7時12分・結

「そういえば明音さ……最近、何かあった?」


恐る恐る、悠人が切り出した。


窓枠に寄りかかっていた明音の顔は悠人から見て少し逆光で、少し逡巡した表情の変化を悠人は気付かなかった。明音はうつむき顔を上げ、ひと息置いてから答える。


「何もないよ」

「うそだ」

「うそじゃないよ」

「……そっか」

「いや、引き下がるんかい」


明音が思わずといった調子で噴き出す。悠人は強く圧す勇気が出せない自分を情けなく思ったが、笑ってくれるならそれも良いか、と自嘲気味に笑みをこぼした。


2人揃って笑い合っている場面には変わりないが、前とはずいぶんと違う雰囲気になってしまった。言葉にこそ出さないが、自分でそう感じずにいられないし、きっと相手もそうなんだろう。悠人も明音も、同じように考えていた。


言葉が止まる。互いに相手の出方を窺うような態度を悟られないように取り繕い、するとまた何を言っていいか迷ってしまう。


時間が止まったこの状況を解き明かすことに夢中だった先程までとは一変し、どこかずしんとしたムードが漂っている。発端となったのは悠人の言葉であるが、そのことに後悔はしていなかった。だって他にチャンスなんてなかったから。

明音もまた、自分がもっと上手にごまかしていればすぐに違う話題に出来ていたかもしれないと思いながらも、でもそれでは意味がないとも思った。彼が一歩踏み込んでくれたんだから。


「なんか――最近ちゃんと話せてなかったから」


悠人が口火を切る。


「だから実は、こんな状況だけど嬉しかった」

「嬉しかったって?」明音は彼の答えを予想しながら、何気ない風の顔をして問う。

「普通に、前までみたいな感じで話せたから。あぁいや、最初はテンパってちゃってたけどさ、俺は」

「時間が止まってるんだもん、無理ないよ」

「明音が落ち着きすぎてたとも言える」

「落ち着いては無かったけどね」

「確かに。完全にテンション上がってた」


悠人の軽口に明音が笑い、それに釣られて悠人も笑う。今度こそ仲の良い2人が笑い合う、爽やかな光景になっていると互いに感じていた。


異常事態ながらも、いや、だからこそ、内心に抱えるものなく自然に話せていたのは確かだったし、2人とも以前のような居心地の良さを楽しんでいた。


「だから、それはそれで良かったんだけどさ」


上がった口角を引き締めて、悠人は続ける。


「やっぱ、ちゃんと明音と話したいと思って。最近の……変な感じというか、その、雰囲気というか」


実にキレの悪い言いぶり。悠人自身、もう少しスパッと言えないものかと自省しつつ、口から出てしまったものはしょうがない。元来こういう性分なのだ、と半ば開き直って平静を装う。


明音は悠人のその様子にはどうやら気づかず、膨らんだ形のまま静止しているカーテンをしばし弄んでから答える。


「うん、そうだね。私も私の変な感じはわかってた。だからさっきの何もないっていうのはうそ。ごめんね」

「いいよ」

「ありがと」


悠人の「いいよ」という即答が気持ち良い。明音は彼のこういうところが、人として凄く魅力的だと思っている。しかし、それでも。


「私さ、すっごい楽しそうだったでしょ、さっき」


ここまでの流れからすれば唐突にも思える話し出しに、悠人は内心戸惑いつつ、明音の次の言葉を聞こうと素直に応える。


「そうだった。テンション上がってるってさっきは言ったけど、それよりむしろ興味津々って感じだったかな」

「でしょ。私ああなっちゃうんだよね、好きなモノの話になると。意外だった?」

「……うん、見たことなかった」

「ああいう感じ、悠人の前では見せたことなかったと思う」


明音のその言い方に一抹の寂しさを感じる悠人。でも、じゃあ何故、自分の前で彼女はその顔を見せたことが無かったのかと考えてしまうと、ほのかに呼吸が浅くなる。


「悠人に知られたくなかった訳じゃないよ。隠してたつもりはない。でも、なんでだろうね。今までしなかったよね、好きなモノの話」


明音がSF好きであると、知らなかった。周りの友人からも聞いたことがなかったので、悠人だけを相手にして伏せていたということではないと言う彼女の言葉を疑う気もないが、だから安心できたかというと、そうではない。今までたまたまそのタイミングが訪れなかっただけ、ということではないと、明音の醸し出す雰囲気から悠人は察していた。


