天原明音の迷い

天原たかはら明音あかねは昨夜から迷っていた。


そのきっかけとなったのは一通のLINEである。

付き合ってもうすぐ半年になる彼氏・悠人から、「俺も同じ時間に登校する」とだけ送られてきた昨夜の連絡。朝早くに登校している明音に合わせて、彼もやってくるという。


文面だけ見れば、ただ行動を報告しているだけの簡素なものだが、明音は一目見た時に彼がどういうつもりであるか理解できた。


付き合って半年とは言うものの、この1ヶ月ほどは距離を取ってしまっていた。自分としてはそれとなく、態度に出ないようにしているつもりだったが、悠人は明らかに違和感を覚えてる様子だったし、明音もまたその様子に気付いてしまっていた。


初めは無意識のことだった。悠人と話していても、いつしか言葉を選ぶようになってしまったし、一緒にいても違うことを考えてしまう事が増えた。

自覚して改善しようと思っても中々直らず、それが申し訳なくなってしまい、余計に悠人と上手くコミュニケーションが取れなくなった。


彼のことが嫌いになったとか一緒にいるのが辛いとか、そういう風に感じている訳ではない。それでも違和感を与えてしまうような振る舞いを自分はしているし、そう思えば思う程、尚更どうして良いかわからなくなった。いや、本当は、わからなくはない。


悠人からのLINEは、その状況に痺れを切らしてのことだろうとすぐに理解できた。


そして何より先に感じたことは、不安だった。


彼が自分に時間を合わせて登校してくれば、それはつまり邪魔のいない2人きりの状況が出来上がることを意味しており、そこで何を話せばいいのか、明音は答えが出せなかった。それでも無碍に突き放すわけにはいかず「わかった」とだけ返信した。


何故こんなことになってしまったんだろうとつい考えてしまうこともあるが、原因は自分にある。わかっていることだが、それでも考えてしまう。


彼と付き合い始めた頃を思い出すと、楽しいことばかり思い浮かぶ。


元を辿れば、悠人から好意を寄せられていることに全く気付いていなかった。自分達のクラスは割と男女関係なく皆仲が良く、悠人と言葉を交わすことも何度もあったが、あくまでクラスの友達の一人くらいの認識だった。


ある時「コアラの絵柄を確認せずに食べる派」だと話したら、クラスメイト達には中々共感されない中で唯一悠人が味方をしてくれたことがあり、その時に彼を「いいヤツ」だと思った。でもそれくらいだった。


だから彼に告白された時、明音は驚きを隠せなかった。本当にもう、すごいびっくりした。


もっと言えば、誰かに好意を持たれるなんてことを今まで想像していなかった。自分が恋愛をするなんて考えてもみなかった。だからこそすごく驚いてしまったのだが、それ以上に嬉しく感じている自分がいて、それにもまた驚いた。


彼の気持ちに応えたいという衝動が湧いて出て、「付き合ってほしい」という悠人の言葉に、迷うよりも先に「はい」と答えていた。

なぜか自分以上に悠人が驚いていたことをよく覚えている。その後はにかみながら笑顔を浮かべる彼のことが愛おしく思えた自分の心の動きを覚えている。


それから明音は悠人の彼女になり、悠人は明音の彼氏となった。


友達の一人だった関係からのステップアップは、やはり最初はぎこちなかった。

いざ2人きりになってみると、照れ臭さのような気まずさのような雰囲気に気を取られて、中々会話が続かない。しまいには「ご趣味は?」なんて聞いてしまう始末で、それはそれで2人して笑いが止まらなくなってしまった良い思い出である。


それでもいつしか打ち解けて、付き合いたてのぎこちなさも笑い話になった。

学校でも気軽に話すようになったし、夜な夜なLINEのやり取りを続けては寝る時間が遅くなった。会話の〆のつもりでスタンプを送って、それにスタンプが返ってきて、なんてし始めたらまた長くなる。


朝早くに登校していることを悠人に話したのもその頃だった。どういう流れで言ったのかは忘れてしまったが、むしろ悠人が滅法朝に弱いという話題になった気がする。朝一発で起きるコツを問われたので、「気合い」と答えたら笑われた。


