続・7時12分
「ねえ見て、空のあっちの方」
「うん」
「コーラの瓶みたいなのが浮かんでる。あれって鳥だよね。飛んでる最中の」
「そうだね」
「こう飛び上がって、滑空しようとちょうど翼を畳んだ瞬間に、時間が止まったってことだよ。ああいう飛び方する鳥って何だったかなぁ」
「そうだね」
「……興味ない? 鳥」
「いや……鳥って言うか、さすがに順応早すぎると思って。ちょっと俺はそんな、すぐには」
窓から身を乗り出したまま振り返る明音と、自分の席に座ったまま目を伏せるばかりの悠人。彼の「順応早すぎる」の言葉の通りに、時が止まった中での2人の様子は大きく違う。
「明音も何分か前までは狼狽えてたのに……あぁいや、1分も経ってないのか、いや経ってはいるか、俺らは」
「そりゃあ、びっくりはしたし今も平常心ってわけじゃないけどさ」
「俺からしたらめちゃくちゃ平常心に見えるよ」
「混乱だけしててもどうしようもないじゃん。解決のためには周囲の観察だって大事だよ」
「そうだけどさぁ……」
時間が止まり、7時12分をいつまでも過ごしている明音と悠人の2人。その自体が発覚した時こそ狼狽えていた明音だったが、いつしか落ち着きを取り戻し、改めて窓の外を眺めている様子はどこか楽しげでもあった。
一方で困惑し通しの悠人。そんな彼を尻目に、明音は「そうだ」と呟くとおもむろに教室の外へ出て、いずこへと去っていく。
その背中を引き止めたくなってしまうが、これ以上呆れられたらと思うと、悠人は何も言えなかった。明音に向かって伸ばしかけた右手が虚しい。
右手を自身の顎を支えるために組み直し、ひとつ溜息をつくと、ふと思う。
「そういえば、教室の外って出て大丈夫なのかな」
窓から見える〝外〟の景色は、紛れもなく時が止まっている。宙に浮いて微動だにしないサッカーボールなど、悠人はこれまで見たことがない。
そして教室の中にいる明音と悠人だけは、なぜか時が止まった状態にあらず、動くことも話すことも出来る。無論、2人でコミュニケーションを取ることも出来た。
ではこの教室から出たらどうなる?
時間が止まっているこの状況、何が、どこまでの範囲に起きている?
もしも、この範囲よりも内側だけは特別に動いていられる、という状況だとしたら。
明音の時間まで止まってしまったら。
止まった時間の中に、自分だけが取り残されてしまったら。
首筋に
教室から頭だけを出し、廊下に向かって叫ぶ。
「明音!!!」
悠人の目線の先にはちょうど、びくっと驚いて肩をすくませる明音の姿があった。
「な、何、どしたの。すごい音しなかった、今?」
明音の動いている様子に、ほっと胸を撫で下ろす悠人。どこから見つけてきたのか、彼女は使い古されたバレーボールを一つ手にしていた。
教室から離れてしまったら明音まで外のサッカー部員のように止まってしまうかもしれない――そう考えたら焦ってしまったことを説明すると、明音はすぐに腑落ちしたようだった。
「心配してくれてありがと。でもさ、それで言ったら、教室の時計とか止まってるし。教室の中かどうかって話じゃないんだよ、たぶん」
そう言われて、確かにと納得する悠人。
壁に掛けられた時計も、風に揺れるカーテンも、あまつさえ悠人の持つスマホも止まった時の中にあることを、その目で既に見ていたのだ。もちろん明音のスマホも同様であり、単なる不調で反応しないだけではないことも確認済みであった。
「だとしたら尚更わけわかんないな……なんで俺らだけ動いてるんだ」
「ね。それに椅子とか机は動かせるし、扉も開けるし」
そう言って明音は両手に抱えていたボールを傍らに置き、膨らんだ形のまま静止していたカーテンを右手でそっと押す。
「カーテンも動くし……あ、でもすごい、見て。押した分だけ形は変わるけど、変わったそのままじゃなくて最初の止まった状態に戻るよ」
その大きな白い布は、明音の手をゆっくりと飲み込んでは、彼女の手を引く動作に合わせて空気を吸い込んでいくように形を取り戻す。そして明音の手が離れたら、窓から吹き込む風になびいていた元の状態となって再び止まった。無論、今のところ風は吹いていない。
「変なの」
「変すぎるよ」
「そうそう。モノによってルールが違うっていうか」
「ん? ルール? いや、どういうこと」