「だったら、これから色々教えてよ。今までしなかったなら、これからすれば」


悠人は薄く笑顔を浮かべて、務めて明るく言う。しかし、机に手を付いたまま顔を上げていない自分に気付いた。明音が今どんな表情をしているのかは、確かめられない。無意識に腕時計の文字盤に目を落とす。律儀にも、針は7時12分から微動だにしていない。


「悠人の好きなモノは?」


明音がおもむろにそう言い、悠人は待ち構えていたところとは違う質問が飛んできたことに、一瞬理解が遅れてしまう。


「え、お、俺の?」

「そう。私も聞いたことなかったなって」


そう問われると、確かに。

それはもちろん明音のことが……とでも言おうかとも思ったが、いくらなんでもこのにふさわしい返答ではないことは悠人にも分かった。悠人も何が好きで熱中していて、ということを明音と話したことは無い気がする。そして、何故話すことがなかったのかと、ふと思う。


「そうだな、なんだろう……音楽とか。親の影響でさ、好きなんだ。ちょっと古い音楽が。って言っても、ビートルズとか有名なのばっかりだけど」


つい慎重になって言葉を選んでしまう。知らないとか、興味ないとか、そう言われるかもしれないという不安が胸中に浮かんだ。明音がそんな突き放すような事を言う人間でないことは悠人にも分かっていたが、それでも出処不明の抵抗が立ちはだかった。


「初めて知った」

「初めて言ったよ」

「だよね」


逆に、今までは何を話していただろうかと悠人は思い返した。クラスの出来事とか昨日観たテレビのこととか、話題になっている配信マンガ、耳に残るCMのキャッチフレーズ、気まずい美容院の乗り切り方、今まで行った場所で一番遠いところ。


じゃあ、何を話していないだろうか? ビートルズやローリングストーンズ、クリーム、劇団四季や宝塚、変形合体するロボット玩具、文房具を分解する癖、炒飯を極めようとしていること、5回の家出経験。


明音はぴょいと跳ねて窓際から離れると、教室の中を当てもなくうろつく。悠人の次の言葉を待っているのか、あるいは自分の言葉を探しているのか。明音自身もしばし考えたのち、悠人の背中に向かって言う。


「好きなものの話ってさ、難しいよね。好きって何だろうね」

「これから話すよ。もっと。色んなことを」


反射的に悠人がそう発し、明音は少し驚いてぴたっと足を止める。悠人もまた自分で驚きつつも、彼女の言葉を遮りたい気持ちが口をついて出たのだと理解した。

明音もまた、そんな悠人が何を思ったのかすぐに勘付いていた。


「……うん、それも良いね」


意味深に「も」と付けたその言い方に、悠人はより焦りを募らせ、明音も少し後悔した。奥歯に物が挟まったような事を言っても、相手を無用に翻弄させるだけだとわかっているというのに。


ガタ、と音を立てて椅子から悠人が立ち上がり、彼は「わかった」と呟いた。

悠人の背後にいる明音から顔は見えない。彼も振り返ることなく、何を言おうというのか――


「よしっ、一回話を戻そう。どうしようか、この状況。時間止まったままだよ結局」

「えっ」

「明音も戻りたいって言ってたし」

「言ったけどさ」

「じゃあ解決しないと」


まさかの方向転換に戸惑いを隠せない明音。当の悠人は肩をぐるぐるを回しながら立ち歩いて気合を入れており、それが空元気でもあると見て取れる。ただまあ、この状況を放置している場合じゃないことは事実。


「それはそうだけど、この流れで?」

「だって実は、元に戻す手掛かりは何もない状態だよ」

「でもさ、今の流れで切るのはちょっと……さすがに中途半端って言うか」


当てもないジェスチャーで手をくうにくゆらせながら、明音が慎重に言う。即座に、はっきりとものを言わない自分にも比があると思った。

一方の悠人は悠人で、明音から見える横顔はバツが悪そうな表情だった。


「……ごめん。正直、わかった上で言ってる」

「うん、わかった上で言ってるってこともわかる」

「何て言うか、望ましくない方向に話が進みそうだったから」


なまじ一度ごまかしにかかったこともあってか、悠人は正直な言葉を口にする。明音が下手に確信を突いてくる前に、話をうやむやにしたかった。でもそれもあまり意味のないこととわかっている。そこまで含めて、なんだか恥ずかしくなってはにかむ。


