在原清春の追憶

おめがじょん

在原清春の追憶



 飯田橋にあるマンションの一室。

 在原清春はその部屋で身支度を整え終えると、ベッドサイドに座り込んだ。

 布団の中にくるまっているのはセフレ七号。名前はよく覚えていない。バツイチの一回り以上年上の女性だった。

 

「そろそろ帰るよ」


「ん……。もうそんな時間なのね」


 布団の中からそんな声がしたと思うと、もぞもぞと動いて女が顔を出した。

 そして悪戯っぽく笑うと、


「清春も意外と可愛いとこがあるのね」


「どんなとこ?」


「寝てる時、あたしの手をずっと握ってたよ」


 フン、と鼻で笑って誤魔化すが内心少し焦っていた。

 そんな趣味はなかった筈だ、と。今まで寝た無数の女達からもそんな事を言われた記憶もない。

  

「いつか清春も、本当に大事な人ができたら手を離しちゃダメだよ。一生後悔するから」


 知っているよ、とは言わない。かつて清春も一番大事な人と繋いでいた手を離したからだ。だが、その選択が間違っていたとは思っていない。現に母は今も幸せに暮らしているからだ。結果は出している。そして彼女もまた紆余曲折あって、今は夫と子供とは長く会っていない事も知っている。

 この話題は無言のまま流すのが良い。そう判断したが彼女は続けた。


「子供と手を繋げる時期なんて短い事をあたしはわかっていなかった。今はただ祈るのみよ。あの子がその手を大事な誰かと繋いでいて欲しいって」


 母もそう願っているのだろうか──否、己の記憶は一切ない筈だ。願いようがない。あまり続けたくない話だったので、清春はそのまま「じゃ」と短い挨拶だけしてマンションを出た。日曜の夕方過ぎともなれば人通りも減ってくる時間だ。飯田橋のマンションからそのまま市ヶ谷方面に向かって歩き出した。

 根城にしている女子寮に帰る前に小腹がすいた。


(中華だな)


 死ぬ程ヤりまくったので今晩は行為を控えたいし精もつけたい。

 大学までの道のりに行きつけの中華屋があるので、そこで晩御飯を食べようと決めた。市ヶ谷駅まで歩く事数十分。駅の近くの路地裏にある小さな町中華の暖簾を清春は「ちゃーす」と言いながらくぐる。客は一人のみだった。見知った顔だ。セルフサービスの水を汲んで、挨拶する事もなくその客の正面テーブルに着席した。


「ねーさん。オレ、回鍋肉定大盛りライスダブルで」


 給仕のおばちゃんに爽やかな笑顔を作って注文する。

 目の前に座って毎回頭を下げて作って貰っている「肉抜き回鍋肉」を食べているのは同級生の伊庭八代だ。テレビで流れる夕方の料理番組を横目で見ながら幸せそうに肉抜き回鍋肉を食べている。


「この後寮祭やるけど来る?」


「今日はパス。明日は一限から女の発表の見学に行かなきゃならねェ」


「よくやるぜ。一限に出るなんて正気じゃないよ」


 しょうもない会話を続けていると清春の頼んだ大盛り回鍋肉。ライス二倍が届いた。通常の大盛りよりも明らかに肉の量が多い。八代が悲鳴のような抗議をあげた。


「ちょっとおばちゃん!? 清春だけ肉の量多くない!? ずるい!」


「アンタの肉抜きの分を入れてあげただけだよ。文句言うならもう肉抜き割引しないよ」


「くっそおおおおおおお!!! ごめんなさぁぁぁい!!!!!」


 八代が嘆く一方で、清春は「ありがと。またお土産買ってくるね」なんて手を振るファンサまでしている。

 

