六 十兵衛の耳は口ほどにものを言う

 一方の庵では、若君と十兵衛が膝を突き合わせて飯をたべながら、ある重要な問題について、議論していた。


「余が北帝の親王であることは、集落の他のものには伏せてほしい」

「承知しております、若君」

「さしあたって余は、そなたに槍の手ほどきを受けた弟子、ということにするのはどうか」

「なりませぬ」


 食い気味に十兵衛は首を横にふって、干した魚を混ぜた粥を啜った。議題はつまり、この集落の他の者に、若君の身上、ひいては十兵衛との関係をどのように説明するかである。


何故なにゆえか、十兵衛。何も不都合はあるまい」

「……たとえ若君のご身分を偽るためとはいえ、若君が儂の門弟だなどと」


 ぐるるる……と十兵衛は困ったように喉を鳴らした。目隠しから覗く眉も険しく寄せられている。篤実が手にしている碗には今宵、山で捕まえた雉を絞めて具にした鍋がよそわれていた。捕まえたのは村の若い狩人だ。


「確かにな。こんなに精がつく鍋を、おいそれと弟子には食わせぬか……。ならば、余がそなたの師ということにするか」


 どうであろう? と若君は首を傾げるがどうもこうもないのである。答えに窮する狼の耳が寝たのを見てフッと笑う微かな声が庵に響いた。


「儂は…若君がこの庵を出て行くときに、顔を皆に見せられねえような生活はさせたくねえ」


 笑ったきり答えない若君に対して、背を丸めた十兵衛は苦悶しながら零す。


 十兵衛は噂話は好かない。


「若君が都に帰る時が来たら――」


 箸を握る手についつい力が籠もる。噂話は好かないが、十兵衛が耳を塞いだだけで、噂話が消えるわけでは無い。此処での暮らしに尾鰭がついて、このお方の行く先に瑕疵となることが無い様にと願う。


「……案ぜずとも、暫くはその様なことも無いであろう、十兵衛よ」


 しかしそう判断する理由は、未だ篤実の口から語られない。思わず十兵衛の大きな口から、はあぁ……と深い溜息がこぼれた。


「そう難しい顔をしてくれるでない。大きな身体を随分小さく丸め込んで…」


 鍋の中を若君が掻き混ぜている。十兵衛が手を伸ばそうとすると、若君は自分でやりたいからと首を横に振った。


「そうだ。もう少し小さな着物を用意してはくれぬか。そなたのでは、何処も彼処も余ってかなわぬ」

「ああ…すまねぇ、気が利かないな儂は」

「あの棚の上に置いてある葛籠つづらの中の衣は? そなたのにしては、小さかった」


 今、若君は十兵衛の着物を着ているのだが、狼の爪牙である十兵衛の寸法の着物では標準的な人間の若君は縦にも横にも余っている。篤実の言葉に、十兵衛は背後を振り返った。庵の一角に、普段十兵衛が触れない葛籠がある。


「仕舞いっぱなしで、どんな状態かわからねえ。虫食いやらシミやら。それに、あの中は……女物だ」

「…………トキ殿の形見か」


 十兵衛の説明で、篤実は事情を察したようだった。しかし十兵衛は食事の手を止めて立ち上がり、葛籠を床へと下ろす。


「……それでも良けりゃあ、どうか御覧になってくだせえ、若」

「良いのか」


 再び元の場所へ戻り、どかりと胡座を掻いて十兵衛は頷いた。肩の力を抜き、笑みを浮かべる。


「嫁に背中を引っぱたかれた気分だ。せっかくの着物を、何時まで黴臭くさせておく気かと。しかし、柄が何なのかわからん。それは若君がご自分で選んで頂こうかと」

かたじけない、十兵衛」


 夕餉を済ませた後に、篤実は碗を洗う十兵衛の後ろで葛籠を開けておトキの形見である着物を検めた。乾いた音と共に丁寧に広げている気配と、今手にしている着物がどの様な柄なのかを十兵衛へ説明する声がぽつりぽつりと響く。


「いちいち儂に言わずに、若君の好きな物を着て下さってかまわねえんだが」

「そうは行くまい。……想い出の物が有るだろう? そういった物は大事にしなければいけない」

「誰も着ない着物なんて、褌ほどの役にも立たねえんだ。これを機に整理しても構わねえと思ってるぐらいで」

「ならば尚のこと。そなたが想い出せるほどにおトキ殿のゆかりの品は、手元に残しておけ。何、干しておくだけなら余にも出来る」


 そうやって篤実と共におトキの着物を検めていると、十兵衛もふとまた新たな想い出が蘇る。篤実は穏やかな声で相槌を打ち、いつの間にか十兵衛の隣へと腰を下ろして寄りかかっていた。


 今は、おトキが普段からよく着ていた着物を膝の上で撫でているのか、するすると優しい音がする。


「十兵衛……余をおトキ殿の様に思って…と言うわけには行かぬか。余はお主に一方的に世話になるばかり、甘えてばかりだの」

「どうなさいましたか、若」


 篤実の言葉に何度も驚かされている十兵衛だが、此度は一瞬息が詰まった。


「いや、な」

「若君は誉れ高き帝のご子息。儂のような田舎の毛むくじゃらが……」

「――ふふっ」

「……篤実様?」


 柔らかく温かな四肢が、胡座を掻く十兵衛の膝に乗り上げ、腰に抱きついた。十兵衛が毛むくじゃらと言った、胸筋の厚い、白い毛皮に覆われた胸元に滑らかな頬が押し付けられる。


「ならば、余が親王でなければ良いのか……。しかしそうなると、先の戦で帝の息子を守り、敵を退けた一番槍の十兵衛に、親王でない余が釣り合うかどうか。うむ、しかしこの胸元は良い……何時までもうしていたい、よい毛並みよ」

「わっ……か……ぎみ」


 すう……と篤実が深く息を吸う。そんなことをされたら、己の獣くさいにおいを嗅がせてしまうと焦るが、若君の手足は確りと十兵衛の腰にまわされていた。若君のにおいも、より近くから十兵衛の嗅覚を擽る。心臓が戦太鼓の如く打ち鳴らされた。


「どうした、十兵衛。ああ……そなたの胸の音は心地良いな」

「……ぐるっ……」


 自分を落ち着けるために、十兵衛は閉じっぱなしの目を更に閉じたつもりで、喉を鳴らした。篤実の耳に、十兵衛の大きな身体の内側から響く低い喉鈴の音と心音が共鳴する。


「じゅうべえ」


 甘やかな声が十兵衛の鼓膜を震わせ、立ち耳がピクッと揺れた。篤実の身体はどこか猫のように曲線の動きでより十兵衛の身体に擦り寄せられる。


「ッ…………」


 十兵衛は己の股ぐらのものが篤実の据わりを悪くしやしないか気が気でなかった。


 そのような、男にとって蒸し風呂のような時間が暫く続き、腕が解けたと気が付いたときには篤実は眠ってしまっていた。

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