時が止まったという意味不明なこの状況まるごと含めて「変」だと明音は言ったのだと思い、悠人は同意したつもりだったが、想定と異なる返答だったことで余計に戸惑う。
後方に回り込んでいた明音に「ねえ」と呼ばれて悠人が振り返ると、バン、という音が鳴って丸い影が目の前へと迫ってきた。咄嗟に両手を出して構えると、その丸い影は手の中にすっぽりと収まり、悠人の視界の大半をふさいだ。
それが先ほど明音が抱えていたバレーボールであったと悠人が気づいたのは、詰まった呼吸を取り戻してからである。
ボールの影から皆既日食のように顔を出して、グーサインを向けてくる明音。
「ナイスキャッチ」
「びっくりしたぁ……」
ともすれば怪我でもしかねない行為ではあるが、悠人が明音への不満を感じることはなかった。キャッチに成功した両手に残る感触から、ごく弱い力でボールを投げたことがわかっていたからだ。床にワンバウンドさせて緩やかな軌道で跳ねたこともあり、顔面に真っ直ぐぶつかるような威力も持っていなかっただろう。ただし、
「急に投げるのはやめてよ」
驚かされたことについては軽く抗議する悠人。
「ごめん」
明音も承知していたようで、すぐに謝意を込めて両手を合わせた。ただし、心から申し訳なさそうな様子というよりも、舌を出して茶目っ気のある表情を見せる。
どこか気まぐれな明音との付き合いの中で、こういう悪戯めいたやり取りはよく行われており、悠人からしてももう慣れたものである。なので悠人もひとこと言った後は彼女の様子に苦笑するだけであった。何より、可愛らしく思えてしまって、他には何を言う気にもならないというのが本音である。
それよりも悠人は、今のキャッチボールによって先程の明音の言葉、「ルール」と言ったその意味を理解するに至っていた。不満が湧かないのは、そちらに気が向いていたからでもあった。
「なるほど……。カーテンは押したら元に戻るのに、ボールは投げることも動かすことも出来るってことか」
ボール自体を眺めてもしょうがないとわかっていつつ、悠人はつい縦に横にとまじまじ観察しては、理解の正体をそこに求めてしまう。
「椅子とか机もね。でも時計は止まってる。自動で動くものは、時間が止まったら動けなくなるってことなのかな」
「ははぁ」
カーテンとボールを例に使って、時間の止まったこの状況における違いを端的に示されては、さすがの悠人も理解が追い付いてくる。
それでも、やっと状況が飲み込めてきた程度の悠人を差し置いて、先へ先へと考察を進めている明音。解決のためには観察も大事、とは言っていたが、やはり順応が早いと悠人は思った。
自分も解決の助けとなるために、否、彼女のペースに追い付きたくてやれることは無いかと企む悠人。すると机から書きかけのルーズリーフが出てきた。
明音は再び窓際に立ち、外を見つめたまま何か考え込んでいた。少し上に顔を向けており、空の方向を眺めている。彼女の隣で、悠人の腕がにゅっと外へと伸びる。
「あ、」
明音が気づくと同時に、悠人の手から放たれた流線形は真っ直ぐに飛んで、わかるかわからないかくらいの緩やかな弧を描きながら伸びていき、その後2人が視認できる範囲の外側へと消えていった。
明音が悠人の方に振り返る。
「ダメじゃん、ゴミ投げ捨てたら」
「紙飛行機だよ。この状況でも普通に飛ぶのかっていう実験。それにしても、今までで一番綺麗に飛んだかも」
「風が吹いていない――ううん、風も時間が止まっているから、横に流されずに真っすぐ進んだんだね」
「なるほどなぁ」
やはり状況の理解、というより分析に頭を働かせるまでのスピードが格段に早い明音。悠人が肩をすくませたことに明音は気付かなかった。
窓の外、校庭で相も変わらずサッカーに熱中している――姿のまま止まっている――サッカー部の面々を改めて目にし、悠人はどこか気が滅入るような感覚になった。深い深いため息が出そうになったところをこっそりと飲み込んで、再度自分の席に腰を掛ける。
「時間が止まっているっていう状況はさすがにわかったけどさ。じゃあこれを解決するにはどうすれば良いかって、正直それは全く分からないままだよな」
気を取り直した悠人は、窓際に佇む明音の背中に問い掛ける。すると明音は振り返って、しばし逡巡する様子を見せた後、口を開いた。
「悠人はこの状況、解決したいって思う?」
「え、どういうこと?」
「時間が止まって、私たち2人以外は止まってしまって……こんな異常な世界、元通りに戻ってほしいと思う?」
