出水悠人の憂鬱

出水いずみ悠人ゆうとは朝から憂鬱だった。


その理由は、いつもよりも随分と早く起きて、いつもよりも早い時間に今まさに登校している最中だから……ではない。それは目的に対する手段であって、あくまで副作用みたいなものだ。


瞼も身体も重くて仕方がないことは事実にしても、だったら最初ハナから早起きなんてしなければ良い、なんていう結論に悠人が辿り着くことはなかった。果たさなくてはいけない〝目的〟が彼にはあるのだ。


同じクラスの付き合っている彼女・明音あかねに会って話をする。

そのために悠人は2時間近く早く起きて、学校に向かっているのだ。母親に今日は弁当を作らなくてよいと告げた時は、理由を聞かれてもはぐらかした。


彼女は日頃から誰よりも先に登校している。さすがに部活動の朝練組ほどではないが、少なくとも朝練も何もなく普通に登校してくる生徒と比べたら、彼女よりも早く教室に現れる者はそういない。


その理由は「満員電車を避けるため」であると以前に悠人は聞いたことがある。


明音が登校するために使う路線は、大勢のサラリーマンが会社通勤によく利用するもので、自宅と学校の位置関係からして他のルートを使えない彼女は、この路線に乗るしかない。

普通に登校しようとすると通勤ラッシュにぶつかるため、ピークタイムから外した早い時間に登校することを選んだのだと言う。


はじめに明音から聞いた時は、「確かに毎朝のように満員電車に乗るのは辛いよなぁ」「どうせなら座りたいし」なんて内心思いながら聞き流していたが、いざ自分がその時間に合わせてみると、この時間に起きるというのも相当辛い。明音よりは遅い起床であり遅い登校であるのだが、それでも朝が弱い悠人には楽とは言えなかった。


満員電車か起床時間か、その二つを天秤に掛けてどちらが傾くのかは当然個人の感覚によるが、それにしてもよくやるものだと、あくびを噛み殺しながら思った。


ともかく、明音と2人きりの空間で話すためには、彼女の登校時間に合わせて自分も登校するほかないと思い至り、こうして眠い目を擦ってやって来たのだ。


明音とは、付き合ってから間もなく6ヶ月を迎えようとしているが、まともな会話をしなくなって1ヶ月近く経つ。


最近は、LINEをしてもやり取りは2,3往復程度ですぐに終わってしまい、学校でも周りの目を気にしてしまって深い話をするには至らない。むしろその様子を知ったクラスメイトに、もっぱら「あいつら何かあった?」と噂されている。


どちらかが一方的に避けているわけではないが、いつからか何やら気まずく、以前のように楽しく話すことが出来なくなってしまった。

うまくやれていたはずなのに何故こんな風になってしまったのだろう、と悠人は思う。


だからこそ、改めて明音と話がしたい。


そして、もう一度仲睦まじくいられた頃の関係に戻りたい。


向こうが素っ気ないから、つい自分も距離を取って、ドライな態度を見せてしまっていた。その自覚もあるし、鑑みて反省もしている。もっと早く、すがり付いてでも話をするべきだったじゃないか。


そう思ったのは、もうすぐ明音の誕生日だからだ。


付き合い始めたばかりの頃、互いの誕生日がいつかを確認し合って、その日が来たら目一杯祝福し合おうと誓ったのだ。

実際、その少し後に悠人の誕生日を迎えた時は、2人で高校生なりのささやかなパーティーをした。明音が準備し、バレバレなサプライズを仕掛けられた悠人は大袈裟に驚いて見せて、2人で笑った。楽しかったなぁ、嬉しかったなぁ、と今でも悠人はその時の事を思い出す。


その日悠人は、自分のことを祝ってもらった喜び以上に、今日よりもずっと豪華で楽しく、とびきりのサプライズを用意して、自分が感じた以上の喜びを明音に感じさせてあげたい、そう思って、必ずやそれを実現して見せると心に誓ったのだ。