「それもわかるけど」


呆れるように明音は笑う。しかし心から蔑んでいるのではなく、悠人らしいと思ってつい笑みがこぼれてしまった。


2人の間に穏やかな雰囲気が漂う。先ほどの悠人は中々に無茶なハンドルの切り方をしたと明音も悠人も思ったが、良い切り替えになったのかもしれない。風さえも止まっている今、勝手に空気が入れ替わることもないのだ。


「じゃあ話が止まったついでに……俺が止めたんだけど、ちょうど良いタイミングな気がするから」


思い付いたとばかりに悠人は、置いていた自分のスクールバッグを取り出し、中をあさり始めた。そして手をバッグから引き抜くと同時に言う。


「少し早いけど、誕生日プレゼント」


何を持っているか見留める前に、明音の頭に腕時計のことがよぎる。

悠人の手首には、明音があげた腕時計が巻かれていた。時間を確認しようと何度か目をやる様子にも――残念ながら時間は止まっているが――気付いていた。


悠人はバッグから取り出したを差し出す動作と共に振り返る。その動きがやけにスローに見えたのは、明音の緊張のせいか。


彼は四角い箱を手にしていた。細長い形状のその中身は、やはり腕時計……にしては全体的に大きい。


「これ何?」

「……バスボム」

「バスボム」


有名なブランドの店舗まで一人で行ってラッピングもしてもらった、慣れない場所なので結構緊張した――という悠人の説明を聞いていられなくなるくらい、明音は笑いが止まらなくなった。女子へのプレゼントとして、その〝いかにも〟なチョイス。自分があまりにも杞憂すぎることを考えていたことも笑いの一因だ。


「ちょっと、ははっ、そんなに笑わないでよ」

「ゴメン、ちょっと、予想外過ぎて」


悠人自身照れもあって、笑いが釣られる。ひとしきり笑い、明音の息が整ってきたところでやっと落ち着きを取り戻した。


「はー。ありがと、大事に使う」


明音は目じりを拭いながら悠人からバスボムを受け取る。実用的で消え物でそれなりにオシャレという、ちゃんと調べて用意したことが想像できるアイテムであり、そこからまた悠人の人柄が窺える。おかしなものを渡さないように考えたんだなぁと思うと、これまた笑いが込み上げそうになる。そうなる前に、自分の鞄に大事にしまった。


「ちょっと変な言い方になるかもしれないけど、最後まで聞いてね」


明音が鞄のチャックを閉め、机の横に掛け直しながら、穏やかに発した。


「私は、悠人のことが好きではないんだ」


どきり、と悠人の心臓が跳ねた。座るタイミングを逃してしまい、立ったまま明音の言葉を聞く。


「嫌いとか、一緒にいるのが辛いって事じゃないよ。楽しいし面白いことも沢山ある。でも、じゃあ、それが好きってことなのかなってずっと考えてる」


悠人は何も言わない。明音も彼の反応を待たず、そのまま続ける。


「私はね、SF小説が好き。SF映画が好き。設定とか世界観についてじっくり考えるのが好き。生き物、絵を描くこと、アニメと、アニメみたいな髪型、ふりかけをそのまま摘まんで食べるのとか、開けたてのティッシュの匂いを嗅ぐことも好き」


明音は指を折りながら、一つ一つ慈しむように口にしていく。


「悠人に告白された時、私、すごく嬉しかったんだ。だから二つ返事でOKしちゃった。私も告白されて驚いたけど、悠人の方が驚いて変な顔してた」


話題の変化を唐突だとは悠人は思わない。記憶を懐かしみながら、明音は顔をほころばせる。悠人も彼女に合わせて笑みを浮かべるが、少々ぎこちない。


「嬉しいからその気持ちに応えたかったってところもある。悠人といる時間は楽しかいよ。でも、なんか……好きだから付き合ってるんじゃなくて、『悠人の彼女』に一生懸命なろうとしてるだけ、なんじゃないかって思った。」