時間が止まったこの状態を「異常な世界」と断言しながらも、明音は悠人の意思を問うてくる。
彼女の質問の意図が、悠人にはわからなかった。先程まで周囲の観察と考察に徹していた姿は、確かに状況を解決するための糸口を探しているように見えていたからだ。にもかかわらず、何故改まってこのような質問を投げかけてくるのか。
YESと答えたら? NOと答えたら? その時、明音がどのような反応を見せるのか。それさえもわからなくなる。そう思うと、悠人は明音のその真っ直ぐなまなざしに向けて、どちらの答えを返すことも出来なかった。
「なんでそんな事、わざわざ聞くんだよ。だったら明音はどうなの、」
「私は解決したい。一刻も早く……って時間止まってるからこの言い方は合わないか。とにかくまた時間が動いている状態に戻りたい。だってやっぱりおかしいよ。楽しんでばっかりいられない」
悠人の言葉を遮るように明音は言う。ひと息にまくし立てるその様子はヒステリックなようで、彼女のその声色にも表情にも焦燥の色は見えない。むしろ落ち着いて、頼もしいくらいであった。頼もしいというのは、悠人にとっては初めからそうであるが。
「なら俺に聞くまでもないことでしょ。って言うか、俺だって解決したいし。いつまでもこんな朝早い感じのままの天気じゃ、眩しくて落ち着かないもんな」
自分では答えられなかった一つの結論を明音が出したことで、悠人は安堵してしまう。その内心を察せられないように矢継ぎ早に言葉を並べていることが自分でもわかる。明音はふっと笑って頷いた。
「うん、そうだね。一緒にどうにかしよう」
「もちろん、2人で一緒に」
顔を見合わせて、2人で頷き合う。
先程から悠人は、明音の目を見ることに緊張してしまっていた。それは質問の意図がわからない故の困惑ではなく、目を見続けていると何か見抜かれてしまうのではないかという、不安のようなものだった。それとも、とっくに見抜かれているのか。
「じゃ、作戦会議といきますか」
「へ」
神妙な雰囲気から一転して、切り替えの早い明音の様子に、思わず変な声が出てしまう悠人。明音は意に介さず、悠人の方に向き直して窓枠にもたれかかる。その動作をしばし眺めたのち、悠人は疑問を口にした。
「作戦会議っつっても……何をどうすれば」
「なんで時間止まっちゃったのかわかんないから、まずはそれを突き止めたいな。ループものだったら大抵、ループを抜ける条件みたいなのがあるんだけどなぁ」
「詳しいなぁ」
素直な感想を、つい間髪入れずに口にしてしまう悠人。明音は照れ臭そうに笑うと、ごまかすように言った。
「本とか映画とか、この手のジャンルが好きなんだよね。いやぁ、まさかそれが自分の身に降りかかろうとは」
「やっぱり楽しんでるじゃん」
悠人のツッコミに明音はふふんと笑い、それ以上は何も答えなかった。やはり彼女は楽しんでいるのだと悠人は確信を得た。
そして内心では悠人も、むしろ悠人の方が、よっぽどこの状況を楽しんでいた。
事態が発覚した時こそ困惑で頭がいっぱいになってしまっていたが、奇しくも、明音と気兼ねなく言葉を交わし合えているではないか。冷静になってくると、悠人の中では喜びの方が増していった。
最近の明音はどこか余所余所しく、話をしてもさして盛り上がりもせず、悠人自身もどうしていいかわからず少し距離を取ってしまっていた。
「時間が止まった」という異常事態とは言え、願ってもみない2人だけの共通の話題が奇しくも生まれたわけだ。前みたいに会話ができて嬉しいというのが悠人の本音である。
しかし喜んでばかりはいられないのも事実。
本来こうして明音が1人でいる時間を狙って登校したのは、他でもなく、明音ときちんと話をするためだ。
「災い転じて福となす」ではないが、想定以上に究極の2人きりの空間が出来ているこの状況。どうせ時間が止まっているのだから、多少解決を後回しにしたところで1秒の遅れも発生しない。ならばちょっとくらい都合よく利用させてもらっても良いだろう。
悠人はそう考え、改まって明音に声を掛けた。
急に湧いてきた緊張を押し殺して、なるべく気軽に、何気なく。
「そういえば明音さ……最近、何かあった?」
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