そして悠人は、早く起きなくてはいけないなら夜のLINEは控えようと申し訳なさそうに提案してくれた。それはそれで寂しさを感じながらも、やっぱり「いいヤツ」だなと嬉しく思った。それでも明音がたまにスタンプをピッと送ると、ペッと返してくれた。


悠人の誕生日はずいぶんと緊張したものである。彼女たるものしっかりと祝わなければと変な使命感に囚われてしまい、必要以上にお金の掛かるプランに行き着いてしまいかけた。気を取り直して、高校生なりにいつもは入らない良いカフェでちょっとしたサプライズを仕掛けることにした。


バレないように誕生日当日ではなく少し前の日曜日に設定したものの、いつもと違う雰囲気だけに悠人にはおそらく勘付かれていて、そして何より自分がおしゃれな雰囲気に圧倒されてしまい、その意味でも緊張が解れなかった。予約していたバースデープレートがいざ運ばれてくると、花火が刺さってパチパチと弾けていて、我ながらいかにも過ぎるサプライズをしていることに明音から先に笑ってしまった。


いかにも過ぎるサプライズに笑い合う2人の光景は、いかにも仲睦まじい幸せなカップルのそれだと、明音は自分でも強く感じていた。自分は悠人の彼女であり、悠人は自分の彼氏。誰が見ても疑わない世界であると明音は思った。


その頃くらいから明音は、「好き」ってなんだろうと考えるようになった。


悠人ともすっかり打ち解けて、教室でもよく2人でいるようになり、クラスメイトにも公認のカップルになっていた。一緒に帰ったり、休日に出掛けたり、2人で過ごす時間もすっかり増えていた。


話題も尽きず、彼と何か話せば必ずひと笑い起こるような時間を過ごしていた。クラスの出来事や昨日観たテレビ、通りにあるハンバーガー屋の新メニュー、使いにくいカメラアプリ、道端に落ちていた変な物、どうしても言えない早口言葉、子どもの頃の勘違い、眠れない夜のこと。


彼氏彼女の関係である以上に、なんでも楽しく話せる関係になれていると明音は感じていた。そして同じように悠人も感じている、と思う。


しかし、映画や小説の好きなジャンルが緻密に作り込まれたSFや多層で不可解なホラーであるとか、哺乳類とはまるで異なる器官を有する鳥や魚の生態に興味がやまないとか、部屋の窓から見える景色をスケッチするのが習慣であるとか、いつか髪型をピンク色の坊主にしたいと思ってるとか、そういった話が出来ずにいた。


明音が心から思っていることや、本当に好きなこと、憧れていることが、悠人との会話の中で話題に出来ない。


誰にも知られたくないこと、という訳じゃない。むしろ理解わかり合える相手と心ゆくまで話してみたい。


だからこそ、理解してもらえなかった時のことを思うと二の足を踏んでしまう。同時に、何が好きかを知っただけで中途半端に理解できたと、人に思われることも嫌だった。悠人がそんな品のない考え方をする人間ではないことは分かっているつもりだが、どうしても開くことのできない最後の扉が明音の中にはずっとあった。


心から好きなものの話を、恋人にすることが出来ない。自分の中にある抵抗そのものが、明音の心に引っ掛かる。


そう思うと、そもそもの疑問が湧いてくる。恋人ってなんだ。私って、悠人の恋人なんだっけ。


悠人の彼女であるとはずっと思っていた。悠人は私の彼氏であるとも思っている。2人の関係をずっと、楽しく、喜びに満ちたものだと感じてきた。


恋人。私、悠人に恋していたんだっけ。悠人のことが好きなんだったっけ。


ポトンと滴が落ちるように明音の胸の内で生まれた疑問は、いくら頭で考えても消えることはなかった。


SFもホラーも生き物も好きだ。じゃあ、悠人のことは? 一緒にいて楽しい。彼と話すのが楽しい。笑ってくれる顔がもっと見たいと思う。


でも好きなのかと考えると、喉の奥が詰まる。元来、理屈っぽい性分でもあるので、明確に確信できない限りは、適当に答えを出すことも出来なかった。


その疑問がいつしか明音を支配してしまっていた。そして、態度として表に出てしまっていたのだと思う。悠人にもそれが伝わってしまったのだろう。会話をするにしても、私はこれが本当に言いたいことなんだっけ。楽しい、嬉しいことの、一番がこれなんだっけ。なんで私は今、悠人と話しているんだっけ。


