05. それぞれの「今日」

 約三十分の開封動画を見終えたときには、もうすぐ零時れいじになろうとしていた。


 開封されていたパックは、藍染あいぞめ先生も買っていたし、人気のシリーズなのだろう。それにしても、なにかが引っかかる。最後の配信事故――といえるのだろうか――で、配信者の名前がバレてしまったわけだけれど……ええと、なんて呼ばれていたっけ。


 まあ、それはべつにいいか。さっさと眠ってしまおう。アラームよし。まだまだ寒い季節だ。ふとんにくるまって、温もりがたくわえられていくのを待つ。次第に眠気も生じてくる。


 芭蕉ばしょう先輩……少しでもよくなっただろうか。はやく元気な姿を見たい。ぼくも風邪をひかないように、気をつけないと。


     *     *     *


【階段の踊り場で】


兎花うか、おはよう!」

「あっ、おはよう。昨日は、鱗雲うろこぐもくんがいてくれて助かったわ。午後から玖留実くるみの授業のTAもあるっていうから、ちょっと申し訳ないことをしたなって」


 藍染兎花あいぞめうか教授と胡桃玖留実ことうくるみ教授は、教員の研究室が並ぶ廊下に通じる階段の踊り場で、このような会話を交わしていた。


「そういえば、論文の執筆は進んでる?」

「期日通りに……というか、大分ゆとりがあるわ。査読にかかってからが大変になると思うけれど。玖留実は、来週の土曜日に学会発表があるんだっけ?」

「うん、移行期正義学会でね」

「あっ、兎花、玖留実、おはよう」


 邪魔にならないように、踊り場の隅の方に身体を寄せて、ふたりが近況を交換し合っていると、階段の上から――黒色のタートルネックの上に、グレーのダブルボタンのジャケットを羽織り、紅色のプリーツスカートを身に付けた……クラシカルな雰囲気をまとっている――いつも通りオシャレな神凪湖畔かんなぎこはん教授が姿を見せた。


「相変わらず湖畔は、来るのが早いわねえ」

「いつ学生が来てもいいようにね。わたしの研究室は《アジール》みたいなものだから」


 このとき神凪教授は、前にいた大学での「あのこと」について思いを巡らせていた。しかし追想の霧をふりはらって、藍染教授にこうたずねた。


「寝不足みたいだけど、どうしたの?」

 わたしの表情にある微妙な疲れをよく見つけるな、と感心する藍染教授。

「興奮で眠れなかったのよ。すっごく欲しかったものを手に入れることができたからねっ」

 これを聞いたふたりの頭の中に「ハテナ」が浮かんだのはもちろんだった。


     *     *     *


【青風芭蕉の想い】


「……これで、今学期の授業は終わりになります。テストはノートの持ち込みを可にしますので、がんばってくださいね。そして、来年度からこの授業は、新しくうちの学部に着任される先生が担当されます」


 どこからか、「ええー」という学生の残念がる声が聞こえてきた。秋から履修をして、来年の春にもこの授業を取りたいと思っていたのかもしれない。


「思い入れのある授業ですし、バフチンだったりバルトだったり、もっと紹介したい批評家や哲学者はいたのですが、それはすべて、新しい先生に引き継いでもらえたらと期待しています。それでは、この一年間、お疲れ様でした。ちゃんと単位を取ってくださいね。わたしも、甘くつけることはできないので」


 新しく着任される先生が、どういう方なのかは分からないけれど、「かっこかわいいひとだよ」とだけ、藍染先生から聞いている。きっと、没交渉ぼっこうしょうというわけにはいかないだろうし……うまく付き合えたらいいな。


「青風さん、一年間、お疲れ様でした。とっても助かった。もしよければ、新しい先生のアシスタントもしてくれると嬉しいな。たぶん、一年目だと、勝手が分からないだろうし。もちろん、青風さんも忙しくなるだろうから、無理強むりじいはしないけれど」


 先生と別れて、大学院生専用の研究室へと向かう。先週、わたしの代わりにティーチング・アシスタントをしてくれた鱗雲くんに、たくさん感謝しないといけない。


 まだ、春には遠い。来年のいまごろは、鱗雲くんが、自分の机を片付けはじめていることだろう。


 感傷が心身をひんやりとさせる。不意に、涙がこみあげてくる。立ち止まり、空を仰ぎ、いつもの表情で会うために、こころを落ち着かせようと、がんばってみる。



 〈了〉

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パックの開封が終わったら論文を書きますので 紫鳥コウ @Smilitary

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