「八方美人クソ野郎め」


「こういう事が出来ないからお前はモテないんだよ」


「相手おばちゃんだぞ!?」


「おばちゃんとか若い女とかそんなの関係ねェ。女性には等しく優しくしろ。まずはそこからだ」


 給仕のおばちゃんがうんうんと頷きながら追加で中華スープを持ってきた。本来チャーハンにしかつかないものだが、当たり前のように清春の前に置いて厨房へと戻っていく。あまりの対応の差に八代ががっくりと項垂れた。清春はそんな八代を無視して回鍋肉定食を口に運んでいく。

 

「来週の木曜夜、歌舞伎でどっかVIPとってよ」


「TK2ならイケそう。その日勤務だし。誰と?」


「キャバ。店はアクシス」


「ああ、アクシスなら大丈夫。ケツ一緒だし。揉めてる人いないよね?」


「それは聞いてない。なんかあったらまた連絡する」


 ぽつぽつと会話をしながらお互いの食事を口に運んでいく。

 性格が全く違う八代と清春だが夜遊びが好きという共通点があり、仲は意外と悪くない。無言になっても気まずくならないのも気安い。会話が終わるとまた黙々と食べ始める。店員たちもやる気が無くなったのか、冷蔵庫から自前の缶ビールを取り出して飲み始めている。


「ご馳走様でした」


 先に食べ終わった八代が小銭入れをひっくり返して枚数を数え始めた。全財産らしい。八代が数えている間に清春も食べ終わり、財布から千円札を取り出して「一緒に払っといて。釣りはやる」と渡す。ニッコニコでパシられた八代は厨房近くのレジまで歩いて行き会計を始めた。

 

「これ持ってけってさ」


「マジで? ありがとーございます。いただきます」


 どうしてかわからないが八代がビールの缶を二本貰っていた。

 おばちゃんに手を振って店を出る。お互い食後の一服をしたい気分だったので駅近くの公園へと自然に足を進めた。何故か公園なのに灰皿があるのだ。人の姿はない。これ幸いにと灰皿近くのベンチに座って乾杯をし、一服つける。美味しいご飯を食べれば忘れるかと思ったが、清春はまだ少しモヤっていた。紫煙と共に言葉を吐きだしていく。


「お前、女と手ェ繋いだ事ある?」


「流石にあるさ。母ちゃんと妹と…………」


 言葉が止まった。あまりに悲惨過ぎて流石の清春も同情の気持ちすら湧いてくる。


「今日ヤった女にさ。本当に大事な人が出来たら手を離すなよって言われてめっちゃモヤってるんだよ。そうしなきゃならない事だってあるだろ」


 特に理解してほしいわけではない。何がどうまで語る気もなかった。

 だが、それなりに付き合いのある八代はすぐに母親の事だなと大体察した。

 基本的に付き合ってる女の愚痴は漏らさない男だ。こういう時は大体母親の事で悩んでいるという事はわかっている。男友達が八代ぐらいしかいないので八代はそれに気づいているが、清春にその自覚はなかった。


「僕もそう思うけど、それならそれでいいじゃん」


「まぁ……そうなんだけどよ……」


「多分、お前がそれが最善だと思えなくなるぐらい力を身に着けたからそう思うんじゃない?」


 ああ、と八代の言葉に胸の中で同意の感情が沸き上がって来た。

 バカのくせに気持ちの言語化が上手い所がある。結局のところ、そういう事なのだと清春もわかってきた。今の自分なら母の手を離さないで良い選択肢がとれそうなのだ。だから、あんな些細な言葉一つにひっかかってしまう。後悔してしまう。あの幸せの中に自分も入りたいと願ってしまう。それが最善ではないとわかっていても願ってしまう。


「うっわ……。凄ェな。自己嫌悪に陥りそうだ」


「そうか? でも良かったじゃん。次に大事な人が出来たら、手を離さないで済むんでしょ?」


 その言葉に自分のやってきた事が少しだけ報われたような気がして、在原清春は夜空を見上げて返事の代わりに紫煙を吐き出した。



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