【KAC20245】会話禁止の居酒屋

こなひじきβ

会話禁止の居酒屋

 店内では他の客とはなさないでください。


 くたびれたスーツを着た俺は、マジックペンで大きくそう書かれている立て看板を見つけた。ネオンライトに照らされ、仕事終わりのサラリーマン達の雑踏や笑い声に包まれているこの街中で、目を閉じ耳を塞いでしまいたくなる俺にとってはとても魅力的な注意書きに見えた。


 ……もう少しだけ、吞んでから帰るか。


 まだ足取りは正常で、酔いに浸るにはもうちょっとだけ足りないと思っていた所だった。かといって向かいの店のような今にもジョッキを割ってしまいそうな勢いでぶつけ合っている連中の横ではあまり酔う気分になれない。目の前の暖簾をくぐり、一杯か二杯だけ吞んでいく事に決めたのである。入口のやや古臭い引き戸をカラカラと引いた。


 店内はぼやけた明かり一つのみで薄暗く、少し寂れた居酒屋だなという第一印象だった。席はほぼ満員であり、隣の人と肩がぶつかりそうな距離感だ。メニューも各席のテーブルにあり、調理をしている店員と直接向き合う席のみとなっている。しかし他の店と決定的に違う所がある。まずはテーブル席が無い事。パッと見た感じだと、仲間数人で来ているという感じでなく、皆目の前の料理や飲み物にだけ意識を向けている様子だ。そして更に奇妙なのは、誰も口を開いていないという点だ。呑み屋で口を開かないというのは何とも珍妙な光景であるが、これがこの店の雰囲気であり。


 店頭の注意書き通り、誰も会話はおろか一人言も漏らさない。店員はトントンと包丁の音を穏やかに立てていて、客たちはビールを飲む嚥下えんげ音や軟骨を食べる咀嚼音を控えめに鳴らすのみ。先程まで同僚との付き合いで飲んでいた空間とは正反対のように思えた。


 こりゃあいいや、とちょうど見つけた空席にそっと腰掛ける。無愛想な目つきをした店員は俺の顔を見るとどこからか一枚の付箋を俺の前に置いた。そこには注文はメニュー指差しで、とだけ書かれていた。なるほど徹底しているな、と感心しながら適当に酒を注文する。指差しがしやすいようにメニューの表記はかなり大きめだ。


 沈黙の間に浸っていた俺の目の前に、大きな氷が入った透明な液体、とどのつまり日本酒が置かれた。わざわざこんな言い回しをしてしまう辺り、気分で既に酔い始めているのだろう。街の五月蠅うるささを忘れられる時間が実に心地良いのである。コップに口をつけると、これまでの呑み会でガバガバと喉を通してお腹に入れていた酒とは全く違う味わいだった。思わず店員に尋ねてしまいそうになったのを口を抑えてグッとこらえた。何故なら俺は、吞み慣れた名前の日本酒を頼んだはずだったのに、いざ口に運んだらこれが格別に旨かったのだから、思わずカッと目を見開いてマジマジとコップを見つめてしまった。


 そういえば、俺はこれまで酒を付き合いでしか吞んでこなかったなと思い返して感じた。いつも選んでいる品種は、一番最初の呑み会でとりあえずこれにしとくか、と何も知らずに頼んだものだ。なるほどこれが酒の味なのか、と舌を巻いたのを覚えている。その後は他の酒も試してみていたのだが、どうも自分の口に合わなかった。だから結局いつもの日本酒に戻ってきてしまう。


 けれど、それなら今俺の目の前にあるものは一体何なのだろうか。確かに後味を思い返したらおなじみの味であるとわかった。調理場の横に置いてある酒瓶は、間違いなくよく知っているものだ。しかし何かが違う。


 ふと他の客の様子を見た。すると何かに想いを馳せてうっとりとほほ笑むOLもいれば、表情からは気持ちが読み取れない堅物そうな白髪のじいさんと、客層も様々である。しかし何となくだが、この店に行きついた客たちは、俺と同じように騒がしい日々から抜け出してきたのだろうと推測した。そう思うと、仲間意識のような感情が俺の中に芽生えていたことに気が付いた。これもきっと、居心地の良さの要因となっているのであろう。



 ……ぐすっ。


 みっつ程隣に座っている客だろうか、壮年の男性からすすり泣く声が漏れ出していた。暗くて遠い位置にいる彼は俯いていて顔は見えないが、時折涙の粒が零れ落ちているのが見えた。俺にはそんな彼に対してわざわざ顔を覗き込むような趣味はない。すぐに顔を向けるのを止める。他の客も、店員も同じように彼に話しかけたり触れたりする事はない。そんな事をしたらマナー違反になる。


 ああ、そうか。俺は気づいた。ここは一人の時間をゆっくりと味わい、気づかせてくれる場所なのだと。


 同じはずの酒の味がいつもと違ったのは、酒とちゃんと向き合ってよく味わったから。仲間との会話やその場のノリのほうに意識が向いているために、こうしてじっくりと味わう機会は今まで無かったのである。今嗚咽を漏らしている壮年の男性も、自分と向き合う時間を設けた事で、何か思う所があったのだろう。実は俺も今、酒の味に感動しすぎて感涙してしまいそうなのだ。こんな事で泣いていたら同僚に笑われてしまう所だが、ここではそんな事を気にする必要もない。なんだ、最高の店を見つけてしまったなと心がじんわりと温かくなっていくのを感じる。酔いとはまた違う高揚感に満たされ、俺の人生がガラリと変えられてしまった瞬間だった。


 

 勿論、会計の時も店を出るときも声は発さない。ただお代を出してそっと店を出るだけだ。この上ない感謝を店員に伝えたくても、言葉で伝えることが禁止されているためなんとももどかしい。客が店に出来る最大の貢献は、また店に来て売り上げに貢献する事ぐらいだ。俺もこの店の常連になろうと心に誓った。


 良いことだらけな店だったが、ただ一つだけ欠点があった。こんなに良い店なのに……いや、いい店だからこそ、あまり人に教える気になれないという点である。これからもこっそりと、何度も通わせてもらいたいものだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【KAC20245】会話禁止の居酒屋 こなひじきβ @konahijiki-b

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