無論、サプライズが前提なので、その決意を明音に直接伝えることはなかったのだが。


もしこのまま、その日が訪れてしまったら、あの頃思い描いていた楽しいパーティーにはならないだろう。

仮に強引にサプライズを仕掛けたとしても、とても成功するとは悠人に思えない。むしろ明音の喜びの色も何もない冷めた表情がリアルに思い浮かんでしまい、さすがに実行する勇気は出なかった。


こうしたイベントに頼って、空元気を振りかざして盛り上げようとするのは悪手であると理解できていた。だから悠人は、明音の誕生日を迎えるよりも前に、まずは2人で話がしたい。そう思ったのだ。


悠人は明音のことが好きだった。それは紛れもなく本心から思えること。本当に好きだった。


告白したのも、悠人からだった。


別に勝算はなかった。所謂、当たって砕けろのつもりの告白だった。それまでは普通の友達という感じで、話さないことはないが、あくまで男友達の一人という感じだった。特別仲の良い、公然のカップルであるような雰囲気ではなかった。


だからむしろ、振られてもすぐに友達関係に戻れる、そんなタイミングの内に伝えようと思った。冗談めかしてこの気持ちを打ち明けるくらいで、ちょっとしたウケがあって片付く程の出来事に収まれば、それはそれで良いと思った。


そう思うくらいに手応えは無かった。アプローチと言えるほどの事は、今にして思えばまともにしていなかった。それでも、会えば話すし、クラスメイトと些細な議論が巻き起これば――例えば「きのこ」か「たけのこ」かとかそういう――明音の味方について、あわよくば好意を持たれるように立ち回ってたりもした。


それでも明音から、自身に対しての好意を感じることはなかった。もちろん周囲からそのような話を聞くこともなかった。


やっぱり、自分は明音にとっては大勢いる男友達の中の一人でしかないだろうと思っていた。


だから、今のうちに告白した。死ぬ程傷つくくらいになる前に処理しておこうと思ったのだ。


と思っていたら、まさかのOKの返事を貰った。


その時の悠人は驚きを隠せなかった。本当にもう、すごいびっくりした。実際、承諾の返事に対して声を挙げてしまい、その様子を少々不審がられてしまったくらいだった。間違いなく真剣な本心からの告白であり、喜びのあまりおかしなリアクションになってしまったのだと、必死に説明する羽目になった。


そこから、明音との恋人関係が始まった。


初めの頃は少しぎこちなくも、2人で過ごす機会が増えるにつれ、段階を踏んで打ち解けていった。


いや、明音は元から誰に対しても気さくでフラットな態度で接していたし、悠人に対してもそうだった。だからこそ彼女のことを好きになったとも言える。悠人自身は、付き合い始めて関係が変わった分、少々緊張を覚えてしまうくらいだった。


突然の告白に、拍子抜けするくらいにあっさりとOKされたことも、「別に今彼氏もいないし、とりあえず付き合うだけ付き合うか。気に入らなかったらすぐに別れればいいし」みたいな感覚なのかも、とも考えたが、真意を直接問うことはすぐには出来なかった。


それでも、会話や時間の共有を重ねて、悠人しか知らない明音の姿を見ることが確かに多くなっているように感じた。

昼食の誘いも、毎夜の連絡も、休日に会う提案も、どちらともなく互いからするようになったし、学校で喋る時も、デート中も、明音の笑顔が増えた気がした。その笑顔は以前よりも柔らかく、彼女の素の表情に思える。いつしか、何でも話せる関係になれていたと思う。


正直、告白の日以降、面と向かって「好きだ」と伝えることは気恥ずかしくて中々できないし、向こうからも言葉にして言われたことは無い。それでも、悠人から告白して成立したカップルと言えど、自分たちは確かに良い関係を築けている。悠人はそう確信していた。


その結実として、悠人の誕生日を祝ってくれたはずだ。

明音にカフェへと呼び出されたかと思えば、何やらそわそわしているところに豪勢なプレートが運ばれてきて、予想通りに「HAPPY BIRTHDAY」の文字が書かれていた。