自分でも上手くコントロールできない変な態度が、相手に伝わってしまっている。そのことを自覚してしまうと、これまた余計に変な感じになってしまう。それが尚更相手に違和感を与えてしまう。その繰り返し。


何より、自分に好意を寄せてくれている悠人に対して失礼だと思った。どうにかしたいと思うばかりで焦りだけ膨らみ、何をするにも彼を避けるように動いてしまう。


どう説明していいかわからないので、仲の良い友達に相談することもできず、むしろ様子の変化を悟られて気まずい。何事もないように振る舞っても、それがまた空元気だと悟られて心配されてしまう。心から思いやってくれる良い友達を持ったな、とだけは強く感じられるのが救いだ。


こういう時は他の全ても調子が悪くなるというのが明音の常で、ある朝、ずっと愛用していた腕時計を踏んづけて壊してしまった。眼鏡なり脆いものならまだしも、腕時計を壊すとは。って言うかなんで腕時計が床に転がっているんだ。


スマホがあるので時間の確認に困ることは無いにしても、小学3年生の頃に最初の一つを親からプレゼントされて以来、お風呂に入って眠って朝を迎えるまでの間以外は、明音の右手首には常に腕時計を巻かれていた。無いまま出掛けようとするとバランスを崩して転びそうになってしまうくらい、彼女にとってはそこになくてはならないものだった。

それを踏んづけて壊してしまう辺り、昨今の明音の迷いがいかに大きいかが現れている。


まあ、何度か替えている中でもこいつは一番長く使っていたものであり、随分くたびれていたのも事実なので、新調するにはちょうどいい機会でもあった。次の休み、すぐに買いに行った。悠人からそれとなくデートの誘いがあったのを断ってしまったが、それは一人でこだわって選びたかったから……だけが理由ではない。


私も言ってももう高校生だし、今までよりも少し背伸びしてもいいのでは、なんて独り言ちながらも選んだ新しい腕時計は、予想をはるかに上回る素晴らしい出会いとなった。


マットな薄目のグレーは大人びた落ち着きがありつつ可愛らしい。装飾はほとんど無いながら文字盤は敢えて大きさを崩していて遊びがある。何より軽く、デザインに無駄がないので時刻がひと目見てわかりやすい。そして価格もお手頃。自分が気に入るものを程よい金額で、というのはこれからも明音の中で揺らぐことのない価値観だ。


こりゃ良い買い物をした、と自室で眺めているさなかに、ふと気が付いたことがある。そう言えばもうすぐ私の誕生日だ。


自分への少し早い誕生日プレゼントにはぴったりの代物であるが、一方、悠人のことが気になった。


彼の誕生日、明音があげたプレゼントは腕時計であった。普段から腕時計を着けていない悠人だったが、試しに使ってごらんよ、とあげたものである。思えばそれは、唯一明音が自分の心から好きなものを彼に提示した瞬間でもあった。


その時、自分の使っている腕時計の話もした。今着けているのはもう何年も前に買ったものだから調子が悪い、とも言った。

もしかしたら、悠人は誕生日プレゼントとして新しい腕時計を用意しているのではないか。明音はそう思い至った。


もし本当に悠人が腕時計をプレゼントしてきた時、どんな顔をすればいいだろう。「もう持ってる」なんて自分は言ってしまわないだろうか。喜びのリアクションをしたとしても、それは嘘でしかないんじゃないんか。


そんなことを考えていたところに悠人からのLINEが届いた。彼が何を思って自分と2人の時間を作ろうとしているのか、すぐにわかった。


そしてその時、何を話せばいいのか。明音にはわからなかった。それが明音の迷いであり、不安の正体だった。布団に入ってもすぐには眠りに就けず、朝の登校中も足が重い。



という戸惑いを抱えている中、時間が止まるという超常現象を自分が体験しようとは、明音としては不安どころではないというものである。


こんなことって本当にあるの?


え、こんなことって本当にあんの!?

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