言わんとしていることを悠人はおおよそ理解していた。それでも彼女自身が紡ぐ言葉をじっと待った。


「ごまかしているように思えてきたんだ。自分の本当に好きなものの話は出来ないくせに、それだけ取り繕おうとしているみたいに。……この言い分も勝手だってわかってる。でもやっぱり、悠人に対しても失礼だし、何より自分で納得できなくなった」


耳が痛い、と悠人は思う。彼女の思うところは理解できるし、悠人にも覚えがある。自分が不安にならないように、「明音の彼氏」であることが揺れ動かないように静かに維持だけを続けていた。

その結果がまさに、今訪れている。


「だから、ごめん。本ッ当に勝手でごめん」


明音が悠人の方に向き直したのがわかる。まだ顔は見られないが、悠人のことを真っ直ぐに見据えていることがわかる。次に何を言おうとしているかもわかっている。

だから悠人が顔を上げるまで、相当な時間が掛かった。

ようやく、明音と悠人の目が合う。


「私は『悠人の彼女』をやめようと思う」


彼女らしい風変わりな言い方で、それは悠人に突き付けられた。自分が告白した時は、どうしようもなくテンプレートな文言を明音に告げていたことを頭の片隅で思い出した。


明音はその一言の後、ただ黙った。悠人の返答をじっと待っている。悠人もそれはわかってる。答えるべき言葉も、言うべきではない言葉もわかってる。全部わかってる。でもこの沈黙は、最後の抵抗として悠人に必要なものだった。止まった時間の中での長い沈黙というのも、随分と皮肉だ。


悠人は今日、この結末になることを予想していた。違う結末も予想していた。思い浮かべた無数の未来から一つを、せめて自らの意思で迎えるのだ。


「…………わかった。今まで甘えてばかりでごめん。俺も、 『明音の彼氏』をやめる」


最後の言葉は、渇いた喉の奥から必死に絞り出した。まともに聞き取れる声になっていなかったかもしれない。それでも悠人は言ったのだ。


明音も、ぼそ、と何か呟いて、ゆっくり頷いた。


間を空けて、どちらともなく大きく息を吸い込む音を鳴らし、そして思いっ切り吐いた。その動作は完璧に重なっており、その見事にシンクロ具合に、またしても同時に力の向けた笑いが漏れた。


相当な緊張を2人ともしていたのだろう。共に近くの椅子に倒れるように座り込み、ぐったりと脱力した。悠人と明音の間に流れる沈黙は、先程までの迷いの現れではない、マラソンを走り切った後のような「何も言えねぇ」な状態である。


ふと悠人が零す。


「……『何も言えねぇ』って陸上だっけ」

「水泳だよ」


明音が即座に返す。


それだけで、他に言葉を交わすことはない。


2人とも気付いていた。しかしなぜか妙なほどの納得感があり、もはや敢えて口に出して触れることは無かった。

なにせ原因からしてよくわからないのだ。


サッカー部の駆け回る音や鳥の鳴き声が外から聞こえてくることも、カーテンがしぼんで窓の脇に戻っていったことも、どこからともなく街行く人の気配がすることも、時計の針が動いていることも、今の2人にとってはあまりにも自然なことだった。


ガラ! と突然教室の扉が開かれたことには2人とも驚いて、そちらの方に顔を上げる。すると、クラスメイト・日南ひなみ朋佳ともかが、顔色を窺うように明音と悠人の顔を交互に見ていた。スカートの揺れと息切れが、彼女が急いでやって来たことを示している。


悠人には知る由もないが、明音が昨夜のうちに朋佳に今日のことを相談しており、心配した彼女はこっそり様子を見ようと時間を合わせて登校してきたのだった。それにしては騒々しい現れ方であったが。

朋佳は戸惑いつつ、口を開く。


「えーと……その、終わった?」


明音が頷く。


「うん、別れた」


それを聞いた朋佳は声にならない声をあげ、明音に飛びついた。2人の声しか存在しなかった先程までの時間が嘘のように、教室は彼女1人の存在だけであっという間に姦しい空間となった。

意外にも、悠人にとってもそれが心地よく感じた。


こうして悠人と明音は、7時13分を迎えた。


少し経てば、他のクラスメイト達も続々とやってくることだろう。


これから先、2人が言葉を交わす機会は減るのかもしれない。案外、増えるかもしれない。どうなるかはわからない。


明音達の時間は、また動き出した。そして、悠人達の時間は、もう止まらない。

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