天目屋とやら」
「ハッハッハッ! そりゃあお主、買った女に聞かれたときは寂しいと言って、それ以外には無いって言うのが男気じゃろ」
「――成る程」
其方の言うことも一理ある、と篤実は天目屋の戯言を受け入れていた。すとん、と天目屋と向かい合うように胡座を掻いて腰を下ろす。
「だから皆、尋ねると寂しがっていたのか……」
篤実のつぶやきを聞きながら、天目屋は広げた薬の真ん中で横に寝転び頬杖を突いてあくびを零した。
「お主……――どこから来た」
「……都……の方、から」
「ほうってどっちじゃ」
天目屋はじろりと篤実を見詰めている。焼き物に使う粘土のような色をした瞳に、孔のように黒い瞳孔がきゅうっと開いたり縮んだりしていた。
「言いとうない」
「ふうむ。…そうかそうか。まさか何処かの村で盗みを働いて、十兵衛に泣きついたんじゃあるまいな」
「もし、斯様な罪人ならば十兵衛が黙っている筈がなかろう。あれは真っ直ぐな男だ」
篤実に言い返された天目屋は眼を瞬かせた。そして半笑いして茶を煽る。
「男だか女だかわからん顔をしとるくせに、お前、気が強いのう。…まあ良いわ。儂ゃ長旅で眠い、寝るぞ」
「…あ? ああ…おやすみ…?」
天目屋は空になった湯飲みを置くと筵の上でごろりと横になった。ご丁寧に薬箱から枕にちょうど良い高さの箱を取り出して、頭の下に敷いて目を瞑る。その様子を暫く眺めた篤実は、空になった湯飲みを下げて、無言で濯いだ。
その日の夕方、天目屋は十兵衛が帰ってくるまで固い床の上でぐっすりと眠りこけたのだった。
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