第二夜 槍は手放せど忠は離さず

四 若君の居る日々

 朝一番に、十兵衛は盥に湯を張り手拭いと糠袋ぬかぶくろを用意し、篤実へ行水を勧めた。篤実も此れを受け入れて、旅の汚れを落とす。

 その後十兵衛は、洗濯をするために盥の水を入れ替えながら、着替える途中の若君へ口を開いた。


「少し遠出をすりゃ、温泉も湧いてるが」

「よい。れで足りる」

「然様でございますか。……時に、替えの衣は何処に、若。いや……着物もですが、刀とか――」

「無い」


 篤実は間髪入れずに、はっきりと言い切った。薄々にそんな気はしていたのだが、こうも言い切られるとそれ以上深く尋ねるのは無礼に当たると、十兵衛は息を飲み込んだ。


「…………御身一つで都より遠路を見事。流石若君にございます」


 代わりにそんな言葉を、今一気の利かないと自負する頭から捻り出して、十兵衛は頭を下げた。その頭を、まだ水気を僅かに含んだ柔らかな手がそっと撫でる。


「余はそなたのそう云う振る舞いが、好ましい」


 篤実の、何処か淋しげな溜め息が、十兵衛の鼓膜を震わせた。


「一つ、頼みがある」

「儂に出来ることでしたら、この十兵衛、全身全霊をかけて」

「……外の者に、余の名は伏せてくれ」


「は?」


 篤実の申し出に十兵衛は顔を上げた。声とにおいと気配で、若君の顔と思しきに視線を合わせるようにする。


「いや、しかし……昨日の時点で若君のお姿は、この集落の他の者も見て…」

「余の名を知る者は、然程居るまい」

「……然様で…ございますか」


 十兵衛は再び口吻を下げた。


 十兵衛は噂話の類いが苦手である。噂話そのものよりも、噂話をする人間が好かなかった。それは武士として槍を振るうよりも前から、一貫して変わらない。人の事情に首を突っ込まず、口を挟まない。当然篤実も、十兵衛のそのような気性は承知していた。



「お主には、要らぬ苦労をかける事になるが、十兵衛」



 傅く十兵衛の首へ、しなやかな腕が伸びた。


「わかぎっ……」


 行水を済ませ、首に手拭いを掛けただけの、人の肌が十兵衛の首を胸元に抱き寄せた。昨晩褥の中でその身を抱え暖めた時よりも、篤実の身体をはっきりと感じ、其の柔らかさに思わず口に唾を溢れさせ、喉を鳴らして飲み込んだ。


「――お戯れが過ぎる、若」


 其の身を突き飛ばさぬように、細心の注意を払いながら身を離し、十兵衛は一歩後ろに下がった。


「儂の着物でよければ、出しましょう」

「…………ああ、頼む」


 昨晩の残りの芋粥を温め直し、茶を入れて朝餉を取る。その間も、十兵衛は気を抜くと今朝の淫らな夢を思い出してしまいそうになり、少しも気が休まらなかった。








 目は見えなくとも、今が朝なのか昼なのか、もう日が沈んだのかというのは、全身で感じ取ろうと思えば思いの外わかるものだ。


 朝に囀る鳥たちの声が一段落し、日差しを浴びた森は、雪解けと苔、そして土のにおいを漂わせる。



「十兵衛、今、栗鼠が外を走っていたぞ」


「十兵衛、雲がまるで兜のような形をしていた」


「十兵衛、かまどの火が踊るようでは無いか」



 静けさしか無かった庵に、篤実の声が色を添える。十兵衛はやや戸惑いながら、はしゃいだような若君に顔を向けた。


「若。目につくもの一々説明してたら、日が暮れちまう」


 若君はとうに元服を済ませた身である。ましてや、戦場では将として采配を振った男子おのこ。よほど十兵衛の庵が珍しいのかと最初は思ったのだが、よくよく注意して聞けばどうも違う。


「…………儂の目が見えねえからって、そんな風に気を遣われては、儂も何というか、恐れ多くも申し上げますが、困る……それに」


 篤実は、意識して何が見えているのかを、十兵衛へ伝えていたのだ。庵の傍を離れはしないのだが、チラリと外を覗いたり、中でそわそわと動き回っては十兵衛の隣へ戻って語る。たまらず、些か不自然に落ち着きの無い若を捕まえて、十兵衛は彼を布団へと転がした。布団の傍らに膝を突き、十兵衛は言う。


「若、眠れなくとも目を瞑っていてくださいませ。若君が考える以上に、今の若君は疲れておる。儂の目の届かぬ所で倒れられたりしてほしくない」


 結局夜の間、彼は狸寝入りを貫いていたのだ。十兵衛も似たようなものであったが、いつ意識を向けても若君は眠れていなかった。


「……そなたの鼾が五月蠅かった」

「そ、れは」


 ぐる…と喉を鳴らし返答に窮する十兵衛に、若君がフッと笑う。揶揄われたと察するも、十兵衛はそのまま口を閉じた。そんな獣人に、彼は肘をついて横臥し、やはり未だ眠らない。


「嘘を言った。許せ。……時に十兵衛、そなた妻君さいくんはどうした」


 急に話題を変えられて、またもや十兵衛は、暫し言葉に詰まった。暫し項垂れ、「死んでもうすぐ四年になります」と小さな声で返し、そのまま立ち上がろうとした。その十兵衛の着物の裾が、引き留められる。


「すまなかった……名は、トキ殿だったか」

「お……おぼえておいででしたか」

「飯の時間に、そなたが言っていた。自分には勿体ない嫁だと」


 する……と衣擦れの音を立てて、若君は半身を起こし、十兵衛の頬に触れる。灰銀の毛皮越しに、昨日よりも温かい指先が十兵衛には心地良かった。


「嫁は、トキとは……」


 十兵衛は、再び床に膝を突いた。はぁ……と零した吐息が、震えてしまう。


「うむ」


 再び布団に横になった若君の方へ顔を向けながら、十兵衛は時折ぐぅるると唸り、妻おトキの想い出を滔々と語った。思えば、妻が世を去ってから初めてのことであった。


 妻の墓に手を合わせる代わりに、数多の言葉を胸の内から取り出して語り尽くした後、二人はどちらから言うわけでもなく、共に横になり、気を失うように眠りに落ちた。

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