「わかりやすすぎ」なんて笑っている振りをして、嬉し涙をごまかしたりした。プレゼントとして貰った腕時計もあれから毎日着けている。


それからは尚更明音のことが好きになったし、大切にしようと思った。


部活だったり友達との約束だったり、今までは明音よりもことを優先してしまう時もあったが、もっと明音と一緒にいる時間を増やそうと思った。登校するとか、休みの日に会うとか、毎日連絡してみたりとか。


そんな矢先である。


明音の誕生日が近づいてきたな、と一人ソワソワし始めていた。と言ってもまだひと月くらいはある頃である。しかし、こういうのは事前の準備が命なのだ。意識し始めるのにも早いに越したことは無い。


最初は、悠人の方が少しばかり余所余所しく振舞ってしまっていたのだと思った。だって明音を驚かせ、そして喜ばせるためには、祝う準備を進めるにしてもバレてはいけない。

だからやましいことではないにしても明音に対して秘密を抱えている状態だ。その引け目が無意識に態度として出てしまっていたのかもしれないと思った。だが、どうやらそうではないらしい。


明音がなんだか余所余所しい。


なんで? 俺これからあなたの誕生日祝うつもりなんですけど?


ちょっと前まで良い感じだったじゃん。


返信が前より遅くなった。返す内容もどこか投げやりになっている気がした。「そうだね」だけとか。即レスだと思ったらスタンプだけとか。


会って話すと、全然普通だった。でも他の友達に呼ばれたりすると俺との会話は切り上げてしまうようになった。


休みの日の誘いも断られる回数が増えた気がする。と言うより、断る理由がずいぶんと曖昧になった。「あー……、ごめん。その日はちょっと」だって。いや、ダメならダメでそれは全然良いんだけど。


これは、もしかして……浮気されてるってやつ?


いやいや、態度の変化を感じてるだけで、他には証拠も何もない。思い込みだけで疑うのは良くない。

一緒にいる時に誰かとやり取りしてるとか、誰かからのプレゼントらしきものを身に付けてるとか、今のところはそういうのは、無い。はず。


じゃあ何だ。普通に嫌われ始めてる? だとしたら一番きついんですけど。


話せば普通。普通なんだよ。今まで通りの明音。


普通だからこそ、聞こうにもなんか聞けなくて。「最近、何かちょっと変じゃない?」とか「俺、何かした?」とか。チャンスを窺うものの、いざ明音の顔を見ると言葉が出せない。


そうこうしている内に、モヤモヤを抱えたまま1ヶ月近く経ってしまったのである。近しい友人には雰囲気から察されていたらしく、それとなく「お前ら何かあった?」と聞かれ、悠人はうやむやにごまかすことしか出来なかった。


そして周囲が気づきつつあるという事実が決定打となり、悠人の危機感を刺激した。


だから悠人は2時間近く早く起きて、学校に向かっているのだ。

明音と直接会って、2人きりで話す。


正直、明音が誰よりも先に登校していることは知っていたことだから、決意さえしていればもっと早くこの手段を取ることは出来た。しかし、明音と話すことがそれはそれで怖くて踏ん切りがつかなかった。


それでも間もなく訪れる明音の誕生日を、この状態で迎えることは出来ない。


だから、ともかく決定事項にしてしまおうと、昨夜の内に明音に「俺も同じ時間に登校する」と送った。思っていたよりもすぐに「わかった」とだけ返信がきて、彼女も悠人の意図を理解したのだと思った。


ふと、鞄の奥底に忍ばせた、悠人の想いを形取った〝それ〟を側面から革越しにそっと撫でる。これを明音に渡すことが出来たら、もしかしたら。


「よし」と口の中で小さく呟いて、気を引き締める。朝練に精を出す運動部を横目にしつつ、明音の待ち受ける教室へと向かった。



という勝負の朝だと言うのに、時間が止まるなどという異常事態に見舞われてしまっては、悠人としても愕然とせずにいられない訳である。


とんだ災難。


本当に、とんだ災難だ。

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